Ⅰ
甲高い汽笛が聞こえ、窓の外がまた真っ黒に染まる。一定の揺れに身を任せ、男はうとうとと舟をこいでいた。
汽車は真っ直ぐに、草原の中の線路を進んでゆく。左右にはどこまでも草原が広がり、ゆるやかな丘と、そこを歩く牛や羊が見えた。丘の上には塔と一軒の家があり、線路の先には、いくつもの丘の向こうに城壁が見える。
顔を上げ、男は窓の外を見て立ち上がる。間も無く汽車は緩やかに止まった。
周りに何も無い、石を並べただけの駅だ。男は切符を車掌に渡した。
「……お兄さん、もしかして都の人?」
「ああ、そうだよ」
「どうしてわざわざ、こんな田舎に。左遷でもされたんなら、もう一駅先だよ」
「いいや。調査でね。こう見えても学者なんだ」
男は丸眼鏡を押し上げた。
何も無い駅に男が降りると、ゆっくりと汽車は煙を吐いて動き出す。着ているのはくたびれたシャツにトレンチコート、持っているのは茶色い鞄だ。四角いその鞄を持って、男は道なき草原へと一歩を踏み出した。
丘の上の家に向かい、男は手を振った。羊を追っていた少年がそれに気付き、手を振り返す。男が家に近付くと、少年も駆け寄って来た。
「お手紙の先生ですね。僕が、霧谷守のシュリヒトです」
「ああ。都で伝承の研究をしている、イルシオン・グアルディアだ。イルと呼んでくれ」
シュリヒトは、赤毛に猫のような茶色い目の少年だった。小さい体は痩せていたが、服は輝かんばかりに真っ白で、首には銀色の輪をかけている。
「イル先生ですね。嬉しいです。この谷に人が訪れるのは二百三十年ぶりなんですよ」
シュリヒトは胸元に手を当てて慇懃な礼をする。
「それで、例の谷は?」
「ここから半日歩いたところです。ですが、長旅でお疲れでしょう。今日はお休みください。それと、あの谷は聖域ですから、明日の朝は日の出とともに起きて、身を清めていただきます。よろしいですね」
「ああ」
それでは、とシュリヒトは踵を返して家へと向かった。イルシオンはゆっくりと視線をあたりに巡らせてからそれに続く。
家の一階は小さなキッチンとテーブルのみだった。壁際に埋め込まれた石の板が階段となり、二階へと続いている。
「君一人か」
「ええ。それがガーデナーの役割であり、宿命ですから」
シュリヒトは薬缶を火にかけると、ポットに茶葉を入れる。すぐに湯が沸き、イルシオンの前に紅茶が出された。
「どうぞ。疲れが取れますよ」
「ああ、頂こう」
イルシオンはゆっくりと紅茶を口に運ぶ。
「イル先生は、どうして伝承の研究を?」
「ただの興味だよ。……不思議な伝承は多いけれど、この谷ほど不可思議なのに現実味を帯びている内容のものも少ない。霧に包まれた谷の奥底に、太古の黄金都市が眠っているなんて。しかし、それを守り続ける『ガーデナー』は、こうして存在している」
シュリヒトは笑みをこぼして頬を掻いた。
「先生は、何処まで伝承をご存知ですか?」
「ん? そりゃあ……学者だからね。世に流布している以上は知っているさ。しかし、何分この谷に関する資料そのものが非常に少なくてね。夢がある伝承だというのに、誰も本気にしないから、どんどん資料が消えていく。残念でならないよ」
「都市の名前は?」
「―――シャンバラ。谷の名前がアルタールだということも知っているよ」
「流石です」
シュリヒトが笑顔で言い、イルシオンは肩を竦める。
「しかし同時に謎が多いのがこの伝承の特徴だ。黄金都市を見たという人間もいるけれど、誰も本当に見たとは思えない証言ばかり。谷の底に常に霧が立ち込めているのは何か、今の技術では解明できないものがそこにあるのかも知れない。そして、恐らくそれを守り続けているであろうガーデナー、君達すらも、その全貌を知らない」
「……ええ。僕は只、シャンバラを見守り、いつかあの霧が晴れる日を待つよう義務付けられているものですから」
シュリヒトは銀の首輪に触れて目を伏せた。
水とパンのみの朝食を済ませ、イルシオンは、昨晩シュリヒトが全て煮沸した服に着替えた。シュリヒトは相変わらず真っ白な服に、銀の首輪を付けている。
塔の上で、地平線から現れたばかりの朝日を浴びる。シュリヒトは床に膝を付いてこうべを垂れた。イルシオンもその傍らで、同じように太陽にこうべを垂れる。
それから、井戸からくみ上げたばかりの冷水で口を漱ぎ、西の空に沈もうとする白い月へもこうべを垂れた。
「アルタールの谷までは、道は穏やかですがとても長いです。文句など言われても、僕はどうにもできませんからね」
シュリヒトに言われ、「はいはい」とイルシオンは苦笑した。
草原の中、一定の間隔で白い小石が落ちていた。シュリヒトは荷物を抱え、それをずっと辿ってゆく。穏やかな丘陵の先に、小さな村が見え始めた。
「あれは?」
