明晰夢《ルシッドメア》
『まずは、君がこの世界でどうやって戦っていくか、決めんとあかんなぁ』
ハイツ・デネブの前の広い道。他と同じように、青く染められたタイルが敷き詰められたその場所で、八千代がどこか悠長な様子で述べる。
『二つ目の能力の性質から考えて、まぁ格闘型なのは間違いないやろ。 格闘技の経験は?』
『もちろん、そんなものはありませんよ。見ての通りです』
『せやなぁ、そんな病弱そうな見た目で、実は……っていうのを期待したけど、やっぱり現実はそうはいかんか』
そもそも、謎の能力が使えるようになった時点で、現実が現実たる現実味がなくなった訳だが、京のそんな心中に構わずに八千代は続ける。
『この世界じゃ、訓練次第では生前よりもはるかに俊敏に動けたり強い力を出せたりするねん。心当たりはない?』
『そういえば……』
初めて厘と出会ったとき、彼女の予想外の腕力に驚いた。それは、厘の基礎的な身体能力が生前より増しているということだろう。
『まぁ、ひとまずは一回、ガイくんと戦ってみぃな。実際に見せたほうが早いやろ。君は十六能力を使ってもええよ』
『お、俺か……?嫌だよ、さっきのでぶっ飛ばされるのはごめんだ』
車椅子の女性が、横に立つ長身の青年に指示を飛ばすと、青年は苦い表情を浮かべ、それを拒否した。その様子からは、本当に自信がなさそうに見える。
しかし、八千代は顔色ひとつ変えずに、ただ一言だけ命令した。
『やれ』
『……やります』
渋々、といった形で了承し、長身の気弱そうな青年が京のほうへと向き直る。そして、申し訳なさそうに、
『ご、ごめんな……。八千代の命令なんだ。……というか、むしろ俺が手加減してほしいくらいなんだけど……』
『お互い、手加減はなしやで?わかってるとは思うけどな』
『……はい』
そう答えたのは、京かガイか。
京は右手に黒い魔法陣を展開し、長身の青年を見据えた。
そして、勢いよく駆け出し、その右拳を振り下ろす――
結論から言うと、京は一撃もガイに当てることができなかった。相手が十六能力を使ってくるでもなく、攻撃を仕掛けてくるわけでもなく、だ。
京の動きは全て見切られ、右拳は虚空を捉えるだけ。彼我に実力差があることは、火を見るより明らかだった。
そして、京が能力を使えるだけの集中力も体力も枯らしたとき、八千代からストップの声がかかった。
彼女は、また顔色ひとつ変えずに言い放つ。
『……新入りくん、思ってたより――弱いなぁ』
*
特に戦闘に特化した訳ではない、むしろ逃げにステータスを振ったようなガイに対して、真っ向勝負で相手にならなかったということは――自分はこの世界において、ほぼ最弱と言ってもいいのだろう。
「冥府」で3年もの間生き延びた「装甲の男」に一撃を入れただけで、自分はもしかしたら強いんじゃないか、という期待を抱いていた京にとって、その事実はショックだった。
――そうだ。あの「装甲の男」は、自分がもうすぐ確実に死ぬという恐怖によって、冷静な判断力を失っていた。だから、素人なりに一撃を加えることができたのだ。
考えを改めなくてはならない。自分が強いなどという慢心を持ったまま戦うことは、この世界では死を意味する。
そう。
弱ければ、何もできないまま死ぬ。
『気負うたらあかんよ。力みが出る。力みは隙を生むし、隙は死を呼ぶ。ちゃんとした思考力を持った「府民」だけやないで。明晰夢にしたって、アホとちゃうんやから。気取られんように、かつ大胆に――殴れ』
八千代の言葉がフラッシュバックする。今は、そのアドバイス通りにできる訳ではないが――それでも、可能な限りその進言を頭に刷り込み、目の前の明晰夢を見据える。
右手には、「反定立」。拒絶を示すその能力を握りしめ、京は敵に向かって駆け出した。
赤い明晰夢が、太い右腕を使ってガードの構えをとる。
――しめた!
