デッドゾーン(1983)――致し方なくスナイパー、そして発電する人びと
ずっとここで紹介したいと思っていた映画のひとつ。
ご存知の方も多いかと思うが、封切り当時の上映は限定的だったらしく、私もずいぶん後になってから、自由が丘の映画館で観た。
少し本筋から外れるが、この「自由が丘武蔵野館」というのは東京近辺に暮らしていた当時、同じくキングの小説好きな友人からたまたま「デッドゾーンがかかるよ!」と教えてもらい、初めて訪れた場所だった。
夜の上映にいそいそ出かけて行ったら、映画館は確かビルの二階部分だった。
一階はフィットネスクラブになっていて、こうこうと明かりがついている中、何人かが窓に向って黙々と自転車みたいなマシン(エアロバイク、つうらしい)を漕いでいたのがとても印象的だったね。
とまあ、そんなことはどうでもよいようなよくないような環境で、とても楽しみにしていた映画をじっくりと観賞。
お話は、若い高校教師が交通事故で数年意識不明となり、目ざめた時には恐るべき能力を身につけていた、というもの。
目の前の相手に触れると、その人の未来に関するビジョンがフラッシュする、という「予知」能力で、彼は次々と周りの人たちの未来を暴く。
しかも、どうしても受け入れがたい「未来」については、彼が何らかの働きかけをすることで変えることができるということも判明。
しかし、未来が見えることは、必ずしも幸せだとは限らない。未来を変えることができても、彼は周囲から奇異の目で見られ、恐れられ、苦悩はますます深まる。
そしてついに、自らの運命をも変える相手と出会う……
キングの原作では、高校教師ジョニーはごく普通の若者というイメージだったが、クローネンバーグ監督が選んだクリストファー・ウォーケンはいかにもスナイパー然とした雰囲気だった。キングはビル・マーレイを望んだらしいが、うん、確かにやや俗っぽくなるが何だか怪しさは同じくらいな気もする。
しかし、未来が見えながら苦悩を深めていき、ついに「敵」と宿命の対決を果たす、という悲壮感を表現するには私にとってはとても分かりやすい配役だったかな。
映画では、ジョニーの役割がはっきりと「定められ」彼はそれを「受け入れ」ている、そこに観客はこぶしを握りながら応援し、ある意味、カタルシスを得ることができるのだと思う。
敵役のマーチン・シーンが一見明るくて爽やかそうなのも、画的にとても分かり易かった。
笑顔が素敵。それを受け止める側の感覚でどのようにも読めてしまうという、万能スマイルでした。
それにしても近ごろのアメリカ大統領予備選を視ていて、はからずもこの映画を思い出してしまった人は少なくないかも。いや、暴力はいかん。良識で判断し、決定しましょう米国民のみなさん(ま、政治的発言は公の場ではノーコメントということで)。
と、これはいったん置いといて。
寒々しさ漂う冬のニューイングランドの情景が、作品に独自の色を与えていたなあ。公園の雪の色なんかがまた寒々しくて。
ニンゲンたちの欺瞞や猜疑心、恐怖などが硬質な平坦さの中に展開されることで、生々しさが排され、一種独特の崇高さを漂わせていたような気がする。
原作の方はもっと平凡な人の悲劇という描き方だったと思うが、これは原作にも、映画にもそれぞれの良さが十分あってどちらも好きでしたわ。
原作で特に好きだったのは、意識を回復してから、高校生の家庭教師をしているシーンで、早くプールに飛び込んだ方が勝ちだぞ、とか遊んでいたところかな(映画にもこのシーンあったかも)。
このあたりか忘れたが「教師という仕事に生きがいを感じる」という文言があって、「地の塩」という聖書のことばが出てきた気がする(本が貸したきり返ってきていないので細かくは不明だが)。
これは読んだ当初は、教師という他を教え導く、地に足のついた仕事をジョニー自身が激しくリスペクトして、生涯を教職に捧げたいと感じているのだというニュアンスにとらえていた。が、今思い返すと、最後の決断までを指していたのかも知れない。
他にも文章のそこかしこから、彼はごく普通の一市民だなあという思いを深くしたのだが、それが特別な事情からとは言え、どうしてあんな事態に……というのが衝撃的でありました。
映画の方も、巻きこまれた能力者の悲劇をじゅうぶんに堪能する、よい作品だった。
映像化されたキングの作品の中でもマイ・ベストのひとつであります。
……常にエアロバイクを漕いでいる人びとの姿と共に鮮やかに思い出すというのがあまりにも何だか不可解ではありますが。
映画館の発電に寄与していたのだと思うことにしよう、うん。




