孤独
ぼんやりとする意識が、徐々に鮮明になっていく。見慣れない天井に疑問がわいた。
(ここは、どこ?)
はっとして、上体を起こし、自分の喉に手を当てる。
「…」
あぁ、どうしようか。誰か、嘘だと言ってはくれないだろうか。これは夢だと。寝ているだけだと。
そんな少女の想いとはお構いなしに、部屋の扉が開いた。
「あ。お嬢さん、お目覚めですか!」
起きている少女を見た彼は、ぱっと顔を明るくした。しかし、暗い顔をしている少女に、すぐに表情を曇らせた。
「えっと、一応ケガとかはなかったんですけど、具合い、悪いですか?」
「…」
口を開きかけて、顔を歪ませた。代わりにうなだれるようにして小さく首を横に振った。
(あれ、そういえば…)
ふと、思いついたように少女は顔を上げる。視線は、部屋に入ってきた少年に向けられた。正確には、少年の足に。
「!!」
「どどどうしました!?」
少年が驚いたのも無理はない。突然布団を投げるように剥いだのだ。そして、自分の下半身をみて、目を見開いた。
(人間の、足)
きれいなウロコも、尾もない。そこには二本の足が、付いていたのだ。
(あぁ、そうだ。思い出した…)
どうして自分が人になっているのか、声を失ったのか。その、原因を。
「…ん。…じょうさん?お嬢さんー?」
「!」
「あ!危ない!」
俯いていると、覗き込んできた顔に驚いて飛び跳ねて下がったフィリアはとっさについた手が滑り、ベッドの上から落ちそうになる。寸でのところで、少年がフィリアの腕を掴み、難を逃れた。
しかし、すぐにその手を払いのける。
(地上に送られるまでの記憶はあっても、ここに来た記憶がない…)
警戒を露わにして少年を睨みつけると、困った顔をして頭を掻く。
「えっと、すいませんでした。お嬢さんがぼーっとしてたんで、何かあったのかと思って…」
しょんぼりとする少年に、なんだかフィリアが罪悪感を覚えてしまった。海底で聞く人間のうわさなど、怖い目をして追いかけてくるとか、魚人を捕えてウロコを一枚一枚剥がしてくる、など、嫌な話ばかりだったのに、目の前の少年からは嫌な気配がしない。むしろ、すごく反省しているようだった。
(でも、どうしよう…)
聞きたいことも、言いたいこともたくさんあるのに、声が出なければ始まらない。
とりあえず、声が出ないことを伝えるために、喉に手を当て、口をパクパクと動かして見せる。
「も、もしかして、お嬢さん、声が出ないんすか?」
観察力が鋭く、少年の言葉にフィリアはコクコクと首を縦に振った。
警戒はするが、しすぎては状況すら分からない。今目の前にいる人間は、少なくともフィリアを今すぐにどうこうしようとはしていない。
(なら、色々聞いてみてもいいかしら)
「えっと…”あなたは”?あ。俺の名前はルイスっていいます」
ルイス、と口を動かすと、声が出ていないのに嬉しそうに笑った。ルイスの反応が素直すぎて、警戒しているとなんだか居心地が悪くなる。
振り払うように、次の質問をルイスにする。
「”ここはどこ”?えっと、ここはノマンツァファミリーのアジトっす。あぁ!マフィアですけど、外道なことには手を出してない、人殺しもしない、ファミリーっすよ!」
今回の質問の答えは、フィリアの理解が追いつかなかった。
(ノマンツァファミリーっていうのが、きっと城の名前、みたいなものかしら。あれ、でもアジトって言ってるんだから、城の拠点…?城が拠点のはずなのに、それはきっと違うわね…)
知らない単語が出てきて理解しきれないが、とりあえず、場所の名前は知れた、ということでフィリアは思考を完結させた。
それよりも、知りたいことがあった。
「”どうしてここに”?お嬢さんは、海岸に倒れていたんすよ。ボスが見つけて、連れてきたっす」
海岸、それは海の入り口。頭の中に、海底のことがよぎり、胸が苦しくなった。
自分だけが、逃がされてしまった。今日から、姫として女王を、お母さまを支えるはずだったのに。
なによりも、カイトの苦しそうな顔が、頭から離れない。
逃げ道がないと、危険な地上へ送ることが、苦しかったのだろうか。
それとも、魔法の薬で人間に姿を変える代わりに声を失うことを嘆いて…?
