刹那という青年
京が声のした方へと振り向くと、砂浜と街の境界線の辺りに、ぽつりと独り佇む影が目に入った。
「俺がいない間に、ずいぶん修行したんだな。偉いぞ」
その影は、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
他の「府民」であることは間違いない。ただ、その佇まいからは敵意を感じなかったため、京は特に身構えることなく、その青年の姿を眺めていた。
歳は、自分より少し上だろう。風貌を一言で表すと、美形。整った顔立ちとスリムな体型が相まって、まるで雑誌に出てくるモデルのようだ。病弱そうに痩せた京とは違い、細いながらもしなやかな筋肉を持ったその体からは、強者の風格が滲み出ていた。
彼の言葉から察するに、厘の知り合いだろうか。彼女の成長を褒めるということは、この青年は相当な実力者ということになる。
「なぁ、厘、この人は――」
京がそこまで考え、隣に立つ厘に話しかけたとき。
彼女は、軋む音が出るほどに紅蓮の槍を強く握りしめ、鬼のような形相で青年を睨んでいた。
「……なんで」
歯を食いしばり、何かに耐えるような表情で、栗色の髪の少女は言葉を絞り出す。
「なんで……戻ってきたんですか」
怒りだけではない。どこか、悲しみすらも称えたようなその声に、青年はあくまで涼しげに答える。
「あそこが、俺の望むような場所じゃなかったからさ」
あそこ、とは?いや、そもそも、この状況は一体……?
京の疑問は尽きなかったが、少なくとも、それを詳しく聞いている暇がないことだけはわかる。
「だとしても」
敵意を剥き出しにしたその体勢に反して、厘の声は消え入りそうなほど細く、弱々しかった。
「どうして、私の前に姿を現したんですか」
「後輩の安否は気になるだろ。サンの馬鹿を除いてな」
とぼけたような拍子で、青年は答える。サンの名前がでてきたということは、ハイツ・デネブの関係者だろうか。
「それと、八千代のヤツには会いたくなかったもんでな。オマエがハイツ・デネブを離れる瞬間を待っていた」
青年は、薄く笑う。その言葉の全てに、嘘偽りがあるようには聞こえなかった。
「まぁ、特にこれといった用はないんだがな。オマエが元気そうで良かった。……隣のソイツは、新入りか?俺はハイツ・デネブのOBで、石田 刹那ってんだ。よろしくな」
異様な緊張感の中、あまりにも気さくに自己紹介をされ、京はたじろいだ。
「……嵐山 京です」
この場では、それだけ言うのが精一杯だった。
しかし、以外にも刹那と名乗った青年は京の言葉に反応を示した。
「……嵐山?オマエ、その顔、もしかしてアイツの弟か?」
「……え」
その台詞は、これ以上なく、呆気なく彼の口から発せられて。
京の思考を、真っ白に塗り固めた。
「――あんなことをしておいて、よくOBだなんて言えますね」
代わりに答えたのは、厘だった。手負いの獣のような危険なオーラを放ちながら、より強く青年を睨みつける。少女は今にも、手にした槍で彼を刺し殺してしまいそうで――
「……俺がどんなことをしても、オマエらと過ごした日々は思い出の中にあるぜ」
否。
「おおおおおおおおおっ!!」
青年の言葉が終わらないうちに、厘は槍を構えたまま突進を始めた。その咆哮は、静寂に包まれた「冥府」の闇を突き破り、はるか天までこだまする。
全身の体重を乗せた、渾身かつ捨て身の一撃。
槍術など詳しくない京にとっても、その凄まじさは肌から伝わってきた。
「おいおい、早まるなって」
その一撃を、青年は俯瞰したような目で見据えながら――
手にした刀で、払い落とした。
「……は?」
あまりにも間抜けな声を出し、京は思考を再開する。
刹那という青年が手にしているのは、アメジストから打ち出したような、紫に輝く太刀。材質は全く異なるが、その形状や言いようもない威圧感は、むかし博物館で見た本物の刀と変わらない。
間違いなく、刹那という青年の右手に握られたこの太刀は彼の十六能力だろう。