「あのあたりは、牛や羊を育てている村です。このあたりは谷が多いので、昔は鉱山として栄えていたんですけど。今では鉄も銀も、すっかり採り尽してしまって。その鉱山の人達が、ああして仕事を変えて村を作ったんですよ」
「君は、あの村に行くことは?」
「滅多にありません。ガーデナーの家には、鳥も牛も、羊もいますし、畑もありますから。勿論世話は大変ですけど、ガーデナーは、常に身を清く保たなければいけません。余計な交流は避けるべきだという教えがあるのです」
先を立って歩いていたシュリヒトが、ふと思い出したように振り返った。
「イル先生は、もしシャンバラを見付けたら、どうしますか?」
「……それは、シャンバラという都市そのものを見付けたら、かい? それとも、シャンバラに眠るという黄金を見付けたら?」
「後者です」
「……どうもしないね。私は金銀財宝には興味がない。もしシャンバラに、旧文明のテクノロジーが残っていたら、そちらの方が、興味がある」
シュリヒトは曖昧に頷き、また前を向く。
「ロストテクノロジーは、都ではどの程度解明されているのですか?」
「遅々として進んでいないよ。如何せん、資料が少ないんだ。地表に露出している遺跡は、ほとんど探索し尽してしまったからね。そして、その価値も分からない凡人達が、理解していない機構を面白がって売りさばく」
イルシオンは眼鏡の奥で、不機嫌そうに目を細めた。
「それが、どれ程貴重なモノかも知らずに……全く、酷いものだ」
「……そうですか」
シュリヒトは呟くように返し、それからしばらく黙った。石はまだ、ずっと先まで続いている。
やがて、大きくなだらかな丘を一つ越えると、地面を切り裂くような谷が見え始めた。縦横に走るその裂け目によって地面は分断され、所々にかかる吊り橋以外、遥か遠い向こう岸に渡るすべはない。
「面白い地形だな」
「谷を覗くと、面白いものが見られますよ。……少し、見てみますか?」
イルシオンが頷くと、では、とシュリヒトは荷物をその場に置いて、谷へと近付いた。
地面の縁は滑らかで、ともすれば谷まで滑り落ちてしまいそうだった。慎重に歩を進め、イルシオンは首を伸ばして谷を覗き込む。
「―――――おお……」
思わず声が漏れた。
岩肌が露出した谷―――その中ほどから、壁に張り付くように、家が作られていた。その数は下に行くほどに増し―――谷底には、同じ形の屋根がずらりと並んでいた。高い煙突もあちこちに見える。規則正しく屋根が並んでいる場所から視線を少しずらせば、大小さまざまな家が雑多に詰め込まれ、壁には穴が空いていた。家々の上を通る線路も敷いてある。
「……あれは、鉱山の町かな」
「ええ。ああして、町を作っては掘り尽して移動し、を繰り返すんです。お蔭でこの辺りはずうっと広がっていた森が無くなってしまいました」
「……ここは森だったのか……」
顔を地上へ向け、イルシオンは驚いたように呟く。見渡す限り、谷によって区切られた草原が広がっている。歩いてきた方向へ視線を向ければ、遥か遠くにぽつりとガーデナーの家が見えた。そのずうっと先、霞に消えそうな、遥かな丘の向こうには、街を囲む壁がある。
「……ここは昔、あの街と同じか……いや、それ以上に栄えていたのだろうね」
谷からざあっと風が吹きあがり、イルシオンはシュリヒトを振り返った。シュリヒトは小さく頷き、荷物を置いた道へと戻る。
「いや、興味深いものを見せて貰った。礼を言うよ。都に帰ったら、歴史学者の友人に話すことにしよう」
ずり落ちた眼鏡を押し上げて、イルシオンは笑みをこぼした。
白い石の道は、一つの巨大な谷の手前に行き着いた。
「……凄い」
今までの谷は、広くても大地の裂け目といった具合だった。だがこの谷は桁が違う。向こう側に渡る橋は、かけようとする気すら起きない距離だ。
そして、その谷の間全てが、真っ白な霧で覆われていた。
「気候的にも、そう霧が溜まるはずはないんだが……やはり伝承の通りか。素晴らしい。魔女の村の伝承を調べた時も、不死者の伝承を調べた時も、今ほど興奮はしなかったよ」
「………………」
シュリヒトはイルシオンを見上げる。
「それで、どうやって降りればいいんだい? 調べた限り、谷に降りた人間は沢山いる。だが誰も、都市を明確に認識してはいない。私はその先に行きたいんだ」
「……この谷に、僕の許可なしに入ろうという方が無茶ですから。イル先生は、朝にお清めをしています。昼食を食べたら、入り口に案内いたしますよ」
シュリヒトは荷物を置くと、そこから大きな敷布を取り出して地面に広げた。
「ああ、ありがたい。君も来てくれるのかい?」
「いいえ。僕は谷に入れないんです」
シュリヒトはそして、僅かに俯いて、首元の輪に触れた。