「蒼魔の塔」 3階 《嵯峨野 善十郎》
長い階段をのぼった先にあるのは、「蒼魔の塔」の第三層。
そのフロアは、一言で例えるならば、火山地帯であった。ごつごつした黒い岩が足元に広がり、そのところどころには天へと突き出る赤い岩の塊のようなものが見える。液体のマグマこそは流れていないものの、それに匹敵するほどの熱を持った赤い岩のせいで、フロアの温度は体感でゆうに40℃を越えていた。
「あ、暑い……」
額に垂れた汗をぬぐいながら、厘がつぶやく。「冥府」は基本的に長袖がちょうどよいくらいの気温が保たれた世界であるので、一行にとって、これほどの気温の中を動くのは死んでから初めての経験だった。
さしものガイも、うんざりしたように口を開く。
「ここで戦うのは勘弁だぞ……」
「うーん、『紅魔』っていうのが、この層の『関門』みたいですけど」
敵がいないかを警戒するように、京が辺りを見回した瞬間――
「おぬしらが、『紅魔』と戦う必要はない」
岩陰の向こうから声が聞こえ、ひとりの大きな人間が姿を現した。
嵯峨野 善十郎。
この塔の「番人」であり、十六能力「大太郎法師」の使い手。初めて会ったときには京を圧倒し、その後は八千代と二人がかりでなんとか倒すことができた相手である。
彼の足元には、錆びた赤い鉄のような装甲を持った、アルマジロのような生物が横たわっていた。まだ息はあるようだが、気絶しているのか、ぴくりとも動かない。黒衣の坊主はその生物を一瞥したあと、静かに、京たちに向けて言葉を投げる。
「……こやつは、わしが倒しておいた。べつに、おぬしらに味方するわけではないが――ゆっくり話すためには、邪魔だと思ったのでな」
彼はそう言うなり、その場にどかりと腰を下ろした。彼の態度から見て、戦う気がないのは明らかである。
「なんや、てっきりこの塔に入ったことを怒られるかと思ったんやけど」
「まあ、入ってしまったのは仕方ないことだろう。……だから、わしは『時間稼ぎ』をしようと思ってな。まあ、ゆっくり語ろうじゃないか」
八千代のからかうような言葉をうまくかわして、坊主は告げる。
しかし、京は彼に食いつくような姿勢で反論した。
「なんの目的で邪魔するのかは分からないですけど、時間稼ぎって言われて素直に応じるほど俺たちは暇じゃないんです。……俺は、姉ちゃんのところに行かなくちゃならない」
「だから、おぬしらを沙耶のところに行かせないのが、わしの狙いなのだ」
厳然とした態度で、黒衣の坊主は語る。彼は地面に胡坐をかいて座り、能力も使用していないにも関わらず、まるで動かせない大岩のように京たちの前に立ちはだかっていた。
この灼熱の空間の中で、彼は汗一つかいていない。
「おぬしらも知りたいだろう。だから語ってやる。いま、『冥府』になにが起きようとしているかを」
彼をなんとか通り越して先に進もうとまで考えていた京であったが、その言葉を聞いて、ぴたりと動きが止まる。
そのまま坊主の顔を見て、ゆっくりと、喉の奥から言葉を絞り出した。
「『今日、「冥府」が終わる』……」
少年の言葉にぴくりと眉を動かしたあと、坊主はそれには応じずに、巌のような重い口を開いた。
「――『那由多の民』」
語られたのは、京の知らない言葉だった。
「どこから話せばいいか、わしにはわからん。だから、初めから――すべての始まりから、語るべきだろうと思ってな」
「どういうことだ……?」
「『那由多の民』は、この『冥府』にかつて住んでいた、わしらとは違う人間のことだ。……そして、この殺し合いの『ゲーム』の、運営でもある」
「――――ッ!?」
坊主の言葉に、その場にいた全員が戦慄する。京や厘だけではなく、ガイや八千代ですらも、目を見開いたまま固まっていた。
予想通りの反応だとでも言いたげに、黒衣の坊主はとくべつなにも言わず、その続きを語る。
「彼らについて話す前に、さらに根本的な話をしよう。――この『冥府』が存在する世界は、わしらが生まれ育ち、そして死んだ、いわゆる『現世』とは根本的に違う位相にある場所だ。つまりは、地球のどこかだとか、別の惑星だとか、そんな次元の話ではない。――まあこれは、うすうすは感じていたことだろう。それほど驚きはないはずだ」
物語の語り部のように、小さな抑揚をつけながら、坊主は饒舌に語る。
