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白鳥と刹那の終着点①


 「霧立キリタチ」と呼ばれる、アメジストのような紫の刀が、眩いばかりの光に包まれる。


 ――「鮮光センコウ」!?


 厘の「烈火矛槍レッカムソウ」が放った紅の光とは違い、刹那の「霧立キリタチ」のそれは、まるで宵闇のような深い紫色をしていた。闇のような光、とは矛盾も甚だしいが――京には、それ以外の表現が思いつかなかった。唖然とする彼の目の前で、空気が渦巻き、やがて一つの現象が訪れる。



 紫色の霧。


 自分の指先すらも見えないような、深い深い紫の闇が、周囲の空間ごと京と厘を飲み込んだ。


 視界が奪われる直前に見えたのは、刀から放出される、おびただしい量の光の粒子。これが、これこそが、石田刹那という青年の「鮮光センコウ」に間違いないだろう。


(まずい……!)


 当然のことながら、戦いの最中において視界が奪われるということは、それだけ不利になることを意味する。いや、そもそも、この深く淀んだ霧そのものが攻撃である可能性もあるのだ。


「安心しろよ、厘、そして新入り。これ自体に毒があるとかじゃねぇ」


 京の思考を見透かしたように、刹那が告げる。その声は霧の中に反響し、どこから彼が喋ったのか、手がかりすらも掴めない。


「この霧の役目は、オマエたちの視界を奪うことだ。そしてこの中にいる限りは――俺には、オマエたちの居場所がよく分かる」


 青年の声と、瓦礫を踏み分けるわずかな音が聞こえた瞬間。


 ドスリ、と。

 鋭い刃の切っ先が、京の胸を貫いた。


「が、あっ……」


 焼けるような痛みが、胸に広がる。肺の機能が止まったかのように呼吸が苦しくなる。


 攻撃の直前に聞こえた、瓦礫を踏み分ける音によって――かろうじて上半身を動かし、心臓を貫かれることだけは避けられた。だが、いかに「冥府」において強化された体だとはいえ、これほどまでの傷は命に関わるものであるはずだ。痛みに震えながら、京は動くこともできず立ち尽くした。


 刀が京の胸から引き抜かれ、再び青年の気配は闇に消える。

 暗闇に呑まれた世界の中で聞こえるのは、早鐘のように鳴る自身の心臓の音だけ。


 この攻撃から、そして状況から逃れるのは不可能に近い。暗闇から抜け出そうにも、どちらに向かえば良いかも分からないし、足元には瓦礫が転がっていて、それを目視することなくここから移動するのは無理だろう。それ以前に、敵からはこちらの動きが筒抜けになっているはずで、もたもたしているうちに斬り殺されてしまう。


 そしてまた、「瓦礫を踏み分ける音によって相手の位置を探る」という方法も、次からは使えないだろう。先程、京を仕留め損なった刹那は――きっと次は足音を殺して近づいてくる。


 少年の心を、深い絶望が襲った。


 本当の意味で、自身の「死」を意識することは、「冥府」に来てからも初めての経験だった。全身の細胞が萎縮し、呼吸が浅くなる。暗闇の中、刃の恐怖に怯え、ただ立ち尽くすのみ。そこにはほんのわずかですら、希望も活路も存在しなかった。


 突きつけられたのは、ここで自分が死ぬという事実。


 姉も見つけ出せずに。

 刹那という青年も倒せずに。

 何も目的を果たせないまま――終わる。



「――京!!」



 その時、暗闇を裂くように聞こえたのは――強い響きを帯びた、厘の声だった。


 その声に、少年は我に返る。


 ――そうだ。厘もまた、この紫の霧に飲み込まれ、死の恐怖に襲われているはずだ。


 だが、彼女の声からは、微塵も諦めたような気配は感じられない。

 姿こそ見えないが、彼女はきっと、紅蓮の槍を握りしめながら、襲いくる敵に備えているのだろう。


 忘れていた。自分がつい先程、厘に「生きろ」と叫んだことを。無責任な暴論を飛ばして、彼女を鼓舞したことを。


「……俺が諦めてちゃ、世話ねぇよな」


 そう呟いて、両手に「反定立アンチテーゼ」を展開する。

 そして京は、何も見えない視界の中で、二つの拳をでたらめに振った。


 みっともなくていい。足掻け。それが何かに繋がるかもしれないのなら――




「それで……抵抗しているつもりか?」


 暗闇の中から、刹那が嘲笑する声が聞こえてきた。


「そんなことをするくらいなら、黙って潔く首を差し出すなりした方が、格好もつくってもんだろうがよ。自分で自分の死に様に泥を塗ってどうする」


 それは、正論なのかもしれなかった。どれだけ足掻いても、この状況が変わる訳ではない。数秒後には、京は刀によって心臓を貫かれ、あるいは首を斬られて――死ぬ。


 それでも。だとしても。

 この胸の奥、確かに湧き上がる激情が、京の体を動かしていた。



「諦めろって言われて、終われるほど……俺は自分を殺しちゃいないんだよ!!」



 叫び。


 それは、無意味で、無価値で、何も生み出さず、ただ紫色の闇の中に消える――




 はずだった。




「よく言った」


 あまりにも突然に。

 京の耳にだけ聞こえる囁きが――闇の中で生まれた。


 はっとして、その声が聞こえた方向を向く。しかし、濃い霧のような闇に遮られ、視界には何も映らなかった。その代わり、瓦礫を踏み分けて高速で移動する「誰か」の足音だけが、京の耳に届いた。


