鞄の中のマグネット
いないといいなと思っているときほど、その人はいるものだ。
タイミングが合わなくてなかなか姿を見ないときもあるのだが、今日のひよりは外に出ることもなくずっと自分の席で仕事をしていた。白瀬も今日は隣の席にいるので思い切って渡してもいいのだが、やはりひよりがいるとそちらに持っていかれないか心配になる。この前は白瀬に渡そうとしていたが、いらないと言われたら遠慮はしなさそうだ。
昨日買った紅茶に付いていたマグネットは今、和季の鞄の中にある。
ちらりと横目で白瀬の姿を見る。
白瀬は昨日のことなんか忘れたように、普段どおりに仕事をしている。和季のことなんか全く気にしていないようだ。
昨日の慌てっぷりを考えると少しは気にしてくれてもいいのではないかと思ってしまう。仕事の時は集中のあまり他のことは考えてもいないのだろうか。眼中にないのはちょっとさみしい。
今は諦めて、仕事に向き直る。それでも、鞄の中のマグネットが頭の片隅に引っかかってしまう。
こんな風に渡せるか渡せないかやきもきしているなんて、まるで好きな人にバレンタインのチョコを渡そうとしている中学生女子みたいではないか。などという考えが浮かんでしまう。
好きな人……。
中学生女子みたいな思考よりも、一瞬思い浮かんだそのワードが急に心の中で大きくなる。
違う。
ただ、たまたまいつもお世話になっている白瀬の好きなものを見つけたから、喜んでくれたらちょっと嬉しいと思ってしまったから。それだけだ。
違う、と思う。
困ったときに助けてくれたり、考え方が好きだったり、変なところで恥ずかしがったり、ふとしたときに見せる笑顔が実は結構可愛かったり、車を運転する姿が男前だったり……。
考え始めたら妙に意識してしまって困る。
なんだか変だ。顔まで勝手に赤くなってきている気がする。火照っているのが自分でわかる。
白瀬は和季よりもずっと年上だ。相手になんてしてもらえるわけがない。などと考えてしまうのは本当に白瀬が好きだからだろうか。急に意識してしまってどうしようもなくなる。
今は仕事中だ。集中しろ、集中しろ、と雑念を必死で振り払う。気にするから余計にいけないのだ。気にしなければいいだけの話なのだ。変な動きでもして当の白瀬におかしいと思われるのも困る。
意識して白瀬の方を見ないようにしようとするほど何故か視界の端に入ってしまう。隣の席にいるから仕方ないのだが、今は困る。
こう意識してしまっては、昨日のマグネットを渡すどころの話ではない。急にそんなものを渡しておかしいと思われないかと心配になる。
急に電話が鳴った。思わず身体がびくりと反応する。
その動きに気付いたのか、白瀬が不思議そうにこちらを見た。目が合って慌てて逸らす。逸らしてから後悔する。絶対変に思われた。別に、いつもみたいに顔を見合わせたりすればよかっただけだったのに。
松下がいつものように電話の向こうに話している声も耳に入ってこない。声自体は音として聞こえているのだが、内容が全然わからない。
「はい」
急に白瀬の声がして、立ち上がった音がした。
振り向くと、白瀬が松下の席へ向かうところだった。どうやら松下に呼ばれて返事をしていたらしい。いつの間にか電話も切っていたようだ。それすらも気付かなかった。
「ちょっと難しそうな人みたいだから、白瀬さんに頼もうと思ってね。いいかな」
「はい。どんな感じですか?」
松下と白瀬が、担当の生き返りについて話している。難しめの人は白瀬に頼むと松下も安心なようだ。
やはり和季はまだまだ敵わない存在だ。横に並べないことが悔しくもあるが、仕事が出来ると信頼されている白瀬が誇らしくもある。
自分のことでもないのに。
斜め前の席にいる霧島を見ても、特に気にしている様子はない。白瀬の方が難しい仕事を任されていても何も思っていないようだ。むしろ、楽が出来ていいと思っているのかもしれない。きっとそうだ。
白瀬はすでに出るための準備をしている。逆の時は白瀬は和季が準備しているところを見ていてくれるが、和季が白瀬の為に出来ることは特にない。
白瀬が出て行こうとする。
「あ、あの、白瀬さん」
「なに?」
白瀬が振り向く。
白瀬がいつもしてくれているように声だけでも掛けようと思ったのだが、自分よりも出来ない人にがんばってくださいなどと言われても気分が悪いだけかもしれない。
声を掛けたものの何を言えばいいのか、わからなくなる。
「あ、えっと、気を付けて行ってきてください!」
で、慌てて考えた言葉がそれだった。
「うん。安全運転で行ってくるね」
前の運転のことを言われたと思ったのか白瀬は少し笑って答えてから、部屋を出て行った。