「ここは、『肉体』と『精神』の比重が、後者に偏った世界だ。わしらの『現世』は、精神的なはたらきが肉体の外に現れることはなかったが――この世界においては、たとえば十六能力といった形で、各々《おのおの》の精神の在り方が『実体化』することがある。現世で肉体を失ったわしらがこの世界に来ることができるのも、その精神までは死んでいなかったからだ。老衰で死んだ人間とは違い、十六歳で死んだわしらの精神は、まだまだ動くことができる。その余りあるエネルギーを使って、この世界に来たとき、わしらは自らの肉体を無意識のうちに『実体化』させたのだ」
坊主の説明はよく分からなかったが、京はかつて、「博士」から聞いたある言葉を思い出した。
――死後の世界とは言っても、天国だとか地獄だとか、そんな宗教じみたものじゃない。あの世界は、物質的に存在するものだ。ただ、『物質』と『精神』の構成比は、この世界とは少々異なるがね。
あの時の言葉と、ニュアンスとしては同じなのだろう。すなわち――「現世」とは全く異なる場所である、「冥府」が存在するこの世界は、精神のはたらきが物質や肉体を凌駕するということか。
「この世界で過ごすうちにしだいに運動能力が上がっていく現象も、精神と肉体がこの世界に『順応』していくからに他ならない。わしらは、脳の神経ではなく精神によって体を動かすことができるようになっていくのさ。……まあそれも万能ではなく、本来知っている機能を越えて、新しい機能――例えば十六能力なしで空を飛ぶなど――を覚えることはできないが」
京は、隣で車椅子に座る八千代のほうを見る。
彼女は、「冥府」で過ごすうちに身体能力が向上した人間の最たる例である。しかし、その八千代をもってしても、生前に知ることがなかった「足を動かす感覚」までは覚えることができなかった。
「まあ、この『順応』が、あとあとに重要な言葉になるのだが……さておき。次に、『那由多の民』について語ろう」
そこで一区切りを置いて、坊主は続ける。
京も、厘も、八千代も、ガイも、今の状況を忘れて、すっかり坊主の話に聞き入ってしまっていた。
「『那由多の民』は、この世界に生まれた生物であるがゆえに、肉体よりも精神が発達した存在だ。寿命によって死ぬこともなく、親や子供という概念もない。……が、その本質的な部分で、彼らはわしらと変わらぬ人間だ。仲間を思うこともあれば、怒り、悲しむこともある。この『冥府』の街並みは彼らが創ったもの。『蒼魔の塔』とは、本来、『那由多の民』が成人の儀礼を行うために建てられたものらしい。危険な生物を中に閉じこめ、戦いに勝った者だけが、晴れて大人と認められたそうだ。……なにはともあれ、彼らは、たった数十年前まで、この街で確かに生きていた」
蒸し暑い空気が立ち込めているというのに、周囲に響くのは坊主の静かな声だけ。
胡坐をかいたまま、嵯峨野 善十郎は、そこで大きく息を吸ってから、核心へと話を進めた。
「――だが、何千年と続いた彼らの歴史も、ある時を境に、終わりを迎えることとなる」
その目には、どこか悲しみの色が浮かんでいて。
「ある病気が、突然変異的に発生し、『冥府』の街を襲ったのだ。その病気は、おぬしらが想像するような、苦しみのたうち回るようなものではなく――数年とかけて、静かに進行していくものだった。その症状は、『精神の消滅』。……わしにすらも想像ができん話だが、どうやら、その病気にかかった『那由多の民』は、長い時間をかけて、ゆっくりと存在の核である精神が分解されていくそうだ。――本来は死ぬことのない彼らは、そのとき初めて『死』というものに直面した」
死。
それは、この世界で生きる「府民」にとって、一度は経験したことがあるもの。
だからこそ、京にはわかる。それがどれだけ悲しくて、辛いものであるかを。
「それはもう、街中がパニックになったそうだ。なんせ、いままで『死』というものに誰も向き合ったことがなかったのだから。親しい者が消滅していき、また自身も消えていく恐怖に、街は騒然とした――と、わしは聞いている」
誰から聞いたんだ、とは、今は尋ねなかった。先を促すようにして、京は首を縦に振る。
「『那由多の民』だけではない。この世界に生きる他の生物も同じ病気にかかり、文字通り、世界が終わりを迎えようとしていたのだ。永遠に続く夜空が、瞬きを失おうとしていた」