心の中でそう叫び、京はそのまま丸太のような右腕に向かって拳を振り抜く。
ズン! という衝撃が、両者の接触点に生まれる。
――大きく吹き飛ばされたのは、明晰夢のほうだった。
赤い奇妙な怪物は、足元の透明な砂をより細かい破片へと変えながら、およそ5メートルほどの距離を転がる。
(……よし)
「反定立」は、触れたものと京の拳をくっつける「定立」とは逆に、触れたものと京の拳を反発させる。
あくまで「反発」させるだけなので、相手を吹き飛ばすという見た目に対し、直接的なダメージはさほど与えられないが――相手の「硬さ」を無視して攻撃することができる。
そして何よりの利点は、一度攻撃すれば、相手と距離をとることができるというポイントだ。連続攻撃はできないものの、まだ戦闘に慣れていない京にとっては、相手との距離の分時間に余裕ができる。接近戦を主とする相手ならば、この能力はいくらか有利に働くだろう。
視界の先で、赤い明晰夢が立ち上がる。触れた感触は石のように硬いのに、なぜか滑らかに体を動かすことができるその怪物は、無感情に、再び京の方へと歩みを進めた。
一度使用して消えてしまった「反定立」を、再び右手の拳に宿す。これはガイとの模擬戦で分かったことだが、今の京が使える「反定立」は、1日でおよそ10回。十六能力は体力や精神力を消費するものなので、使用できる限度があるのだ。
一度殴って距離を作り、再びそれを詰めてきた相手を殴る――八千代曰く、「能動的ヒット&アウェイ」作戦は、確かに戦闘慣れしていない京にとっては向いている作戦だが、能力の使用限度を考えると、あまりダラダラと戦ってはいられない。
(次で決める)
京がそう決意したと同時に、明晰夢が足の動きを速め、走るような形で接近してきた。
相手の動きを見て、タイミングよく右拳を振り抜く――前に。
京の視界が、突如として奪われた。
「うっ――!」
何が起こったか分からず、思わず「反定立」を解除し、両手で目をこする。
次の瞬間、またしても京の脳天を雷のような衝撃が襲った。
声にならない声をあげ、今度は京が吹き飛ばされる。その体は波打ち際を経て、海の中へと沈んでいった。
大量の水――それは現世での海水のように塩辛い味ではなく、どこか酸っぱい味がした――を飲み込みながらも、京は必死の形相で海面から顔を出し、呼吸を整える。そこでようやく、明晰夢が自分に接触する直前に足元の砂を巻き上げ、目潰しをしたのだということに気がついた。
赤い怪物は、再びゆっくりとした足取りでこちらに近づいてくる。そいつは人の形をしながらも、その顔には凹凸ひとつなく、表情もなければ感情もないように見える。
(こっちが目潰しをするのは、不可能かな……)
視界が戻り、いくらか呼吸が落ち着いたところで、そう分析する。明晰夢が何を頼りに自分を「見て」いるのかは分からないが、少なくとも人間と同じような目によってではないだろう。
そして、相手が水中でどれほど動けるかも未知数。
ならば、自分の動きが鈍る海の上で戦うことは得策ではないだろう。
海水を掻き分け、波打ち際の方へと進む。赤い明晰夢は、もうすぐそこまで来ていた。
(くそっ、急がないと――)
京は、目の前の相手に集中しすぎて、気づかなかったのだ。
自分の足元、浅い水の底に転がる、透明なサッカーボールほどの大きさの石に。
完全なる偶然。しかし、その石は無情にも、京の足元をすくい――少年を転倒させた。
(なん、で――)
それは疑問ではなく、嘆きだった。1秒を争うという戦いの最中に、予想外に生まれた隙。
あるいは、厘であればそれにも対応できたかもしれない。しかし、実戦という実戦はほとんどこれが初めてという京にとっては、想定外の事態に咄嗟に動くことができなかった。
京の体が水面にぶつかり、大きな波を立てる。そして、うつ伏せになった彼の頭頂部を、三度、赤い怪物の太い腕が襲う――
「おおおっ!」
その、前に。京は地面に触れていた右手で「反定立」を発動し、掌と地面を「反発」させた。
体のバランスを完全に崩しつつも、左方向に勢いよく転がる。まるで水切りのように、2回、3回と浅瀬を転がりながらも、明晰夢の攻撃を逃れることができた。
コンマ数秒遅れて、右手側で大きな波飛沫が起こる。太い腕が水面を叩き、その下の砂利までも巻き上げたのだ。
間一髪。そして一息つく間も無く、赤い怪物はこちらとの距離を詰めてくる。その速度は、陸上での動きと何ら変わりはなく、それは即ち、足元を水に囚われている京よりも満足に移動できることを意味していた。
京は、焦る頭で必死に考えた。
彼我の距離は、およそ4メートル。浅瀬とはいえ、水上で戦うのは得策ではない。それは分かっている。だが、自分が砂浜に上がる前に、あの奇妙な怪物は追いついてしまうだろう。
――ならば。
京は足元を見渡し、先ほどと同じような大きさの石を探す。
幸い、水が透き通っていたおかげで、星空の光を反射して輝く、乳白色の大きな石を見つけることができた。
――あった!
