Ⅵ
長い階段を上って、指先に草の感触があり、ようやくイルシオンは息を吐いた。断崖の上端に座ると、霧の海が遥か眼下に広がっている。
吸い込まれそうなほど、白く、静かで――――底なしに見えるような霧だ。
「……さあ、帰るか」
ざあっ、と谷底から風が吹き上がってきた。髪が揺れ、イルシオンは眼鏡を押さえる。
あの霧の奥に、蒼い都市がある。歴史から消され、王すらもいなくなった廃墟で、戻らない王子を待っているのは、そうあるように義務付けられた機械人形達だ。
「……優しく……愚かな王子だな」
イルシオンは立ち上がった。
二度と都市に戻らないのならば、待てというのは残酷な命令だ。だが、二度と戻らないと突き付けるのもまた、あの人形達にその存在意義を失わせる行為だったのだろう。
イルシオンは谷へ背を向けて歩き出す。日は西に傾き始めていた。
夜風が窓の隙間から吹き込む。ドアを叩く音に、シュリヒトは顔を上げた。
「……あ」
ドアを開くと、イルシオンが立っていた。
「やあ。夜分にすまないね」
「いえ。お帰りなさい。丁度お茶が入ったんですよ」
イルシオンが椅子に座り、シュリヒトは茶葉を足して湯を注ぐ。
「それで、めぼしい成果はありましたか?」
「ああ。蒼い都市……アルタールという名前の都市に行き着いたよ。そこで暮らしていたもの達にも、大層歓迎された」
「そう……ですか」
カップを両手で包み、シュリヒトは笑顔を浮かべる。
「……やはり」
「?」
「君が、あの都市から去った『王子』だね」
イルシオンは穏やかな口調で、そう言った。
「………………」
シュリヒトは息を吐き、カップから手を離す。
「そこまで、ご存知ですか。……ではきっと、アリアからすべて聞いたのですね」
大きな目を閉じ――――シュリヒトはすっと笑みを引っ込めた。
「それで?」
シュリヒトの気配が変わり、イルシオンは開いた口を閉じる。
柔らかな視線は鋭くなり、険しさに縁取られる。テーブルに置いた手は固く拳を握っている。
「僕が王子だと知って、どうする」
剣呑な口調で言い、シュリヒトはイルシオンを睨み据えた。
「あの都市のことを学会で発表するんだろう。そこから抜け出た王子が、庭師の名を借りて、都市の傍らに守り人の如く居座っている。その事も、合わせて発表するか?」
シュリヒトの問いに、イルシオンは唾を飲み込んだ。
眼前に座っていた少年が、突然、数百年の時を経た王子の顔になる。純朴そうな笑顔も、柔らかな物腰もどこへやら、まるで別人のような強い敵意に縁取られた。
「……やはり怒るか」
イルシオンはふっと微笑み、息を吐いて強張った肩を降ろす。
「君がここにいる理由は、あの都市を捨てきれないからかな」
「……悪いか。僕が最後の生き残りなんだ。……せめて、これまでも、これからも、この贖罪に邪魔は入れないで欲しい」
「贖罪……」
イルシオンは眼鏡を押さえ、鞄から手帳を取り出す。
「贖罪か、成程。それが君をこの地に留まらせるものか」
「……?」
「いや。不思議だったんだ。君が王子だろうと見当がついたあたりからね。……あの都市から出て行った理由は想像できる。だが、帰らない理由は思いつかなくてね」
「…………、」
ぐっ、とシュリヒトは指をテーブルに強く突き立てた。細い指先に押され、テーブルが軋む。
「私を殺して口を塞ぐかい」
「……伝承の研究者が行方不明なんてよくあることだからな」
「そうかい」
イルシオンはあくまで落ち着き払って、手帳をシュリヒトの方へと放った。
「……?」
「発表は取りやめるよ」
シュリヒトは探るように、手帳とイルシオンを見比べる。
「そんな怖い顔をしなくても。私はご立派な人間ではないけれど、不誠実ではないつもりだよ」
「あの都市は、旧文明のテクノロジーの宝庫だったはずだ。それに興味があると言っただろう。……取りやめるなんて、鵜呑みには出来ない」
「そりゃあ、興味は尽きない。……でも、学会で発表するということは、君達を晒しものにするということだ。実に学者らしくない理由だが、私の気持ちが許せなくなった」
眼鏡の奥で目を細めて言い、イルシオンは手帳をもう一度シュリヒトへと押し出した。
「そもそも私が調べているのは、伝承とその根源であって、歴史そのものじゃあない。この都市の事実は私の手に余る……今の文明を引っ繰り返すようなものだから」
シュリヒトは浮かせていた腰を降ろし、手帳を掴んだ。
「……本当に?」
口調が柔らかくなり、イルシオンは小さく笑う。
「少なくとも、君は私に機会を与えてくれた。本当ならあの都市に近付かせたくもなかったのかも知れないけれどね」
「……、」
シュリヒトは手帳を膝の上に乗せ、目を伏せた。
「礼を言おう」
「私は君の決意に敬意を表するだけだよ」
イルシオンは頬を掻いて微苦笑を漏らした。シュリヒトはやや俯いたまま、膝の上で手帳を握る。
「……あの都市は素晴らしかったよ。ただ、ほんの少し。ほんの少しだけ……間違っていた。それがいつしか大きなずれになってしまったんだね」
「…………分かったように言わないでくれ」
イルシオンは頬杖を付いた。
「君はあの都市を聖域と言っていたね」
「……そうでも言わないと、それっぽくないだろう」
「新しい太陽と、沈みゆく月を拝し、身を清め、白い石を道しるべに谷に向かう……これは儀式かな」