「…………」
「――そんなときのことだ。『那由多の民』のなかでも随一の変わり者である、ある人物が、その病気を治す方法……正確には、その理論を見つけ出した」
大仰に声を大きくして、坊主は手を広げた。
「その方法とは、『物質の比重が高い世界に生きる生物と融合することによって、精神を守る殻としての『肉体』を手に入れる』というもの。……難しい言葉を抜きにして説明すると、わしらのように『現世』に生きる人間と合体すれば、『那由多の民』は病気から解放されるのだ」
「融合……」
その言葉を反復するが、京にはまだぴんとこない。
しかし、そこで厘が何かに気づいたように口を開いた。
「――それで、私たちがこの『ゲーム』に参加させられたわけね」
先の展開を呼んだかのような彼女の言葉に、黒衣の坊主は感心したような声をあげる。
「そうだ。……その理論を提唱した人物は、それ以前から、『那由多の民』が持つ特殊能力を使って、わしらの世界を観察していたそうだ。――その人物がリーダーとなって、『現世』の側から人間を引っ張ってくる計画が進められた」
下手なSF作品よりも入り組んだ説明に、京の頭は混乱しそうになった。
それでもなんとか頭をフル回転させて、話の流れについていこうとする。
「『現世』で人間が生きているうちは、その精神は肉体という殻に包まれて、外に出ることはない。引き上げ、サルベージするには、死後、肉体から出てきた精神を捕獲する必要がある。……まあ、その工程自体の難易度はそれほど高くはなかったらしいが、問題はその選別方法だ」
「選別、方法……?」
「人数的に、『冥府』まで引っ張ってこれる人間は、多くて数百人。それを選ぶために、なにかの基準が必要だった。……話し合いの末に決められた条件は以下の通りだ。ひとつ、こちら側の世界に来てから肉体を『実体化』できるほどの想像力があること。ふたつ、この世界に『順応』し、『那由多の民』と融合できるだけの肉体を作り上げることができること」
再び出てきた「順応」という言葉を、京は頭の中に浮かべる。
つまり、京のような「現世の人間」は、この世界に来たばかりのときは「肉体」が優位に立っている。だが、この世界に「順応」し、「精神」の比重を大きくしていけば、同じく「精神」の存在である「那由多の民」と似たような体の構造になっていくということか。――そのうえで、「那由多の民」は、現世から来た人間と融合するつもりなのだ。
「まあ、結論から言って、その条件に最も当てはまるのは『十六歳の人間』だったそうだ。十六歳とは、高校一年生。大人でもなく、子供でもない『わしら』は、じゅうぶんな想像力を持っていて、かつ環境への精神的な順応力も高いからな」
「それで、『十六歳で』『死んだ』人間がここに集められたってわけか……」
「そう。……そして、こちら側の世界に、それらの人間の精神を引っ張ってきたときに、偶然にもある副産物が生まれることが判明した」
「……ある、副産物?」
「十六能力だ」
強い口調で、坊主はそう告げた。
「この世界に来た人間が、それぞれの固有の精神性を外部に出力できるようになった結果、特殊能力とでも呼べるものが発現したのだ。先ほど言った通り、この世界では、精神的なはたらきが肉体の外に漏れ出ることがある。十六能力とは、文字通り『生き様』と『死に様』を体現した、わしらの心そのものなのだ」
心そのもの。
京は、自分の左の手のひらを無意識に見つめた。
「まあ、そんなものが生まれるとは、『那由多の民』も考えてはいなかったようだが――彼らはそれを利用することにした。別世界から来た人間がこの世界に『順応』するためには、精神的なはたらきを活発にしなければならない。それこそ、日常の穏やかな生活を送っているだけでは、いつまで経っても『精神』が『肉体』を超えることはないのだ。――だから、その十六能力を使って、わしらに殺し合わせることにしたのさ」
まったく迷惑な話だ、とでも言いたげに、坊主は大きくため息をつく。
どこか確認をとるような口調で、京は坊主に尋ねた。
「この『ゲーム』の運営が、執拗に俺たちに殺し合いをさせたがっていたのは、そういうことだったのか……?」
