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長岡くん、永田さんに思いを打ち明ける。

作者: 英知辞典

 昨日で夏休みが終わり、今日からまた小学校が始まった。6年生の長岡くん(12才・男)は、朝早くから学校へ行った。早く行きクラスの友達に会うため、ではない。机の中に置きっぱなしにしていたの夏休みの算数の宿題をするためである。

 長岡くんは、とても素直、実直な児童であった。もし仮に、長岡くんが世間を騒がすような事件を起こせば、ニュース番組の中で、「笑顔が明るくて、とても気の利く優しい子で、ご近所でも評判が良かった。そんなことをするなんて信じられない」旨のコメントが紹介されるような子であった。要するに、長岡くんは、宿題など一度も提出したことはないのであった。

 さて、真面目な長岡くんは、教室に入り、自分の席に座った。そして、宿題を取り出す前に、机の中から真っ黒なカビパンの袋を取り出し、隣の永田さん(12才・女)の机の上に置いた。長岡くんが、夏休み前最後の給食に出たコッペパンをとっておいたものである。長岡くんは、パンに黒々としたカビのコーティングを施すプロであった。クラスに数名いるカビストの中でも群を抜いてカビの量が多く、他のクラスのカビストからも尊敬を集める存在であった。しかし長岡くんは、そのような畏敬の眼差しは意に介することがなかった。長岡くんは、ただひたすらにストイックであった。

 長岡くんが永田さんの席にカビパンを置いたのには訳があった。

 夏休み前のある日のこと。理科の授業中、大ベテランの福永先生(88才・男)がちんたら板書している隙を見て、隣の席の永田さんがこっそり話しかけてきた。永田さんは噂好きである。「私の家の隣の永井さん(30才・男)っていう人、毎日不気味なんだよ。トイレに行っていちいち手洗うんだってさ。私のおじいちゃんが言ってた。手なんか洗っても洗わなくっても関係ないのにね」と。

 長岡くんはこれを聞き、あることを思いついた。そして永田さんに、その永井という男にカビパンを触らせてはどうか、かつて、カビは汚いものとされていたらしい、食べればお腹が痛くなり、とても苦しかったようだ、永井なる男は手を洗うぐらいであるから当然知識があるだろう、きっと面白いことになるのではないかと申し向けた。

 永田さんは快く賛成した。隣人がカビパンを触り、家の中で発狂する様を、悲痛な叫び声を上げながら手を洗う様を想像し、永田さんはとてもワクワクしてきた。そして永田さんは思ったのであった。あの人の悶え苦しむ姿、それが長い長い人生において私の生きる糧となる、と。


 長岡くんは、永田さんの机にカビパンを置くと夏休みの算数の宿題に取りかかった。プリントに書かれた問題を恐る恐る見た。


「病院に100人が入院していました。20人が退院しました。さて病院には何人いるでしょうか」


 長岡くんは必死に考えた。難しい。病院に何人いるか。入院患者と医者、病院スタッフを足さねばならない。100人も入院するのは精神病院くらいである。そうすると、この病院はY市立精神病院に違いない。

 100人入院していて20人退院したから、現在80人が入院している。さらにあの病院には医者が20人いたはず。病院スタッフは…あぁそんなことは分からない!なぜ福永の爺さんはこんな問題を出したんだ!福永の爺さんの自己満足じゃないか!教師の自己満足に付き合うほど小学生は暇ではない。人類が不死であろうとも、小学生の間の時間は貴重なはずじゃないのか!福永の爺さんの趣味のために割くなどナンセンスだ!そして、長岡くんは家から持ってきたカビパンを勢いよくかじった。もう完全にお手上げであった。


 そんなとき、永田さんが教室へやってきた。夏休みで日に焼け、大分背が伸びたようだ。「おはよう長岡くん、久しぶりだね。あっ、カビパン!ありがとう覚えてくれてたんだ!それじゃあお礼に、はいこれ」永田さんは、笑顔で解き終わった算数の宿題を長岡くんに差し出した。永田さんの笑顔は素敵だった。長岡くんは、永田さんの笑顔に、自らの傑作の数々を見た。そして、はっと気がついた。「僕が本当に作りたいのは、こんなカビパンなんだ」と。

 一方の永田さんは、長岡くんがいつも宿題をやらないことを知っていたのであった。そんな永田さんは見事なカビパンを見て、ふと長岡くんにいつも恩義を感じていたことを思い起こしたのであった。完璧に作り上げられた漆黒のカビパンを、芸術作品の域に達したカビパンを、長岡くんは永田さんに無償提供してきたからである。長岡くんは、素人が見ても一目で逸品と分かる漆黒のパンを、全く見返りを求めることなく、事ある毎に厚意で永田さんにあげ続けてきたのだった。

 長岡くんは永田さんから宿題の答えを受け取った。宿題のプリントはずっしりと重かった。それはちょうど、永田さんの感謝の重みでもあった。宿題の答えを受け取った長岡くんは、その思いを打ち明けることにした。そして、まだ長岡くんに笑顔を差し向けている永田さんに笑顔でこう言った。「永田さんの笑顔って、黒いカビのようだね。僕また素晴らしいカビパンを作るよ。きっと、永田さんの黒々した笑顔に負けないくらいのカビパンを作ってみせるよ、きっと」。

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