すかさずその石を手にとり、明晰夢に向けて翳す。
そう。投げるのではなく――
「『反定立』――!」
叫びながら、京は石を掴む右手の掌に黒い魔法陣を展開させた。
次の瞬間、乳白色の石が勢いよく彼の手から離れ、放物線を描きながら飛翔する。
まるで砲弾のように射出されたその石は、明晰夢の胴体に命中すると、甲高い音をたてて砕け散った。
その衝撃を受けて、明晰夢の胴体部にもひび割れが入る。
怪物がバランスを崩し、倒れたところを見逃さず、4メートルの距離を詰める。
倒れた後、再び起き上がろうとした明晰夢の胴体に向けて、今度は直接、「拒絶」の拳を叩きつけた。
何度目か分からない、水飛沫。
砂浜に向けて打ち上げられる、赤い怪物。
ようやく陸上へと場所を戻した戦いは、次の一手で決着がついた。
仰向けで転がる明晰夢に向けて、5回目の「反定立」を展開する。
今までは、後ろや横に空間があったので、能力を使えば敵や自分を吹き飛ばすという結果になった。
だが、今回は違う。
仰向けでもがく、明晰夢。その背中には、地面。
即ち――衝撃は、ダイレクトで敵に伝わる。
――明晰夢に止めをさす時は、心臓部を狙うの。そこに奴らの核があるから。
厘の言葉をなぞるように、赤い怪物の心臓部に向けて、垂直に、まっすぐに、最後の拳を振り下ろす。
バキィッ!!
という音を立てて、明晰夢の胸に亀裂が入る。それは、そのまま全身へと広がり――ついに、無数の破片になって怪物は動きを止めた。
その瞬間、京のポケットに入った「府民証」が震える。おそらくは、明晰夢を倒したことによりポイントを得たという通知なのだろうが――今は後だ。別の場所で戦っている厘の様子が気になる。
ふと、辺りを見回すと――黄色い明晰夢の心臓部に、紅蓮の槍を突き刺す少女の姿が目に入った。どうやら、あちらも同時に決着を迎えたらしい。
「大丈夫だった!?」
慌てた様子で、その少女――厘が駆け寄ってくる。それは、まるで保護者が迷子の子供を見つけた時のような振る舞いで、思わず京は苦笑してしまう。
「何発か頭にもらったけど、まぁ、大丈夫そうだ。……そっちは?」
「私も大丈夫。良かった、大事にならなくて」
安堵の表情で、厘がつぶやく。そこで、二人揃ってため息をついた。
「あんな風に襲ってくるんだな、明晰夢って」
「そう。府民証が、奴らの出現を教えてくれるんだけど――ここまで近くに、いきなり出てきたのは初めてだわ。ほんとに、勘弁してほしいくらいよ」
少し弛緩した表情で、少女はぼやく。戦っているときの彼女とはうって変わって、今の厘からは年相応の雰囲気を感じる。
――そうだ。この世界に住んでいるのは、元々は現世で生きていた人間。超人的な力を使えるようになったからといって、心まで人間を辞めてしまった訳ではない。
戦いが、日常だとしても。失ってはいけないものもあるのだろう。
――と、その時。
「強くなったな、厘」
不意に、涼しげな青年の声が、砂浜に響いた。