「そうだ。『死の恐怖』は、『那由多の民』をこんな大掛かりな作戦に駆り立てる原因にもなった、非常に強い感情だ。『府民』と名付けられた転生者たちは、意図的に設けられた三年という期限までに、死の恐怖と戦いながら、『精神』を成長させていく。――そうして10000ポイントがたまった頃には、『那由多の民』と融合できるだけの精神ができあがっているというわけさ」
そこで一区切りを置いた坊主に向かって、それまで黙っていた厘が、怒りをあらわにしたような口調で口を開く。
「そ、そんなの――ふざけてる」
彼女は栗色の長い髪を振り乱して、坊主に食いかかるように叫んだ。
「『那由多の民』だかなんだか知らないけど、それじゃ私たちはまるで、牧場で育てられる家畜じゃない!変なやつらと融合させられるために、私たちは殺し合いをさせられていたっていうの!? ――それに、今の話だと、10000ポイントをためたら生き返ることができるっていうのも嘘じゃない!」
激昂する彼女に対し、坊主は落ち着いた様子でそれを否定する。
「家畜だというのは言い得て妙だが――後者については、必ずしもそうではない。わしらが生き返る方法はあるし、実際に生き返りを果たした人間もいる。……『那由多の民』と現世の人間の融合には、両者の同意が不可欠でな。例えば、おぬしが無理に『融合』させられそうになっても、おぬしがそれを拒む気持ちを持っていれば、『那由多の民』の精神がおぬしの中に入ってくることはない」
「……それは、本当なの?」
「ああ、それは間違いない。――だからこそ、『取引』が成立するのだ」
「取引?」
「――10000ポイントを集めることができた人間に、『那由多の民』はこう持ちかけるのだ。『おまえが生き返るか、誰かほかの仲間をひとり生き返らせるかを選べ。ただし、仲間を生き返らせるには、おまえ自身が『那由多の民』と融合することが条件だ』とな」
語る言葉に凄みを持たせて、黒衣の坊主はそう告げた。
「10000ものポイントを集めるほど長い間この世界で戦ってきた人間には、必ずと言っていいほど、自分と同じか、それ以上に生き返らせたい大切な仲間がいるものだ。その心理を逆手にとって、彼らは『融合』を果たそうとするのさ」
「なんや……あくどい殿様商売やね」
どこか呆れたような口調で、八千代がつぶやいた。
そして、坊主は仕切り直すようにひとつ咳払いをする。
「――まあ、そんな仕組みで、この殺し合いの『ゲーム』は成り立っているのさ。そこの彼女が言う通り、わしらは異世界人に都合のいいように利用され、翻弄させられる運命にある。……ただ、彼らからすると、もともとは現世で終わっていたはずの命を拾い上げ、さらには生き返りのチャンスを与えている以上は、あれこれ口を出される筋合いはない……といったところか。擁護するわけではないが、彼らだって、道楽でこんなことをしている訳ではないのだ。すべては、ひとえに『生きるため』なのだから」
「生きる、ため……」
京は、静かにその言葉を反芻する。
――今のいままで、少年は、この「ゲーム」の運営は人を殺しあわせて楽しんでいる、ある種の精神異常者なのではないかと考えていた。だからこそ彼らに対して大きな憤りを感じていたし、サンが死んでから、「運営を倒す」という決意を固めたのである。
だが、現実はそう簡単なものではなかった。「運営」――「那由多の民」にも、彼らなりの正義があって、生きたい理由があったのだ。いまや、彼らが住んでいた「冥府」の街は、もぬけの殻となってしまっている。あれだけ広い街を無人にするには、京の想像できるような悲劇ではとうてい足りることはないだろう。「運営」もまた、「府民」と同じように、死にあらがう者達であったのである。
「……まだ頭が追いつかないが、だいたいのことは分かった。でも、なぜいち『府民』であるきみが、そんなことを知っていたんだ……?」
そこで、今まで黙っていたガイが口を開く。その疑問はもっともであったし、坊主のほうも、それについては順を追って話す予定だったと言わんばかりに語りを再開する。
「この塔を登ったさきに、『那由多の民』がいるからだ。わしはそこで、この話を聞いた。……まあ、『運営』が隠れている場所など、この塔を除いてそうそう考えつかないだろうから、それほど驚きではないかもしれないがな」
「いや――じゅうぶんに驚きだ」