「なっ――!?」


 驚きの声をあげたのは、刹那だった。彼にしか視認できないはずの、この深い闇の中を――何者かが、恐るべき速度で移動している。


 そして、その人物の正体を知覚した青年が、さらなる驚愕を示した。


「オマエは――」


 その先の言葉は、破裂音のようなもので掻き消された。


 ――乱入した「何者か」が、刹那に向けて攻撃を放った。京がかろうじてそれを認識できた瞬間、刀で何かを弾くような音が続く。


「くっ……」


 あまりにも突然の展開に戸惑うような、青年の呻き声が聞こえた。さらに乾いた破裂音が響く。今度は2発。


 刀で弾かれたのは、そのうちのひとつだけだった。


「ぐっ、う……!」


 痛みに悶える刹那の声が聞こえた瞬間――京の周囲を覆っていた闇が、かすかに薄れはじめた。塗りつぶされていた視界が、かすかに回復する。


 攻撃を受け、刹那の「鮮光センコウ」が解除されたのだ。


 その時、京の横を、黒い影が通り過ぎた。それは間違いなく、闇の中に突如現れ、刹那へと攻撃を放った人物だった。


 輪郭がうっすらと見えるとはいえ、その顔まではわからない。ただ、その影は、京の肩をぽん、と叩くと、


「あとは……やれるな」


 という言葉を残し、京の後ろに残る闇へと消えていった。



 その人物を追いかけ、正体をつきとめたくなる衝動を――京は、歯を食いしばって止めた。


 あの人物は、京と厘を助けるために、この場へと現れたのだ。彼が誰であるのか、そしてなぜ自分たちに味方をするのか――疑問は尽きない。だが、去り際の言葉から察するに、彼は京にチャンスを与えたのだ。


 刹那という青年を倒すための。


 ならば、今はそれに応えるために全力を尽くさなければならない。



 やがて、紫色の霧が晴れて、視界の全てが戻ってきた。


 半壊したハイツ・デネブの青い壁。足元に積み上がった瓦礫の山。厘の「鮮光センコウ」によって天井にあいた穴からは、煌めく星空が見える。


「あ、の野郎……!!」


 闇が消えて、ようやく姿を現した刀使いの青年の腹には――銃弾を受けたかのような、小さな丸い傷がつけられていた。


 苦痛に顔を歪め、殺意に満ちた瞳で、獣のように青年は唸る。


 今の乱入者の攻撃によって、彼の余裕が崩れたのは、目に見えて明らかだった。



 ――次の一手で、終わらせる。


 京は、再び掌に「反定立アンチテーゼ」を展開した。黒い魔法陣が、少年の意思に呼応するかのように、唸りをあげて出現する。


 胸を貫かれた痛みで、満足に体が動かせない。だが、それは目の前に立つ刀使いの青年も同じであるはずだ。ガイ、八千代、そして謎の乱入者の攻撃を受けた彼の体もまた、傷ついているのは間違いない。


 ――これで最後だ。


 強く、強く拳を握りしめて。

 敵を倒すべく、京は駆け出す。


「無駄だ……!」


 傷を受けてもなお、刹那という青年の放つ圧力プレッシャーは衰えてはいなかった。


 彼は、定まらない足取りで近づいてくる少年を両断するために――「霧立キリタチ」を構え、カウンターの体勢をとる。


 事実、京の突進は隙だらけだった。


 「冥府」での闘いに慣れておらず、体もさほど強化されていない少年の動きは、この世界での殺し合いに勝ち残ってきた青年にとっては、止まっているも同然に見えた。


 だが、それでも、刹那という青年は油断しなかった。以前は腕を切り落とすだけに留めておいたために、捨て身の反撃をくらったのだ。今度は、本当に殺す気でいく。狙うは胴体。ぎりぎりまで近づいてきたところを、一刀両断する。


 あと三歩。二歩。



 一歩!