分からない事ばかりで、不安に押しつぶされそうになる。
でも、今傍には誰もいない。人魚とばれては何をされるか分からない。自分がしっかりしなければ。
そんなことを考えていると、誰かが扉をノックした
部屋の扉が開き、現れた男にルイスは立ち上がって頭を下げた。
「お疲れ様です、ボス」
ボス、と呼ばれた男はまっすぐにフィリアだけを見つめ、ベッドの傍まで歩いてくる。そんな彼を、フィリアも見つめる。
組んだ腕から見える手には白い手袋、肩にスーツをかけ、左目は黒い眼帯で覆われていた。右目から覗く青い瞳は柔らかな金髪によく似合っていた。まとう空気がルイスとは違い、傍に来るだけで背筋が自然と伸びてしまうような、長の風格がある。
吸い込まれそうなブルーの瞳は、偽りの姿をするフィリアを見抜いてしまいそうで見つめ続けることはできずに、俯いた。
しかし彼は、顔を逸らすことを是としなかった。フィリアの顎に手を添え、視線を合わせてくる。
「お前、どっから来た」
(どこから、って…)
海の底からだ、と言って果たして彼らは信じるのだろうか。そもそも人魚である、いや、人魚だったと知ったら、何をされるか分からない。
そもそも、何故そんな的確な質問をしてくるのだろう。まるで、フィリアが人ではないことを知っているかのように。
そこまで考えてしまうのは、きっとこの揺るがない瞳の力強さゆえだろうか。
嘘は見抜かれてしまう、なんとなく直感的にフィリアはそう思った。
しかし、この状態では説明するのも難しい。
考えあぐね、視線は自然と逸らしてしまった。
「あ。ボス、実はお嬢さん、声が出ないみたいなんです」
「そうなのか」
ルイスの言葉に、頷く。真実であることを信じて欲しくて、フィリアは彼の瞳をじっと見つめた。
数秒後、フィリアの顎に添えられていた手がすっと引き、視線もそらされた。
「…まぁいい。食事は部屋に運ばせる。お前は外に出るな。ルイス、お前は見張りをしろ」
しゃべれない、そういわれたところで信ぴょう性は薄すぎる。
声が出れば、何かを伝えられるのに。信じてもらえなくとも、本当のことを話してしまえるのに。
俯いて、自分の無力さに拳を握りしめる。
「ルイス、行くぞ」
「で、でも…」
俯くフィリアと問答無用に部屋を出ようとする男。オロオロと交互に見た後、ルイスはすみませんと言葉を残し、部屋から出ていった。
静寂が部屋を包む。ベッドの上で、握られた手は、血の気が引いて白くなっている。
シャラっと音がして、ふと視線を胸元に落とす。
そこには、母がくれたペンダントがあった。
(もう、誰も、助けてはくれない)
頭に浮かぶのは、小さいころからの友人や、最後まで守ってくれた側近たち、そして戦の渦中へと向かっていった母の後姿だった。
傍にはもう誰もいない。そんな事実がいまさらになって実感を得てきた。
堪えきれずにあふれ出す涙の止め方すらわからず、ペンダントを握りしめながらフィリアは静かに泣いた。
(やっぱり、海は落ち着く)
小さくさざ波を立てる浜辺にフィリアはぽつりと立っていた。部屋に居ろと脅されたが、その程度で折れるフィリアではない。扉の前には見張りがいるようだったので、窓からこっそり抜け出したのだ。
目の間には、大好きな自分の故郷の海がある。でも、この体では戻ることはできない。
(…人魚に、戻れるのかな)
声にならない言葉は、フィリア自身を苦しめる。
月の光で美しく輝く海も、遠く感じて視線が次第に下がってゆく。
目に入るのは、白いワンピースから覗く人間の足。
ふと、その時気が付いた。
(あれ。そういえばこの服って…)
フィリアが着ていたドレスとは違い、生地の薄い動きやすいシンプルな白いワンピースだった。目を覚ましてから着替えた覚えはないため、誰かが着替えさせてくれたのだろうか?
誰が、と頭に浮かんだ二人の顔をフィリアは追い払う。種族は違えど男に変わりはない。あの二人が好意でしてくれたとしても、あられもない姿を見られてしまったとなると恥ずかしい。
分からないことをこれ以上考えても仕方ないので、フィリアは砂浜を歩きだした。
(…誰かがまだこっちを見てる)
風に乗って感じる嫌な気配に、悟られないように歩きながら気づかれないようにため息をつく。
フィリアがこの海岸に着いてから、誰かがずっとこちらを見ているような気配が微かにしていた。
はじめはルイスかゼンのどちらかかと思っていたが、獲物を狙う視線のように感じて、彼らである可能性は低くなっていた。
それならば、確かめるしかない。そう思ったフィリアはその場にしゃがんだ。砂を集めて山にし、波が運ぶ海水を付けてどんどん大きくしていく。
無邪気に遊ぶ、女の子を演じているのだ。
「こんな夜中に、1人で何をしているのかな?」
(来た!)
ぱっと後ろを振り向くと、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる男が立っていた。
(…ルイスの仲間ではなさそうね)
男を上から下まで眺め、観察する。見られている男は品定めされているとは考えないのか、面白そうに笑っている。
「暇なら、お兄さんと遊ぼうよ!」
(!)
