烈火よりも紅く、矛槍よりも強く
真っ黒に染まった視界。先程までの轟音が嘘だったかのように、周囲は静まり返っている。
瓦礫に挟まれた体。
時が止まってしまったかのような狭い空間の中で聞こえたのは――弱く、しかし確かに鼓動する二つの心臓の音だった。
自分のものと、もう一つ。
「京……大丈夫?」
優しくかけられた声は、痛みに震えていて。
そこでようやく、京は自分がまだ生きていること――そして、厘が自分を庇って崩落する瓦礫の直撃を受けたことを悟った。
「厘……そんな……」
錆びた鉄のような匂いがする。これは、恐らく「血」の匂いなのだろう。京には、それが厘の体から発せられたものであることを、痛いほどに感じ取っていた。
いや。
本当に痛いのは――厘のほうだ。
「なんで、俺を庇って……」
「今さら、それを答えるのに理由がいるかな」
全身を痛みに襲われているはずなのに、厘は気丈にそう返した。
闇に呑まれた空間の中、徐々に目が暗さに慣れてきたことにより、ようやく自分が置かれている状況を京は悟った。
この狭い場所は、本来であれば瓦礫に押しつぶされていたところに、奇跡的な形で瓦礫が積み重なったことで生まれた空間なのだ。
そこにいたから、京はほとんど無傷でいることができた。
いや、違う。それは断じて違う。厘が自分を庇うように、瓦礫から守ってくれたからこそ――京は無事なのである。
京の脳裏に、あの時のことがフラッシュバックする。
姉の沙耶が、自分を庇ってトラックに跳ねられた時。あの時も、京は何もできずに、ただ守られているだけだった。
今回にしたってそうだ。他の面々の戦いについていけずに、後ろで傍観するしかなく――突然の事態に対しても厘に助けられただけ。
――あの時、自分を呪ったはずなのに。俺はまだ、弱いままだ。
歯ぎしりではまだ足りなかった。全身に走る血がマグマのように沸騰する。
だが、どれだけ自分の弱さを嘆いても、この状況をすぐに変えることはできない。
「く、そっ……」
次に京の心を襲ったのは、どうしようもない無力感だった。
「……私のほうが、京より体が強いからね。もし逆だったら、京はいまごろぺしゃんこだよ」
震える声で、厘が告げる。その言葉は、優しく、そして強い響きを帯びていた。
狭い空間の中で、彼女は少し体勢を変える。細かい瓦礫が崩れる音がした後、ちょうど京と顔を見合わせるような姿勢となり 彼女は、その先の言葉を告げた。
「――でも。最後に、京を助けられて良かった」
暗い視界の中でも、今なら厘の顔が見える。額から血を流し、力無く微笑みながら、それでも彼女の目は真っ直ぐに京を見据えていた。
「体の感覚がなくなっていくのを感じるんだ。ああ、そういえばこれが『死ぬ』ってことだったなって」
その言葉に、少年は何も返すことができなかった。ただ、自分も真っ直ぐに少女の目を見据えようと、震える視点を無理矢理にでも合わせようとする。
「……私が火事で死んだっていうのは、前にも言ったよね」
静かな、独白。
「あの日は、なんでもない日のはずだった。学校から帰ってきて、弟たちと遊んで、お母さんに作ってもらった晩御飯を食べて。宿題するのめんどくさいな、とか考えてたりして」
弱々しい彼女の声を聞くほど、京の心はぐちゃぐちゃになっていった。
それでも、聞き逃すまいと自分に言い聞かせて、京はただ彼女の瞳を見つめる。
「隣の家から火が燃え移ってきて、私がそれに気づいた時には――もう、手遅れになってた。私と弟がいた部屋は、一瞬で火の海になった。逃げる暇なんてなかった」
瞼の奥が熱くなっても、必死で歯をくいしばる。今の京には、それくらいしかできなかった。
「炎に焼かれながら、最後の最後、私は弟二人を抱いて、必死に言い聞かせた。大丈夫だよ、お姉ちゃんがいるから……って。私は本当に、諦めてなんかいなかった。死んでやるもんかって、ずっと心の中で叫んでた」
か細い声で、しかし強く、厘は語る。
最期に、何かを残すように。
「……体が焼けて、痛みすら感じなくなったところで、私は確かに、消防士さんが駆け込んでくるところを見たの。――でも、そこで私の現世での記憶は途切れてる」
「厘……」
少年は、ただ少女の名前を呼ぶことしかできなかった。
