京と沙耶
京の姉である、嵐山 沙耶が死んだのは、暑い夏の日であった。
学校の夏休み、家に引きこもってばかりいた京を気遣って、沙耶が買い物に誘ってくれたのだ。行った先は、家の近くにあるショッピングモールだった。
なにを買ったかは、覚えていない。ただ沙耶と交わした言葉だけが、ぼんやりと思い出せるだけだ。確か、学校に友達ができたか、とか、沙耶が余計な心配をしていたことを覚えている。
なんと答えたかは覚えていない。ただ、京に友達が少なかったことは事実だった。昔から人との距離感がつかめなかった京は、自然と、自分からクラスメイトと距離をとっていたのだ。
――友達はいらない。ただ、俺には姉ちゃんがいればそれでいい。
そんなことはもちろん口には出さなかったが、そう思っていることは事実だった。
京にとって沙耶は、ただの肉親である以上に特別な存在だった。清く、美しく、気高い女性。彼女の優しさがあったからこそ、京は道を外さずに成長することができたのだ。依存と言われればそれまでかもしれない。だが、京は沙耶に対して、他の何よりも強い感謝の気持ちを持っていた。沙耶がいれば、孤独な世界も暖かかった。このまま永遠に二人の関係が続けばいいと、そう思っていた。
――だが。沙耶は死んだ。
その日、買い物をした帰り、飛び出してきたトラックから京を守ろうとして、彼女は死んだ。真っ白な頭で、真っ青な顔で、京という少年は二度と戻らない日常が去っていく足音を聞いた。
気がつけば、涙を流していた。姉が見れば、男の子なんだから泣くんじゃないよ、と叱られたかもしれない。だが、その姉ももういないのだ。なにもかもゼロになってしまった感情の中で、確かに、少年は涙を流した。零れる粒は、血のような味がした。
それから後の一年間は、抜け殻のように過ごした。学校には通い続けたが、以前のような義務感からそうしたのではない。ただ、学校に行かなければ姉に叱られてしまうかもしれないから。
毎日ご飯を食べなければ、姉が心配するかもしれないから。
両親に暗い顔をしてしまうと、姉が落ち込んでしまうだろうから。
だから、生きた。いや、死ななかった。なんとか心臓を動かし、体に血を巡らせた。意味もなく。理由もなく。
そんな日々が終わったのは、姉が死んだ一年後のことだった。
夢を、見たのだ。
夢の中で、沙耶が困ったような顔をして佇んでいた。……姉の夢を見るのは、なにもこれが初めてではない。いつも、夢の中の姉は暗い表情をしている。何度呼びかけても、姉は自分がここにいると認識できないのだ。
今日もまた、姉には自分の声が届かないのだろう。
そう思っていた、矢先。
「……京」
澄んだ鈴のような、声。
少年は目を見開いた。
「ごめんね、お姉ちゃんはもう……あなたには会えないかもしれない」
悲しそうに、けれど必死で笑顔を作ろうとしているかのように、沙耶は弟へと語りかける。
「がんばったけど……駄目だったよ。ここでおしまい。だから、今度こそ本当に、さよなら」
がんばった?今度こそ?
京は姉の言葉が理解できずに、ただ彼女を見つめる。
「何言ってるんだよ、姉ちゃん。それって、どういう……」
「今までありがとうね、京。最後に、あなたに私からのメッセージ。……ひとつ、人と関わるのを恐れずに、いろんな人に歩みよりなさい。……ふたつ、誰かを拒絶できる強さを持ちなさい」
姉の輪郭が、少しずつぼやけていく。霧のように。幻のように。
「なんだよ、それ。矛盾してるじゃないか」
少し笑いながら、京は答えた。
寂しさは、なかった。
これは夢だ。だから、矛盾してたっていい。……寂しさを、感じなくたっていい。
手を、伸ばす。姉に届くように。
「こっちこそ、ありがとな、姉ちゃん」
その手が虚空を掴んだ瞬間、京は優しいまどろみから覚めた。
*
深呼吸をしてから、家を出る。
人の多い通りを抜け、この辺りで一番高い建物を目指して歩く。周囲の人はうつむいて歩く少年を気にも留めず、忙しそうに早足ですれ違っていった。
ほどなく、病院のような研究所のような、そんな場所の屋上へと京はたどり着いた。
二メートルほどの柵をよじ登り、建物の縁に足をつける。眼下には町を行き交う人。人。人。
……ごめんな、姉ちゃん。
心の底からの言葉は、心の外に出ることなく、少年の内に反響した。
そして――――
「危ない!」
誰かに横から突き飛ばされ、京は勢いよく転倒した。青いタイルが敷き詰められた道に転がる。視界には、群青に光る満点の星空。
考え事をしているうちに、周りが見えなくなっていたようだ。はっとして、自分を突き飛ばした人物を見る。
長い栗色の髪を後ろで束ね、腰を低くして何かの構えをとっている少女。手には夕焼けで染めたかのような見事な紅の槍。凛とした佇まいからは、芯の強さが見て取れる。
一瞬、その少女に姉の姿が重なった。顔も、声も、背格好も違うはずなのに、雰囲気が同じだ。強く、優しく、美しい――女性。
「どうしたの?キミもはやく『十六能力』を使って戦いなさい!」
「い、いざよい?」
困惑しながらも、少女が睨みつける先を見る。
ーーそこには、ダイヤモンドを人型に荒く削り取ったかのような、淡く輝く物体が置かれていた。……いや、置かれているのではない。それはまるで意思を持っているかのように、二人のほうに向かって歩いてきているのだ。生物でもロボットでもない、謎の存在。まるで海外の美術館に展示されている芸術品に命が吹き込まれたかのように、奇妙な物体は手足を動かして前へと進む。
「な、なんだよアレ……!」
京は恐怖のあまり固まる。鉛を飲んだかのように体が重く、声が出せない。
「まさかキミ、ここに来たばっかりなの!?」
槍を持った少女が驚きの声をあげる。それと同時に、彼女は京の襟首を掴んで走りはじめた。
――すごい力だ。
謎の怪物がどんどん遠く、小さくなっていく。このままいけば、簡単に逃げられそうだ。幸い、怪物の足はそれほど速くない。
……だが。
ナイフのような感触が、京の太腿をかすめる。それと同時に横の建物に突き刺さったのは、半透明な石の破片。
謎の怪物のほうを見ると――そいつは、投擲をするような姿勢で固まっていた。自分の体を構成する物質を石器のような形の破片として射ち出し、二人の足を止めようとしたのだ。
京の背筋に悪寒が走る。……もしかすると、さっきはこの攻撃から自分を守ろうとして、この少女が助けてくれたのだろうか。
「自分で走って!」
そこで、ようやく少女の手が京から離れた。青いタイルが敷き詰められた道に足を落とすと、少女に続くように走りはじめる。
なにがなにやら分からないまま、京はただひたすらに走り続けた。