「そうか。それはなにより、ネタバラシのしがいがある。……今まで語ったような経緯で、およそ十年前に、この『ゲーム』はスタートした。その時点で、およそ五万人はいた『那由多の民』は、千人にまで数を減らしていた。そのほとんどが例の病にかかっていたが、この塔の四階に作られた『休眠装置』のなかで眠りにつくことによって、彼らは一時的に病の進行を遅らせることができたのだ。まあ、その装置を作るために奔走した人物は、無理がたたって病の進行が早まり、命を落としてしまったそうだが……『融合』の理論を提唱した人物でもある彼女の犠牲によって、塔の中にこもるという制限付きで、『那由多の民』は『運営』としての体裁を保つことができるようになったのさ」
坊主の言葉に、京ははるか百メートルもの先にある天井を見つめる。
ここは「蒼魔の塔」の三階。つまりは、このひとつ上の階に、「ゲーム」を取り仕切る「運営」がいるということだ。
言葉にできない思いを胸に、京はただひたすらに天を睨んだ。
「『休眠装置』に入った『那由多の民』は、自由に動くことができなくなる。だから、まだ病の進行が遅かった数名はそこには入らずに、『ゲーム』を取り仕切ることになった。……その数名こそが、わしらが思い描いた本当の意味での『運営』ということになるな。彼らはこの塔の四階を拠点にしつつ、『府民証』というデバイスを使って、『ゲーム』を進めた」
「…………」
「――そして、運営開始から二年ほどが経ったとき、ある『府民』たちが、この塔を登り、『運営』のいる四階までたどり着いたのだ。『那由多の民』は、『府民』がこの塔に入ることをとくべつに禁じてはいなかった。むしろ、『海魔』などの生物と戦うことによって、この世界への『順応』が進むと考えていたのだ。彼らの予想通り、四階にたどり着いた『府民』のなかには、『融合』できうるだけの素質がある者がいた」
熱い空気が、じりじりと京の肌をなめる。大粒の汗を流しながら、京は坊主の話に聞き入っていた。
「そこまでたどり着いた褒美として、『運営』は彼らに事の顛末を明かした。――そして、『素質ある者』は、自身が『那由多の民』と融合することを受け入れたのだ。仲間を生き返らせるため、その人物は融合者――『境界人』と呼ばれる存在になった」
「『境界人』……」
「その結果、その人物の仲間のうちひとりが、現世に生き返ることとなった。――そして、残された他の仲間は、この塔を守る『番人』となることを選んだのだ」
塔の番人。
それは、この黒衣の坊主――嵯峨野 善十郎が務めている役割に他ならなかった。
「今の説明を聞いて、そして実際にこの塔を登ってみて、おぬしらも理解しただろう。ここは、か弱き『府民』が足を踏み入れたところで、なんのメリットもないところだ。怪物を倒してもポイントは手に入らない。この世界に『順応』しきっていなければ、『運営』に生き返りを打診されることもない。――だから、最初に『番人』になることを選んだ者達は、無駄な人死にを避けるために、この塔から『府民』を遠ざけることにしたのさ。……明らかな強者を除いて、な」
「それが、8000ポイントという制限……」
京は今の説明で、多くのことが腑に落ちた気がした。
最初にこの坊主と出会ったときに、かたくなに塔に入ることを拒まれたことには、そんな理由があったのだ。数々の戦いを通じて成長した今ならばともかく、あのときに一人で塔に入っていれば、間違いなく命を落としていただろう。
それに、石田刹那が言っていた、「あそこは俺の望むような場所じゃなかった」という発言についても、それで納得できる。彼がこの塔を登りきった、というのはこの坊主のかつての発言から読み取れるが、おそらく彼は、「融合」に耐えうるほどこの世界に「順応」しきってはおらず、門前払いされたに違いないのだ。石田刹那をもってしても不十分であるとは、京にはとうてい信じられなかったが――考えられるとすればそれしかない。
「かくいうわしも、この塔に入るためにポイント集めに奔走したクチでな。十六能力の希少性もあって、一年ほどで8000ポイントまで到達することができた。――そしてこの塔に入り、『運営』から真実を聞かされたのさ。わしは生き返りを打診されるには少し『順応』が足りなかった。そこで残りのポイントを貯めて『順応』を進めるという選択肢もあったが……代々の『番人』がそうしてきたように、三年の期限のぎりぎりまで、『府民』を守るために塔の前に立つという選択肢を選んだ。もちろん、死の危険もあったが、わしは、若くして死んだ人間が集められたこの世界で、これ以上誰かが死ぬことを、少しでも食い止めたかったのだ」