だが、そもそも、彼は今まで両手に何も持っていなかったはずだ。能力を発動させるためには、「輝石」を握りつぶさなくてはならないはずで――いや、彼の左手は、胸元のペンダントに添えられていた。……いや、それも間違いで、添えられていたのではなく、すでに握り潰した後なのだ。
あまりの展開の速さに、思考が追いつかない。
そもそも、槍や刀に詳しくない京をもってしても、リーチがある分、離れた場所から接近するような戦いでは槍のほうが有利だということは分かる。それが、あまりにも簡単に、よりにもよって厘の「烈火矛槍」が、彼の刀に敗れたのだ。
紅蓮の槍が、地面に転がる。それと同時に、槍は穂先から紅い光の粒になり、厘の胸元のペンダントへと収束した。
少女は、ただ、呆然とした表情で虚空を見つめる。
「別に、オマエをどうこうしようってんじゃないんだ。言っただろ?俺はただ後輩に会いに来ただけだって」
整った顔立ちに微笑みを浮かべ、青年――刹那は厘を見据える。
「まぁ、でも、俺に能力を使わせるくらいは強くなってくれて嬉しいぜ。この調子で、目指せ10000ポイント!ってな」
その言葉は、厘の耳には届かない。彼女はただ、絶望の表情を浮かべ、うなだれるのみ。
両者の空気感の違いは、圧倒的な実力差にあるのだろう。刹那という青年は、厘、ましてや京を「戦いの相手」として見ていない。
この二人の間に何があったのかは、京にはわからない。悠長に聞き出している暇もないだろう。
だから、極めて簡潔に、京は今自分が問うべき言葉を発した。
「……姉ちゃんを、知ってるんですか」
「お、やっぱ弟か!難儀なもんだな、姉弟揃って冥府こんなとこに来ちまうなんてよ」
少なくとも、今の彼には、京への敵意は存在しない。そして、厘に害を与える訳ではなさそうだ。ここは、踏み込んで質問をしてみるべきだろう。
否。そんな理性的に考える前に――思わず、口から言葉が漏れた。
「姉ちゃんを、どこで見たんですか? ――姉ちゃんは、生きていますか!?」
「おうおう、必死だねぇ。泣けるぜ。でもな、少年。残念ながら、今は教えねえ」
「……今は?」
「ああ。いいことを思いついたもんだからな」
刹那という青年は、紫の刀を星の光で煌めかせ――
「オマエの姉ちゃんを殺してから、その死に場所を教えてやるよ」
瞬間。
京の体に迸ったのは、なによりも純粋な「敵意」。
拒絶ではまだ生温い。
マグマのように煮えたぎるその感情は、黒い奔流となって、少年の全身を駆け巡る。
そうした流れが、京の右拳の一点に集まり、凝縮し、「反定立」という形を成したとき――彼は無意識に「敵」へと飛びかかっていた。
そして。
切断。
血飛沫。
振りかぶられた少年の右腕は、肘のあたりから、その体と分離した。
綺麗に。いっそ、鮮やかなほどに。
切断面から流れ出るものは、正確には血ではなかった。
砂粒ほどにちいさな、そして宝石のように澄んだ、赤い砂利のようなもの。
これが、この世界において人間の体に流れているものだということを、そのとき初めて少年は知った。
少し遅れて、痛覚が悲鳴をあげる。
視界に入ったのは、自身の体から切り離された右腕。そちらの切断面からも、赤い粉のようなものが流れ出ていると認識した瞬間、右腕全体が淡い光に包まれ、瞬く間にその姿が光の中に消失した。
右腕を斬られた。
京は、たっぷり3秒もかけて、その事実を認識した。
痛い。痛い痛い痛い痛い。
紫に輝く刀を持った青年が、薄ら笑いを浮かべているのが見えた。
痛い痛い痛い痛い痛い。
驚きで目を見開く厘の姿も、視界に映る。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
もう、自分の右腕はどこにもない。斬られてしまった。消えてしまった。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
――――でも。
少年は、倒れかけた足を踏ん張り、左拳を握った。
そして、その上に黒い魔法陣を展開する。
青年の薄ら笑いが、止まった。
――はは。ざまぁみろ。
声にならない声が、少年の頭にだけ響いた瞬間――
ズン! という衝撃が世界に生まれた。
暗転。




