課長のコーヒー
同じ建物内だというのに、生き返り課への道のりは果てしなく遠く感じた。ほとんど移動にも時間がかかっていないし、話していたのも長い間ではなかったのに、なんだか疲れた。
でも、なんとか一日目は乗り切ることができた。
会っていたときは大変な人に当たってしまったと思ったが、ずっと一緒にいなくてもいいだけ楽かもしれない。
「おかえり、萩本君」
生き返り課のドアを開けると、すぐに松下が声を掛けてくれた。
「どうだったかい?」
「はい。ええと、なんとか大丈夫でした」
「それならよかった」
答えつつ、色々と自信は無い。
「お疲れ様。思ったより早かったね。ん? なんかぐったりしてる?」
机に向かっていた白瀬も、和季が席に着くと同時に心配そうに顔を覗き込む。
そんなに疲れて見えるだろうか。
確かに人見知りの和樹にとって、初対面の人と会って話すのは体力と精神力をかなり消費する。車を運転したわけでもなく、ロビーまでエレベーターで行って、話して帰ってきただけなのにこのざまだ。
「どうだった?」
「あ、はい。会社の片づけとか色々やることがあると言われて、すぐにお帰りになりました。手伝ってもらうことなんかないと、バッサリ言われてしまって……。それで、こんなに早く終わってしまったんです。あ、きちんと出来ることがないか聞いたには聞いたんです。でも、僕には手伝えないようなことらしくて」
説明している内に、しっかりとやれていたかどうか段々不安になってくる。
「そっか」
白瀬は僅かに眉間にしわを寄せた。そんな顔をされると余計に心配だ。
「何かまずかったでしょうか? もっと突っ込んで聞いた方がよかった、とか」
恐る恐る聞いてみる。
ただ、聞いたところで深入りさせてくれるような人ではなさそうだった。
「ううん、生き返りにも色んな人がいるから、本当に手助けなんて鬱陶しいと思う人もいるんだよ。だから、一概には言えない。けど、明日もう一度聞いてみてもいいかもね。気が変わることもあるかもしれないし」
「そうですね」
答えながら、気が変わることは無さそうだと思う。なんでも一人で出来そうな人だった。自分に自信があって、人に手助けしてもらうのなんかまっぴらだと体中で表現しているように見えた。
白瀬が言うまでもなく、和樹のことを鬱陶しいと思っている様子だったことだし、無駄に干渉しない方が良さそうな気がする。
「萩本君」
後ろから声を掛けられて振り向くと、コーヒーカップを持った松下が立っていた。
「はい、どうぞ」
和季の机の上にコーヒーを置いてくれる。片手にはもう一つカップを持っている。
「す、すみません! 課長にコーヒーを淹れて頂いてしまって」
和季は思わず立ち上がる。
松下は、にこにこといつもの微笑みを浮かべている。この人の笑顔を見ていると、心が穏やかになる。癒やし系、と言ってもいいくらいだ。
「家に着くまでが遠足。生き返りの方を送り出すまでが生き返り課のお仕事だからね。あと二日がんばって」
名言のような、遠足の朝の校長の話のようなものを言い残して、松下が自分の席へ戻っていく。片手に持っていたコーヒーは自分の分だったらしい。
「コーヒー、冷めないうちに飲んだ方がいいんじゃない?」
さっきまで真面目な顔で話していた白瀬が、何故か笑いを堪えているような顔をしている。思い出し笑いか何かだろうか。
「あ、そうですね」
白瀬の表情の意味がわからないまま、マグカップに口をつける。確かに、せっかく松下に淹れてもらったのに冷めてしまってはもったいない。のだが、
「う」
コーヒーが口の中に入ってきた途端に、声を漏らしてしまった。
「……甘い」
ものすごい甘さだ。目が覚めるというか、脳が溶けそうというか。コーヒーを飲んでいると言うより、コーヒー風味の何か甘いものを口に入れている気分だ。悪戯か何かだろうかと勘ぐってしまう。松下がそんなことをするようには見えないが。
そっと、松下の顔を伺う。松下は美味しそうにコーヒーを飲んでいた。まさか、自分のために淹れたものは普通の味なのだろうか。和季が見ていることに気付いて、松下がこちらを見る。
「甘いものは、疲れにいいんだよ」
全く悪気の無さそうな顔で微笑む。
「そ、そうですね」
そんな笑顔で言われては、悪戯ですか? などと聞くことは出来ない。かわりに横目で白瀬の方を見る。
白瀬が和季の方に近付いて、小声で何かを囁く。小さすぎて聞こえない。
「なんですか?」
ちょいちょいと、白瀬が手招きする。耳を近付ける。近い。近すぎる。けれど、白瀬はそんなこと全く気にしていない様子だ。そして、囁く。耳がくすぐったい。
「課長はものすごい甘党なの。課長のコーヒーはみんな一回で懲りるんだ」
ということは、白瀬もこれを飲んだことがあるということだ。二人で和季に悪戯でも仕掛けたのかと思ってしまった。
松下が不思議そうにこちらを見ている。
視線を感じて目をやると、向かいの席のひよりまでもがにやにやしていた。