坊主の言葉に、あつい熱が入る。その響きは、高温により空気が歪んだ灼熱のフロアの隅にまで確かに届いた。
京は思う。――この嵯峨野 善十郎という男は、きっと誰よりも正しくて、なによりも強いのだ。もちろん、彼は京の行く手を阻む存在であり、言ってしまえば敵である。――それでも、京は、この男の生き様に、感嘆せざるをえなかった。彼の「強さ」に、敬意を払わざるをえなかった。
そう考えて、京が坊主の顔を見つめたとき――
ごおん、という轟音をたてて、地震のような振動がフロア全体を襲った。
無数の赤い光点が走るフロアの壁に、小さな亀裂が生まれる。ぴしりと音をたてて、その破片が床へと落下していった。
「な……なんだ!?」
驚く一行が見上げるのは、頭上。
いまの振動の原因は、間違いなく塔の上にあった。先ほどから感じていた、塔の頂上から発せられる「鼓動」のようなものが、より一層強くなったのだ。それと今の揺れが無関係であるとはとうてい考えられなかった。
「ふむ……わしの『時間稼ぎ』は、うまくいったようだな」
あくまでも落ち着いた様子で、坊主は告げる。
「ど――どういうことだよ!?」
意味深な台詞に、京はくいかかるように叫んだ。それに対して、嵯峨野 善十郎という男は、「今さら隠しても意味がない」とつぶやいたあとに、その真実を告げる。
「これは、沙耶が『境界人』になろうとしている兆候だ」
その言葉の意味を少年が理解するのに、たっぷり十秒もの時間を要した。
さや? マージナル?
語られた単語が、ぐるぐると京の頭を駆け巡る。ぐちゃぐちゃになった思考が、体の感覚を鈍らせる。
そんな京の反応を知ってか知らずか、黒衣の坊主はただ、今までと同じように、淡々と語るべきことを口にする。
「嵐山 沙耶。『巨臣級』の十六能力、『白天京』の使い手。彼女の『生き様』は、『弟を守る』こと。そして彼女の『死に様』は、『弟を守る自分を守れなかった』こと」
地を揺るがすような振動が続く。男の声が、行き場を求めてフロアを駆け巡る。
「……彼女は、なによりも、誰よりも、強い力を望んだ。すべてを守れるような、そんな力を」
「ちか、ら……?」
「そうだ。ゆえに彼女の十六能力は、この『ゲーム』史上、例を見ないほどの強力なかたちを持って顕現した。『白天京』の通ったあとには、塵ひとつ残らない。彼女に立ち向かった『府民』で、命を落とさなかった者はいない」
陽炎のように、坊主の影が揺れた。
「最強という言葉を体現したかのような彼女は、わずか半年で8000ポイントを集め、この『蒼魔の塔』へと足を踏み入れた。……恐るべきことに、この塔に入った者を本能的に攻撃する『海魔』のような怪物たちは、むしろその本能に従っているがゆえに、沙耶の前に道をあけた。彼女と戦えば無事では済まないことを、やつらは瞬時に感じ取ったのだ」
「な……!?」
「それだけではない。この塔の名称の由来にもなった、『蒼魔』と呼ばれる怪物ですらも、沙耶は倒してみせたのだ。最上階である五階にいる『蒼魔』は、『那由多の民』ですらも手を焼くほどの恐るべき生き物だった。この塔が本来の意味……『那由多の民』の成人儀礼のときに使われていた時でさえ、『蒼魔』を倒すことではなく、その鱗をひとつ取ってくるというのが、儀礼の達成条件だったのだ。もちろん、『府民』のような現世の人間にとっては、近づくことすらも困難なほどの怪物であり――沙耶が現れる前までは、そいつに傷をつけることができた者など一人としていなかった。わしを含めてな」
「そんな、怪物を……京のお姉さんが、倒したんですか」
「ああ。今の話を聞いてわかる通り、沙耶は文句なく、この世界に『順応』しきった人間であった。その精神力は異常なほどに強く、『那由多の民』は、彼女こそが、かつてこの世界の王であった『冥王』――アルカイド・センティリオンと融合するに足る人間だと判断した。だからこそ、彼女に対する『生き返り』をかけた交渉は、破格の条件となったのだ」
