ナチュラル・ボーン・キラーズ(1994)――主役は人ではないと分かって急に観て楽しくなった
タイトルに惹かれてレンタルしてきた一作。
上映当時、ポスターで見かけたことはあったが、
「ワルモノが活躍する映画なのかー」とチラ見したのみ。
オレンジの丸眼鏡が強烈に印象に残った程度だったな。ああ、どうしてその時に観ておかなかったのか。
なぜかこの映画には私を惹きつけて止まないものがある。
アメリカ、架空の国道ルート666で殺傷事件を繰り返すカップル、ミッキー(ウディ・ハレルソン)とマロニー(ジュリエット・ルイス)のお話。
前半は無軌道というか、衝動的な殺人旅行がメインで、後半は引き裂かれた二人の、愛の逃避行的な何か。
というと何だかメロドラマなのか、と思われそうだがそこはやはり、殺人鬼ということで後半の血なまぐささも半端ない。
罪もない人が意味なく殺され、奪われ、傷つけられるというのに耐えがたい人にはまるで不向きだろうな。ラストまで観ると更に「なんですと!?」と目が点になること請け合い。
オリバー・ストーン監督作品というのも今回初めて知った。わーもぐりだ。
実は数年前、抽選で当たって(?)ハヤカワ主催の国際フォーラムでオリバー・ストーン氏の「もうひとつのアメリカ史」という講演を聴いていたのですわ。
講演の内容からも、他に観ていた『プラトーン』(1986)や『JFK』(1991)などの作品からも同監督は硬派で社会派というイメージをずっと持っていたが、この作品は、かなり異色な感じが。
まず映画のつくりが凝っていて、他場面のコマや、まるで関係のない細かいシーン(動物や植物、過去らしき映像、悪魔の顔、炎、風景、ニュースや他映画の映像等々)が散りばめられている。背景に合成されていることもあって、物語全体が幻想、しかも悪夢の中をかき分けていくような濃さだったなあ。
音楽もふんだんに、色んなジャンルから取り入れられていた。カルミナ・ブラーナが聴こえてきたのにはびっくりでした。
なぜかアニメが挟まるのがうーん、これは『キル・ビル』(2003)を思い出した。
他にも場面の肌理をそれぞれ変えたり、なぜか唐突に日本人や日本語のシーンとか、カオスな処理加減が……と思ったら、なんとこれも知らなかったが脚本がクエンティン・タランティーノだと!? 映像にそこまで脚本の影響が出るのだろうか? 脚本があまりにも強烈だったのか? とにかくキルビルー! って叫んでしまうくらい、似た匂いを感じたのは私だけではあるまい。
逆にオリバー・ストーンらしさ、ってどこだろう? と何度か思い返してみたのだが、うん、あのカップルが強烈過ぎてよう分からんわ。
まあそれではあまりにも考えることを放棄しているよね。うーん……
この映画はもしかしたら殺人を犯す『人物』を見つめてはいけないのでは、と急に思ってみる。
というのも、彼らカップルは「生まれながらの殺し屋」。特にミッキーについては「人種が違う」と本人が語る通り。後半のインタビューシーン、いちいち彼のカリスマ性に反応しているとかなり感動する場面だが、実際よく考えてみると、彼のことばは人の感情に訴えるだけで、内容は支離滅裂とも言える。そしてジョークを語る場面、ここも看守ひとりひとりの反応を本能的に見てとっていく『獣』としての本能が絶妙に表現されている。
つまりこれは、殺人者としての『人』を表現して彼ら個人の善悪を判断してほしいと訴えているのではない。
なぜならもはやミッキーは人間ではない、という扱いなのだから。
これは、悪魔という『存在』に周りの人間がどう『反応』し『変容』していくかという『事象』を我々につきつけている実験的な物語なのかと。
周囲は誰もかれもが少しずつ、またはかなり壊れつつあり、それが『悪魔』に対峙したとたん、自らに呪いがかかり、破滅に拍車がかかる。
一番の壊れぶりを発揮しているのがウェイン・ゲイル(ロバート・ダウニー・Jr)。つまりマスコミの手先。
他から与えられる情報に常に浸り、操作しているつもりで逆に振り回されている人びとほど、彼らの毒に弱いような気がする。
逆に妙に冷静なインディアン(ミッキーとマロニーが珍しく殺人に否定的だった相手)、彼は二人を『人』ではなく『悪』つまり事象として真の姿を見ていたから、運命論的ではあったが淡々と彼らを迎えていたのではないだろうか。
マスコミは人間の醜さを表に晒し、増幅して、拡散する。発散された毒は更なる毒を産む。負の連鎖だよね。
そうだなー、刑務所の暴動シーンかな。一番ストーンらしさを見たような気がしたところね。
テレビでばらまかれた毒が、囚人たちに静かに感染していく恐ろしい過程。そしてそれが爆発して更なる毒がばらまかれる様子は恐怖を通り越し、すでに喜劇的な破滅にみえる。
戦争なんですね、あそこはたぶん。
そしてそこを克明に追ってしまうマスコミの様子が、この映画で何よりも気味悪い部分なのかも。
戦時には何が正しいかというのは、人間らしさよりも獣らしい生き残りの本能が優先される、という。匂いを嗅ぎ分けられる人間が生き残れる。そしてやはり野生のマスコミが「おいしさ」という匂いを追い続け、毒を拡散する。
やはり、オリバー・ストーンなのかもなあ、とつくづく感じてしまった。
感性で観ても十分面白い、という若い人には本当に危険な作品かと感じた。
もちろん毒は毒として認識できる人にはかなりお勧めではあるかと。
そしてできればうんと枯れてから、ミッキーの丸眼鏡に自身の姿が映ってみえるようになった頃、ぜひ再度、観ていただきたいなあと切に思ったのでした。
俺はナチュラル・ボーン・キラー。
そしてオマエは生まれつきの『何』なんだ?
賛否両論なのもうなずける、確かに問題作かと思いましたわん。
〈余談〉
タランティーノ脚本の「トゥルー・ロマンス」(1993)も見たくなった。そして「トゥルー」が影響を受けているらしい「地獄の逃避行」(1973)も。「地獄」の方が「ナチュラル」に近い気はしたが。
それにしても「トゥルー」の曲は「地獄」の曲に影響を受けたらしいが、どう聴いても、同じ曲にしか聴こえない……
しかもどうでもいいことだが、「地獄」の方はオルフが作った曲らしく!
それでこれでもカルミナ・ブラーナとか使おうと思ったのか。考え過ぎかな……