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 簡単な昼食を取り、熱い茶を飲んで、二人は再びアルタールの谷を覗き込んでいた。

 白い石の道標(みちしるべ)の終了地点。そこから下、少し先に突き出した白い石が見えた。そこから斜め下へ、同じような石の板が続いている。

「これが階段かい?」

「ええ。……お気をつけて。風がありますから」

「君は?」

「僕は家に戻っています。……三日後に戻られなければ、また伺いますから」

 シュリヒトは、荷物の中から一つの箱を差し出す。

「携帯食料です。二日分しかありませんが、どうぞ」

「……何から何まですまないね」

「いいえ」

 シュリヒトは胸元に手を当てて微笑む。

「シャンバラに興味を持ってくださって、僕にお手紙をくださった方は初めてです。……喜ばしく思います」

 イルシオンは笑い、食料を鞄に入れた。そして改めて、その道を見下ろした。

 風が、崖の壁面を這いあがるように吹いてくる。遥か下は霧に満たされており、白い道はその中へと消えている。

 イルシオンはごくりと唾を飲み込み、崖からその足を踏み出した。爪先が探るように一段目を撫でる。石の板は人一人がやっと乗れる幅だ。足の裏をゆっくりと降ろしていくと、踵が宙に浮いた。ぎゅっと一度目を瞑り、滑り落ちそうな眼鏡を指で押さえる。

 二歩、三歩と降りる。やがて片側が壁となり、指先が岩肌に触れた。

 白い石は等間隔に、真っ直ぐに続いている。革靴の底が降りると、石はかつんと涼やかな音を立てた。石が僅かに軋むような音がするたびに、イルシオンは息を飲んで足を止める。

 風が、時折うなりをあげて吹き上がった。イルシオンは壁に張り付き、目を瞑ってそれをやり過ごす。岩肌から砂がぱらぱらと落ちては、霧の海へ吸い込まれていった。

 あの霧の中に、本当に、見知らぬ都市があるのか――――消えた砂や小石を目で追って、ぶるっ、とイルシオンは身を震わせた。鞄を改めて掴み、また一歩を踏み出す。

 やがて、あれ程遠かった霧の海が眼前に広がる。入り口を仰げば、抜けるような空は遥かに遠く、狭くなっていた。次の一段を足先で探ると、霧がすわっと揺れた。

 まるで、ここから先には行かせないと言うかのように、霧はその先をすっかり白に染めていた。次の一段すら霞み、イルシオンはまた唾を飲む。

「……まだか」

 もうどれほど降りただろうか。一歩ごとに空は霞み、全身はしっとりと霧に包まれている。

「!」

 次の段の感触が変わり、イルシオンは爪先で何度かそれを叩く。思い切って降りると、足の裏全体がしっかりと支えられた。

 次の段を探した足は、同じ高さで止められる。底だ、とイルシオンは大きく息を吐いた。

「……ここが」

 周囲は完全に霧で視界を遮られている。地面も、手を当てている岩肌も見えるが、それ以外は全てが真っ白に塗りつぶされていた。

「……ここがアルタールの底か……シャンバラは、」

 イルシオンは鞄から手帳を取り出す。

「……谷の底は東西に伸びていて……東に……」

 どちらだ、とイルシオンは空を仰ぐ。しかし、太陽が見えるはずの空は霧に遮られていた。イルシオンは溜息を吐き、一先ず、と階段と同じ方向へ向かう。

 手帳に階段と霧について書き付け、イルシオンは眼鏡を外した。こう視界が悪くては、見えても見えなくても同じである。

 じゃりっ、じゃりっ、と、一定の間隔で足音が響く。胸の高鳴りを抑えきれず、イルシオンは震える息を吐いた。

 やがて――――霧の向こうに、大きな影が現れる。

「!」

 イルシオンは駆け出した。影はみるみるはっきりとした形を取る。見上げる程に大きなそれは、黒から蒼へと色を変えた。

 そして不意に、霧が途切れる。まるで霧だけがそこで遮られ、取り残されたかのようだった。イルシオンはずぼっと霧から抜け出て、突然開けた視界に困惑する。

 濡れた眼鏡を拭いて顔を上げると―――そこには、巨大な蒼い壁があった。

 高さは、十メートルは優にあるだろうか。正面には巨大なアーチ形の門があり、壁の上は平たい。丁度、都を囲む城壁のようだった。真っ青に塗りつぶされたかのような壁は、よく見れば、煉瓦を積み上げたような筋が入っている。

