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美術館の匂い

「あ」


 部屋の中に足を踏み入れた和季は思わず声を上げた。アパートの中には所狭しと並べられた油絵があった。それでようやく、さっきの臭いについて思い当たった。

 美術館の匂いだ。


「すみません。散らかってて」

「坂田さんが描かれたんですか?」

「……はい」


 白瀬の質問に、坂田がぼそりと答える。

 部屋の中は散らかってなどいなかった。木製のイーゼルの上に載った描かれたばかりの油絵、床に散らばっている絵具や筆たちをそういった一般的な言葉で言ってしまうのならば、散らかっているということになるのだろう。しかし、生活の場として散らかっているという言葉どおりの意味を想像していた和季にとっては、日常を越えた光景だった。畳につかないように配慮してか、イーゼルの下には新聞紙も敷かれている。

 生活に必要なものは最低限といった感じの部屋だ。


「人が来ることなんか想定してないもんで……、その辺適当に座ってください。あ、絵の具つかないように気を付けてください。油絵の具はついたら取れませんから」


 日常的にそうしているのがわかるような慣れた動作で、坂田が畳の上に座る。


「では、失礼します」


 白瀬は一応絵の具が付かないように気を付けているのか、ざっと足元を見てから畳の上に正座する。一人だけ突っ立っているわけにもいかないので、和季もそれに倣う。


「病院で渡された書類はありますか?」

「あ、はい。これですね」

「拝見します」


 坂田が差し出した書類を白瀬が確認する。和季はじっとその様子を見つめていた。そのうち一人でこなさなければならないことだ。

 ただ、部屋の中にあるたくさんの油絵が気になることも事実だった。

 どの絵にも街の光景が描かれている。なんでもないただの街角、車の行き交う交差点、確かにここはアパートの中なのに、どこか知らない街に迷い込んでしまったかのようだ。どの絵も鬱々としている、という表現が似合いそうだ。こうして囲まれていると、今にも誰かの足音や、話し声が聞こえてくるのでは無いかと錯覚してしまう。どの絵も、色調はどんよりと暗い。

 そして、イーゼルの上に置かれたまだ絵の具の乾ききっていない真新しい風景。薄暗い路地に置かれた、タイヤの無い古ぼけた自転車。干からびた植物の生える植木鉢。

 この絵にはどんな物語があるのだろう。


「こちらが生き返り証です」


 白瀬の声に和季はハッと我に返る。絵に気を取られて、ほとんどやりとりを見逃していた。


「へえ、これが……」

「はい、それがあれば自分が生き返りだと証明することが出来ます。優先して入れる施設もありますし、割引などがあるところもありますよ」

「話には聞いてたけど……、こういうものなんですね」


 坂田は生き返り証明書をしげしげと眺めている。生き返り証は、病院の診察券のような普通のカードだ。


「もしも、やりたいことがあったら私たちがお手伝いできることになっています。出来る範囲で、ということになりますが何か希望はありますか?」

「……希望、ですか」


 考え込む風な表情になって、坂田は下を向く。


「それ、未完成です」


 それ、というのがイーゼルに置かれた絵だということはすぐにわかった。


「さすがに手伝ってもらうのは難しいです」


 坂田が唇の端を少し上げる。どうやら笑っているらしい。


「では、それ以外には何かありますか?」

「無い、ですかね。……あ」


 一瞬何かを言い掛けようとして止めたのがわかった。


「何か?」

「……いえ、いいです……」


 絶対に何かを思い付いた様子なのに、坂田は口ごもっている。


「小さなことでもいいんですよ。あと三日しか無いんですから、心残りになるようなことは絶対にやめましょう。本当にしたいことを言ってください。出来る限りお手伝いします」


 坂田が気圧されたように、白瀬を見ている。白瀬はまっすぐに坂田を見つめていた。それでもまだ坂田は悩むように目を伏せている。


「こんなこといきなり言われても難しいですよね。小さなことでも大丈夫ですよ」


 白瀬は場を和ませるように微笑む。

 坂田が意を決したように顔を上げた。


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