「……建前だ。あの都市が作りものだと見抜けなかった学者なら、勝手にあの都市を素晴らしい場所に仕立て上げてくれる」
「まさに理想郷に、かな」
イルシオンは紅茶を一口飲み、湯気で曇った眼鏡を外す。
「私がもし、あの都市は素晴らしかった、まさにロストテクノロジーの宝庫だ、と意気揚々としてきたら、おめでたい学者だと嗤っていたのかい」
「ああ。あの都市の寂寥に気付けないなんて馬鹿だ。……そんな学者なら、お役に立てたようでよかったです、と笑って送り出していた。どうせ都じゃ相手にもされないだろう」
シュリヒトは肩を竦める。
「……でも、あの都市の『真実』を持ちだすなら、殺すつもりだった」
ぽつりと呟かれた言葉に、イルシオンは深い息を吐く。
人のいない、機械人形達が主を待つ都市。その傍らで、それを見守り続けることを自らの贖罪とする主。
「君達は救われないな」
「……僕は……いや、僕達は。少々人を殺し過ぎた」
それは恐らく、地上とアルタールが決別した戦争を言っているのだろう。
「自己満足だと笑われようが、これは僕達の贖罪だ。そして、僕は唯一の生き残りで、王子なのだから」
いくらか落ち着いたように、シュリヒトは静かな口調でそう言った。
「――――今更戻ってあの都市を生き返らせることはできない。だからといって、あの都市を忘れて生きることもできなかった。この体は、いつかの未来、あの都市が終わる日を待っているんだ」
自分に言い聞かせるように、シュリヒトは首輪を掴んで呻くように言う。
「いつかあの都市がただの過去の遺物になった時、一緒に死ねるように」
幼い顔に自嘲気味の笑みを浮かべ、王子は嗤う。
「それが、逃げてしまった僕の贖罪だ」
その声は震えていた。だが、瞳はガラス玉のように澄んだままで、頬を伝う涙もない。
イルシオンは黙って、ポットから二杯目の紅茶を注いだ。
東の空が白み、日が昇ってくる。塔の上から、シュリヒトはそれにこうべを垂れた。
雨の日も雪の日も、よほどの嵐で陽が一切見えない日でもない限り、続けてきた行為だ。毎日、何回も、何十回も、何百回も、何千回も――――いつから始めたかなど、もう覚えてはいない。
昇る日は再生の証だ。沈む青白い月には、あの都市を重ねている。
再びこの目で見ることは無いと思っていたあの都市を、どこかで渇望している自分が嫌になる。いつかあの人形達が皆眠り、都市の霧が晴れたら、全てを自分が終わらせに行く。都市そのものを、永久に谷底に埋めてしまおう。そう誓った決意とは裏腹に、泣き叫びたい自分がいる。
「……あの先生のせいだ」
そんな気持ちは、もう何百年も忘れていたはずなのに。
塔を降りると、眠そうに目を擦るイルシオンがいた。
「……やあ、おはよう」
「……おはようございます」
不愛想に返すと、イルシオンは眼鏡をかけて笑う。
「……何だ」
「ふふっ。いや。やっぱり、君は猫を被っていない方がいいと思ったんだよ」
イルシオンは大きな欠伸を一つして、もそもそと服を着替え始める。
「……あの、」
「今朝の汽車で、帰るよ。世話になったね」
「……あ……いや、別に……まあ、何だ、息災で」
言おうとした言葉を失って、シュリヒトは視線を彷徨わせる。
「ああ、ありがとう。そうそう、あの手帳は好きに処分してくれて構わないよ。全てアルタールに関すること……何か、用があったかな?」
「……いや」
気の迷いだ、とシュリヒトは首を横に振った。
この地上で、自分の正体を知っているのは彼だけだ。あの都市の真実を知っているのも、自分の決意と心内を知っているのも。
だが、だからといって今更、寂しいなど、子供じみたことが言えるものか。
「――――そうだ」
荷物を整えながら、思い出したようにイルシオンはシュリヒトを振り返る。
「これから、時折来ても構わないかな」
「えっ?」
「いやね。あの霧の谷に関する伝承の研究は打ち切りにするけれど、研究自体は続けるから。君だったら、面白い伝承や噂を知っているんじゃないかと思ってね」
いいかな。そう言って笑うイルシオンに、シュリヒトはぐっと唇を噛んだ。
「……好きにすればいい。あの都市に関わらないなら僕は関知しない」
腕を組んで、シュリヒトはふいと顔を背ける。
「重ね重ねすまない、ありがとう。お礼にならないかも知れないが、きっと面白い伝承の話を持ってくるよ」
手を振って、イルシオンは足早に駅へと向かって行く。朝一番の汽車が、黒い煙を吐きながら向かって来ていた。
「……分かんない奴」
ぽつりと呟き、シュリヒトは控えめに手を振り返した。
汽車に揺られながら、イルシオンは広がる草原に目を細める。
ほんの数日前の自分が、想像すらできなかったものが、この草原の隙間にひっそりと眠っていた。恐らくこれから先、彼が外で、彼女達が中で守る限り、あの都市の伝承は伝承のままだろう。
霧の向こうに真実を隠したまま、ひっそりと、消えていくのだろう。
「……私は、気休めのような優しさしか持てないけれど」
所詮自分は一学者に過ぎない――――イルシオンは静かに目を閉じた。
伝承を研究することは、時に残酷な真実をあぶり出す。
だが故にこそ、土足で他人を入れてはいけない絶対の領域だけは、分かっているつもりだった。
「さあ――――次は、どんな伝承を調べようか」
窓枠に肘を乗せて、頬杖を付く。汽車は煙を吐きながら、真っ直ぐに草原の中を進んでいった。
(了)