「破格の、条件……?」
「十人。それが、沙耶が『境界人』となったとき、引き換えに生き返らせることができる人間の数だった」
坊主の言葉に、厘が驚愕の色を見せる。頭上で激しさを増す「鼓動」に意識を持っていかれそうになりながらも、彼女は恐る恐る、坊主に向かって問いかける。
「そ、それで……京のお姉さんは、自分が生き返ることを選ばずに、ほかの十人が生き返ることを選んだんですか?」
「結論から言ってしまえばそうだが――彼女がそう判断するまでには、想像を絶するほどの葛藤があったのだ。彼女は、弟……嵐山 京のことを誰よりも想っていた。自分が生き返り、弟と再び会うという強い意志が、彼女を『冥府』での戦いに駆り立てていたと言っても過言ではない」
「じゃあ、なんで……」
「彼女にも、仲間がいたのだ。この『冥府』でともに生き、ともに戦った、無二とも言える仲間が」
坊主の語る言葉が、京にはどこか遠いところの話であるように思えた。足元を襲う揺れも、どこか現実味を失ったように感じる。
「『那由多の民』と融合し、『境界人』となってしまえば、現世に帰ることはできない。それをじゅうぶんに理解したうえで、沙耶は、『冥府』での仲間たちを生き返らせるために、自らの体を差し出したのだ。かくして沙耶は――」
「――――嘘だ!!」
突然。
あまりにも突然の、嵐山 京の叫びに、その場にいた全員が彼のほうを向く。
しかし、少年は乾いた笑みを浮かべながら、泳いだ目で、何かにすがるように口を開く。
「な、なあ……姉ちゃんが、俺のところに生き返るよりも、他のやつのために『冥府』に留まったなんて……さすがに嘘、だよな」
「京……?」
「クソ坊主……危うく、あんたの狂言に惑わされるとこだったぜ。――この調子だと、『運営』に関係する話とか、どこまでが本当かわかんなくなってくるなあ……!?」
「――京!」
震えた声で叫ぶ京を正気に戻すように、厘が彼の名を呼ぶ。
しかし、少年は錯乱したような状態のまま、とめどなく呪いのような言葉を吐き続ける。
「そうだ、あんたが姉ちゃんを隠してるんだろ?フラれた腹いせかなんか知らねえけど、そんなら俺があんたをぶっ飛ばして――――」
パシン、という高い音が、地鳴りの続くフロアに、確かに響いた。
それは、栗色の髪の少女が、やつれた顔の少年の頬を平手打ちではたいた音だった。
「え…………?」
少年は、信じられないものを見るかのような目で、少女のほうを見る。
自分が手をあげたにも関わらず、少女は泣きそうな目で、少年のほうを強く見据えていた。
「……たしかに、この人の話の真偽を確かめる方法は、私たちにはない」
厘という少女は、なによりもまっすぐな眼差しで、京へと語りかける。
「けれど、いまのあなたが『間違っている』なんてことは、私にもわかる。――だから、あなたに目を覚ましてほしくて手をあげた」
平手打ちをされた箇所に手をあてて、少年は、少女の眼差しをはっきりと受け止めた。言葉にできない感情が、そこから確かに伝わってくるのが理解できた。
「信じたくないものだって、きっとあるよ。……でも、自分に都合のいいことだけを信じるような人間は、きっと、『強く』はない」
「り、ん……」
「今の私たちにできるのは、『確かめる』こと。この上にいるお姉さんに会って、事の真偽をはっきりさせるの」
「……もし、姉ちゃんが本当に、俺よりも他の仲間を選んでいたとすれば?」
「――それも噛み締めて、また生きればいい」
その言葉に、京ははっとして我にかえる。
今のは、かつて石田刹那によって崩落したハイツ・デネブの瓦礫の下で、京が厘に向けて言った台詞と同じだった。
未来を恐れるがあまり、動くことができなくなった厘に対して、京は暴論ともとれる言葉を口にした。――だが、あのときの京の言葉があったからこそ、厘は生きて、今ここに立っているのだ。
――それならきっと、俺にとっては、ここが分岐点だ。
少年の瞳に、確かな生気が宿る。震えていた足が、しっかりと地をつかむ。
恐れることはあった。失いたくない感情も持っていた。けれど、生きるためには、それでも前に進むしかなかった。
「はは……ってな訳で、時間稼ぎもここで終わりですよ。嵯峨野さん――いちおう聞いときますが、どこをどいてはくれませんか?」