でも、それでも、彼女は満足そうに微笑んだ。
「結局、私が生前、最後の最後に弟を助けられたのかは分からない。ひょっとしたら、私のしたことに意味なんてなかったのかもしれない。――だから、私は、今度こそ、誰かを守って死ぬことを、意味のある死に方ができることを、誇りに思う」
静かに語り終えた彼女の瞳には――小さく、今にも消えそうな火がうつっているように見えた。
まさに、風前の灯火。
――でも。
まだ、消えてない。
「厘!」
今度こそ、強くその名を叫ぶ。
その火が消えないように。
「諦めるな!――いや、ここで終わろうとするな!自分の死に、綺麗な意味を見出して 生きることを放棄するな!」
――否。
その火がもう一度、強く輝くように。
「生前のお前のことを、俺は知らない。……だけど俺は、『冥府』で戦うお前は、誰よりも――誰よりも強いことを知っている!」
少年は、自分の弱さを痛感しているからこそ、少女の「強さ」に惹かれていた。
強力な十六能力だとか、ポイントだとか、そんなものに縛られない強さを、鳴滝厘という少女が持っていることを知っていた。
「お前は、生きようとするから強いんだ。理不尽を相手に戦って、勝とうとするから強いんだ!弱い者を助け、強い者に挑む、そんなお前を――俺は、もっと見ていたいんだ」
初めて会った時から、京にとって厘とは、「冥府」における先人であり、この世界で戦うということの象徴だった。
死んでもなお強く生きようとする、そんな彼女に――京は、憧れていたのだ。
「ここで諦めず生き延びて、戦って戦って、現世に生き返ることができたなら――その目で確かめればいい。弟が生きているか お前が死の間際にしたことに、意味があったのかを」
「……もし、私の弟が死んでいたら?」
「それも噛み締めて、また生きればいい」
暴論。他人事の極み。
そう思われてもおかしくない京の言葉を、厘は静かに飲み込んだ。
「でも、この瓦礫の山から抜け出す方法がないわ。崩落に巻き込まれたら、京まで死んでしまうかもしれない。もし無事に抜け出せたとしても――そこには刹那さんがいる」
未だ諦めを含んだような響きで、厘は京に問いかける。
「あの人に勝たなければ、現世に生き返るどころか、今日ここで死ぬのよ?あの人に戦い方を教わった、私だからこそ分かる。私たちじゃ、あの人には勝てない」
「それでも――このまま動かずに、ただ死ぬのを待つよりはずっといい」
息を切らしながらも、京は厘を――そして自分を励ますように、ニヤリと笑ってみせた。
虚栄かもしれない。虚勢かもしれない。
それでも、生きようとする意思は真実だった。
「行こう、厘」
狭い空間の中で、少年は少女の手を握った。
そこに、かつてのような躊躇いは微塵も存在しなかった。
「京……」
少女は、ただ、少年の名前を呟く。
そして、彼女もまた、決意を新たにするように、快活に笑った。
「わかった。――行こう」
その時、厘の胸元にかけられた「輝石」が、眩いばかりに輝きを放った。それはまるで彼女の意思に呼応したかのように、強い光をもって戦いへと誘う。
「烈火矛槍」
彼女が、そっと触れた瞬間――その紅い石は、弾け飛ぶように形を変えた。
ルビーのように、太陽のように、鮮血のように――赤く、紅く輝く一本の槍。
それは、かつてないほどに眩い輝きをもって、厘の手中に顕現した。
「十六能力は、その使い手の生き様と死に様を反映する。……やっと分かったよ。私のこの槍は、あの火事よりも強い烈火で、立ちはだかるものを貫く――そのための矛槍なんだ」
そうして厘は、生き抜く決意を固めた少女は、真っ直ぐな瞳で頭上を見た。
視界を塞ぐのは、瓦礫の山。下手に崩せば、二人ともが崩落に巻き込まれてしまうだろう。
それでも、少女に迷いはなかった。
「――おおおッ!!」
狭い空間で、最大限の溜めを作る。すると、紅蓮の槍の周囲に、炎のような赤い粒子が渦巻いた。
その回転は、次第に速く、大きくなっていく。抑えきれない熱が厘の体を包み、やがて京にもそれが伝わってきた。
上へ。空へ。天へ。
ついに放たれた一撃は、瓦礫の向こう、遥か夜空までも貫くかのような勢いで、少女と少年の視界を赤に染めた。
――そしてまた、彼らは戦場へと。
生きるための戦いへと。