「……あった」

 呆然として呟き、イルシオンはふらふらとその壁に近付いた。そこではっとして、鞄からメモを取り出す。

「伝承の通りだ。霧に満ちた谷、その中にある都市……蒼い城壁……」

 イルシオンは眼鏡の奥で目を細める。城壁の向こうに、僅かに塔のような鋭い屋根が見えた。それもやはり、冴えたような蒼である。

「きっとあれが城だ。ならば、あの門から入れるはず……」

 イルシオンはメモを握り締め、鞄を掴んで門へと歩き出す。

「……?」

 近付いて行くと、門の前に、ぽつりと小さな人影があるのが見えた。イルシオンは足を早め、その人影に近付く。

 それは、淡い水色のワンピース姿の少女だった。

「……ようこそいらっしゃいました」

 少女が、大きな蒼い双眸を閉じて深々と礼をする。長い金髪がさらりと流れ落ち、白い項が露わになった。

「……君は?」

「私は、この都市の案内人でございます。アリアとお呼びください」

「……案内人……」

 イルシオンは困惑を顔に浮かべた。噂でも伝承でも、またどんな資料でも、そのような話は聞いたことがない。

「この都市に行き着いたお人は、初めてでございます。たっぷりとおもてなしさせてください。国王様もお喜びになります」

「初めて? いや、しかし……」

 描写こそまちまちだが、都市を見た、というのは、谷に降りたものに共通している証言だ。あの階段から降りたのならば、この都市に辿り着くのも容易いだろう。

 そんなイルシオンの困惑を知ってか、アリアは「ああ」と微笑んだ。

「この都市は、この霧に守られているのですよ。この霧は人の感覚を狂わせます。視界を遮り、音を消して、幻を見せるのです。……ここに降りられる前に、薬を飲まれたのでは?」

「薬……」

 イルシオンは、シュリヒトが昼食に出した茶を思い出す。薄茶色の、喉を滑り落ちる時に苦い匂いのする茶だった。

「ああ、そうかも知れない」

「でしたら、きっとこの都市に来る権利が与えられた方なのですね。どうぞ、私がご案内いたします。この都市のことでしたら、何でもご質問ください。私で答えられる範囲でしたら、お答えいたします」

「……そうですか。ではお願いしましょうか」

 イルシオンが頬を掻いてぺこりと頭を下げると、アリアは慌てたように両手を振った。

「そのような。あなた様はお客人です。この都市では、お客人は国王様の次に優先すべきとされているのでございます。私や都市のもののことはお気になさらず、どうぞお好きにお過ごしください」

「いえ、流石にそれは……こちらも、伝承を調べに来た立場ですから」

「……伝承、ですか。外の世界ではきっと、この都市のことは忘れられているのでしょうね」

 アリアの表情が陰る。しかしイルシオンが眉宇をひそめると、アリアはぱっと表情を明るくして顔を上げた。

「それより、おもてなしをしなければいけませんね。どうぞ、こちらへ。まずは国王様にお目通りを。それから、都市をご自由にご覧になってください」

 アリアが門を示し、ごうん、と門が唸る。イルシオンがアリアに従って歩くと、それに合わせるように、巨大な門が開いた。くぐりながら辺りを見回すが、動かしているらしい人影は見えない。

 ゆっくりと門が閉じて―――目に入った風景に、イルシオンは目を丸くする。

「……何と」

 思わず声が漏れた。

 建物や道は、存外に都と変わらなかった。門の周囲は円形の広場となっており、そこから太い道が三方に伸びている。真っ直ぐに伸びた道は、門の外からもその先端が見えた、巨大な城へと通じていた。

 石畳の道。煉瓦の上に土壁を乗せ、スレートで屋根を葺いた家々。太古の黄金都市と言うには、その都市の形は見慣れていた。

 だが、その全てが、蒼い。夏の蒼空の中に放り込まれたかのように、目に入るもの全てが蒼かった。別の色と言えば自分と、アリアくらいか。

「……ふふっ」

 立ち尽くしていたイルシオンを見上げ、アリアが小さく笑った。

「美しいでしょう。これが、この都市の最大の特徴なのです」

「ああ、確かに……同じ色調に統一されているのは美しいですが……」

「蒼は、清浄の色なのです。清く、美しく。それがこの都市です。始めは目が慣れないかも知れませんが、じきに痛くなくなるでしょう。ここの蒼は優しい色ですから」

 こつこつと、前を歩くアリアの靴音が響く。しんと静まり返った都市は人気(ひとけ)がなかった。道の端や家の横には水路が張り巡らされ、透明な水がさらさらと流れている。蒼い石畳は傷一つなく、ゴミの一つも落ちていない。

「ここの都市の名前は、シャンバラ、でいいのですか?」

「……いいえ。それは外の世界の言い方です。ここはアルタール。蒼の都市、アルタールですよ」

「……成程、それが谷の名前に残ったんですね……」

 歩きながら、イルシオンはメモを取った。

「……あなた以外に、人は?」

「ふふっ。外からのお客人に驚いて、皆隠れてしまっているのです」

 中央の広い通りを、城に向かってずっと進むと広場に出た。中心には噴水があり、やはり透明な水が流れている。アリアが、その噴水の傍らで足を止めた。

「……噴水ですか。都にもありました。この広場が、この都市の中心部なのですね」

「ええ」

「あの噴水は、水車と歯車で水を回しているのですか?」

「いいえ。……ああ、ご説明しなければいけませんね。この都市は、全て電素というエネルギーで活動しているのです」

「……電素?」

「ええ。蒸気でも、バネ仕掛けでもありません」

「……へえ。聞いたことがないエネルギーです」

 イルシオンは手帳にそれを書き付ける。アリアは再び歩きはじめると、真っ直ぐに、城への道を進んでいった。

 広場から、柵に囲われた城の敷地へと入る。やはり青みがかった金属の甲冑が、入り口の左右に立っていた。柵から城の入り口までの道の左右には池があり、池の向こうに、浮島のように東屋(ガゼボ)があった。

 広い階段を上ると、また甲冑に左右を挟まれた扉が現れる。アリアがそれを開き、イルシオンはごくりと唾を飲み込んだ。

「どうぞ。国王様がお待ちです」

 イルシオンは頷き、薄暗い、しかしやはり冴えるような蒼の城の中に足を踏み入れた。

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