胡座をかき、巌のように鎮座する黒衣の坊主に向けて、京はそう言い放った。
坊主――嵯峨野 善十郎は、しかし予想に反して、はっきりとした戦意を見せない。
「うむ……まあ、おぬしらを通せん坊するのが、わしの目的であったのだが。どうやら『時間切れ』のようだ。おぬしらとは、ここで永久の別れとなろう」
真意がはっきりしないその言葉を、京たちがどう捉えるべきか考えたとき――とつぜん、黒衣の坊主の巨体を包むように、銀色の光が生まれた。
それは、「府民」がこの世界を去るときの光とは異なり、まっすぐな線のようなものを四方に撒き散らし、灼熱に包まれたフロアを照らす。それと同時に、坊主の瞳や眉の色が、光と同じ銀色に変色し始めた。
「……嵐山 京。沙耶の弟よ。わしは、おぬしと対立する立場にはあったが――おぬしのことは、嫌いではなかったよ。なによりも沙耶を大切に想っているということは、言われずとも伝わってきたからな。……だから、沙耶のことを、よろしく頼む」
坊主の声が、低く重いものから、徐々にコードを上げていくように高くなっていく。それにつられるように、彼の体を包む光が、より一層輝きを増した。
「ま、さか……あんたも、『境界人』に……!?」
「ああ。『番人』として生活するうちに、この世界への順応も進んでな。――沙耶が『境界人』として目覚める段になって、ようやくわしは決心したのだ。彼女を、ひとりにはさせないと」
彼の言葉からは、ひといきには推し量れないほどの覚悟が見て取れた。
「融合によって、『那由多の民』に意識を支配されたとしても――わしらの心は、完全になくなるわけではない。こんな冷たい世界に、沙耶を置き去りにするわけにはいかないから――わしは、こうなることを選んだのだ。後悔はしていない」
やがて、うっすらと光が弱まっていく。
深い眠りにつくように、黒衣の坊主はまぶたを閉じた。――最後に、こんな言葉を残して。
「願わくば……おぬしに、沙耶を止めてほしい」
そして、静寂が生まれた。
いつの間にか、周囲を包む地鳴りもおさまっている。変わらず、なにかが脈動するような感覚は上のフロアから伝わってくるが、この「三階」は、蒸し暑い空気の中、これまでの喧騒が嘘のように静まりかえっている。
黒衣の坊主は、目を閉じたまま動かなかった。胡座をかいた姿勢のまま、ただ、眠ったような呼吸を繰り返すだけ。
「な、なにがどうなったんだ……?」
静寂に耐えきれなくなったように、ガイが口を開く。八千代も、どうしてよいか分からないといったふうに、困り顔を浮かべていた。
一度彼らのほうを振り向いて、京は仕切り直すように口を開く。
「……とにかく、先に進みましょう。どうやら今は、時間がないみたいですし――」
そのとき。
『――――この人間も、回りくどいことをする。こんな人間どもなど、足止めせずとも、ひといきに殺してしまえばよいものを』
甲高い声が、坊主の口から発せられた。
雷に打たれたように、京は彼のほうを振り向く。その瞬間、少年のポケットに入っていた、黄金色の指輪が転げ落ちた。
……いや、転げ落ちたのではない。それは、まるで自分の意思を持っているかのように、ひとりでに動いたのだ。地面にぶつかったあとも、その動きを止めることなく、ごつごつした岩の上を転がっていき、やがて黒衣の坊主の前まで来ると、ひといきに跳躍して彼の右手の親指におさまった。
「あれって、『イベント』の時の……?」
厘がその様子に驚いたように声をあげる。
あの黄金色の指輪は、広大な邸宅での「宝探し」イベントにおいて、京が最奥部で手にした「宝」であった。なんのためのものであるのかが分からなかったため、とりあえずポケットにしまっていたが、今のいままで、その存在のことも忘れてしまっていたのだ。
やがて、黒衣の坊主はゆっくりと目を開けて、胡座をかいた姿勢から立ち上がる。その仕草は、どこが、とは具体的に言葉にできないものの、京の知る彼の動きとは明らかに違っていた。
『……羽虫に語るべき言葉など我は持たんが――まあ、我の宝をわざわざ運んできた褒美として、名前くらいは教えてやろう』
嵯峨野 善十郎ではなくなった「彼」は、異質なオーラを体から放ちながら、少年たちを見下すように、彼自身の名前を語った。
『我はメラク・トリリオン。「那由多の民」の皇族である』