「あれぇ、大丈夫?」
フィリアは一歩下がろうとして、転んでしまった。気を抜いてしまったのがあだとなり、足を砂にとられたのだ。フィリアの心に焦りが生じる。迫りくる男は先ほどよりも気持ちの悪い笑みを浮かべており、まずいとは思いつつも、迫る男を払う方法が思いつかない。
何か、何かと視線をさまよわせ、自分の手に止まる。
(ごめんなさい!)
「!!ぎゃぁ!砂が目に!!」
顔面に砂が直撃した男は怯み、その隙をついて、フィリアは走り出す。
目に異物が入るのはとても痛い。悪いことをしたと思いつつも、来た道を記憶をたどりながら戻る。
「ーだ!」
後ろから先ほどの男が大声で騒いでいるのが聞こえる。当然のことながら、相当お怒りのようだ。
(で、でも、走れない…)
気持ちは焦るが、足が上手く前に進んでくれない。
幸運にも、男はずっと喚いており、だいたいの位置が予想できる。それを頼りに、足がもつれながらも何度目かの角を曲がろうとした時だった。
「きゃっ」
(わっ)
ドン、と角を飛び出してきた人にぶつかって倒れてしまった。
腰をさすりながら立ち上がり、ぶつかった子をみると、ぬいぐるみを抱えた小さな女の子だった。
「ご、ごめんなさい…」
びくびくと震えている女の子に視線を合わせるようにしゃがみ、安心させるように微笑む。
女の子も、驚きながらも、少し笑ってくれた。肩の力が抜けたようだ。
(よかった。けがはしてないみたい)
ほっとしたのも、つかの間だった。
「見つけたぞ、このアマぁ!」
回り道をしてきたのか、細道の先に男の姿が見えた。
「あぁ?ちびすけぇ!てめぇまた抜け出してきやがったのか!」
「ひっ」
走ってきた男は、フィリアの後ろに居る女の子を見て、さらに怒っていた。
(させない!)
「いってぇぇぇ!」
女の子を捕えようとした男の腕を、フィリアは反射的につかみ、全力でねじる。
痛がる男をしり目に、女の子の腕を掴んで立ち上がらせ、その場から離れる。
しかし、すぐに男に追いつかれてしまった。
「逃がさねぇよ!」
(!!)
髪を乱暴に捕まれ、痛みに顔がゆがむ。さらに首筋に冷たいものが当てられる。刃物だというのは分かった。そして、男のおかしさに気づく。
(この腕じゃ、動かせないはずなのに!)
そう。先ほど捻った腕で、男はしっかりと刃物を握っていたのだ。やせ我慢かとも考えたが、指先が白くなっていることから、相当な力がこもっていることがうかがえる。
「お、ねぇ、ちゃ…」
はっとして、女の子をみると、真っ青な顔をしてフィリアたちを見つめていた。年端もいかない子供に、もしもの場合を見られるわけにはいかない。
(逃げないさい!)
フィリアは、全力で少女を睨み、視線を道の先に流した。女の子には申し訳ないが、体を動かすためには打ち破る恐怖も必要なのだ。だから、フィリアは必死に睨みつける。
「っ!」
(あんたの相手はこっちよ!)
女の子が走り出すと同時に、フィリアは男のみぞおちに肘を打ち込んだ。
「いてぇよいてぇよ」
男の腕から抜け出し、対峙する。力いっぱいお見舞いしてやったつもりだったが、男はかゆそうに殴られたところを掻いていた。
そして、対峙して男の異変に気付いた。男の視線が、定まっていないのだ。
「もう一本、入れとこうかなぁ~」
男がズボンのポケットから取り出したのは、緑色の液体が入った注射器だった。そして、ためらいなく自分の首に刺した。よく見ると、男の首には刺した跡が無数に残っていた。
驚き、警戒するフィリアの前で、男が高笑いする。ねじが外れたような笑い方に、一歩後ろに下がる。
「逃げんじゃねぇよぉぉぉぉぉ!」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。気付いたときには、腹部に激しい痛みが襲い掛かり、その場に崩れ落ちた。
「さっきのー、おかえしだよぉー」
(なに、これ…)
呂律の回らない男が、嬉しそうに見下ろしている。
謎の液体、度を越えた力、明らかにおかしい男の様子に、フィリアが分かるのはこのままでは殺される、ということだけだった。
逃げたいと、逃げなくてはと思っても、痛みで立ち上がることすらできない。
間近に迫った男が、腕を振り上げ、フィリアは来る痛みに備えて目を強くつぶった。
「ぎゃ!」
暗闇の中で、男の声と何かが倒れる音が聞こえた。覚悟していた痛みは襲ってこなかった。
「お疲れさん」
(!!)
優し気なその声に、驚いて目を開けると、さきほどまで男が立っていたところに例のボスが立っていた。面白そうなものを見るように不敵に笑っている。
何故ここに、黙って出てきたのにお咎めがないのか、たくさんの疑問が浮かび上がったが、考えられない。
信じれるものなど、何もないはずなのに、彼を見たら全身に安堵が広がり、意識がなくなったのだった。