「おおおおッ!!」


 大きく腕を振り上げながら、京はあらん限りの力を振り絞って叫んだ。



 その突進が全力である――つまりは、彼にできる最大限の攻撃だと錯覚させるために。


「なっ……!?」


 驚愕の声をあげたのは、刀使いの青年だった。


 彼は、黒い魔法陣を拳に宿した少年が最後の一歩を踏み出した瞬間・その一点を狙って待っていた。自分がカウンターで刀を振るえば、この少年の体は容易く両断されるはずだった。


 だが。


 最後の一歩を踏み出した瞬間――少年が突如、恐るべき勢いで加速したのだ。


 まるで足全体が大きな発条バネになったように。あるいは、ロケットを足の裏に取り付けたように。


 そして――青年の胸に、雷に打たれたような衝撃が走る。少年の拳が自分に届いたことを感じ取った瞬間、彼は手にした刀ごと後方へと大きく弾き出された。


 瓦礫の山に、人の体が打ちつけられる音が響く。上体を起こし、砂埃の先に立つ少年を睨んで、石田刹那は歯ぎしりをした。


「その能力ちからを、足に使ったのか……!」


 少年の能力は、触れたものを吹き飛ばす力であると、刹那はそう推測していた。事実、それは正しい。

 「反定立アンチテーゼ」とは、誰かを「拒絶し、遠ざける」ための力なのだから。


 だが、その能力を拳だけでなく足の裏にも展開できることを、彼は知らなかった。 いや、それは能力の持ち主である嵐山京にとっても、既知のことではない。京にしても、その能力の使い方、そして作戦は、ぶっつけ本番、一か八かの賭けだった。そこに刹那の落ち度はないだろう。


 ならば、石田刹那の誤算とは、何だったのであろうか。


 ――それはおそらく、この少年を「闘いに慣れていない初心者」だと認識していたことだ。


 彼が、闘いの初心者であるが故に――命をかけた実戦の中で、恐るべき速度で成長していることを、彼は知らなかった。



「それがどうしたよ……!!」


 再び刀を強く握り、刹那は瓦礫の上に立ち上がった。獰猛な獣のように低く構え、唸りをあげる。


 今の一撃程度では、決定打には程遠い。石田刹那は、「冥府」において数え切れないほどの敵と戦ってきた。その中には、「反定立アンチテーゼ」よりも強力な一撃を放つ人間も数多く存在したのだ。


「その程度じゃ、時間稼ぎにしかならねぇよ……!」


 青い瓦礫を踏み分け、刹那は少し先に立つ少年へと再び歩み寄った。まるで死神の足音のように、コツリ、コツリと低い音が響く。


 その接近を、痛みによって定まらない視点で眺めながら、京はぽつりと、独り言のように呟く。


「……それでいい」

「……あ?」

「時間稼ぎでいいって――言ったんだよ」


 そして。


 鮮やかな、紅い光が舞った。


 まるで極小の蝶の群れのように、その光は空間の中で踊りながら、暗闇に包まれた廃墟の残骸を照らす。


 やがてそれは渦を巻き、一本の槍の周囲へと集っていった。


「刹那さん……」


 凛とした少女の声が、刀使いの青年へと届いた。


 その響きは、強く。

 彼が知っているはずの彼女よりも、ずっと強く。


「私は、この世界に来てからずっと、あなたに憧れていた。私に闘いを教えてくれたあなたを、超えたいと願っていた」


 強い光によって、彼女の顔は鮮やかに照らされていた。額からは、血のような砂粒がこぼれ落ちている。いや、額だけではなく、瓦礫に押し潰されたときの傷によって、全身から赤い砂が絶え間なく流れ出ていた。


 いつ死んでもおかしくないような、限界の状況。

 それでも彼女は、鳴滝厘は、真っ直ぐに立っていた。


 生きるために。


「だから、私は――変わってしまったあなたを、倒す。私に闘い方を、生き残る方法を教えてくれた、強くて優しかったあなたを 嘘にしないために」


 紅蓮の槍の穂先を、「敵」へと向ける。



「¬――鮮光センコウ


 その言葉は、まるで決別のように。




「『燐殲華リンセンカ』」



 激しい熱の塊が、ドリルのように回転しながら前方へと飛んでいった。周囲の瓦礫を吹き飛ばしながら、あるいはその表面を溶かしながら。


 技が放たれた瞬間、京は転がるように移動した。技の軌道からは逸れた場所に立っていたにも関わらず、熱波が押し寄せてきたのだ。


 あまりの威力に圧倒され、目をつぶりそうになったが――必死で歯を食いしばり、紅の螺旋の行方を見送る。


 その先に立つのは、アメジストから打ち出したような、見事な紫に染まる刀を構えた青年。彼はまるでこの瞬間を待ち望んでいたかのような、壮絶な笑みを浮かべながら――膨大な熱の塊を、刀で受け止めた。


 大量の火薬に一度に火をつけたような、そんな爆発音が京の耳を蹂躙する。鼓膜が破れたかと錯覚するほどの音量。それが、紅と紫の「十六能力イザヨイ」が拮抗する音であると気づいた瞬間、彼の体は爆風によって飛ばされていた。


 慌てて、反射的に「定立テーゼ」を展開する。手の平が大きな瓦礫に触れた瞬間、かろうじてそれ以上飛ばされることを防いだ京は――赤く染まる空間の中で、石田刹那が何かを呟くのが見えた。



 たった、一言。

 その声は、周囲を埋め尽くす爆音に掻き消され、京の耳には届かない。



 ただ、ひとつだけ分かったことは。


 「霧立キリタチ」と名付けられた彼の刀に、放射状のヒビが入ったこと。



 次の瞬間。


 真っ直ぐに伸びる炎の槍が、青年の体を貫いた。




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