現金(げんなま)に体を張れ(1956)――一生懸命なら、良い。わけではないのだが
相変わらず、かなり昔の話で恐縮です。
スタンリー・キューブリック監督、ハリウッド進出第一作という鳴り物入りで、地元映画館のリバイバル上映がかかったので観た。
ストーリーについては今ではチェックできるので、ここでは簡単に。
まあ軽く言うと、ムショ上がりの仕組んだ犯罪に、小市民たちが金欲しさに乗ってしまい、さまざまな目に遭ったというお話。
フィルム・ノワールの傑作とも、セミ・ドキュメンタリの手法を駆使した作品とも言われ、確かに、観ている間かなりの緊張感だった覚えがある。
面白いのが、同じ時系列を他の人物目線で何度も繰り返し、一つの事件を多面的に追った点だろうか。今ではそれほど珍しい手法ではないとは思うのだが、当時はかなり斬新だったらしい。
映画を見た時に売っていたパンフが、当時の復刻版だった、というのも面白かった。
何と言っても、監督名が「スタンリー・カブリック」だって!!
何か、こんな手に汗握るセミ・ドキュメンタリ映画に相応しいよね。
キューブリック、というと一気にSFぽく感じてしまうのは、やっぱりその後の活躍を見ていたから、なのかな?
太く短く、というとまず思い出すのがこの映画。
そして次に思い出すのが、亡き父のある日のことば。
中卒という最終学歴、読み書きがおぼつかない割に出てくるアイディアだけは豊富。好き勝手に、楽しく生きている人が年老いたある日
「俺は……どっちかというと、太く短く生きたいなあ」
とつぶやいた。
それから数年後に、太くしかしある程度長く生きた人生にあっさりと幕を引いてしまったのだが。
この作品を観た時にまず一番さいしょに思ったのは、
「中途半端に生きてはいけない」
ということだろうかね。
悪も中途半端だと、ロクでもない結果しか出ない。
まあ、悪に染まるのがよいとは決して言えないのだが。
それでまた思い出したのが、私が近ごろハマっていたTVシリーズね。
『ブレイキング・バッド』というタイトルなんだけど、ぱっとしない化学教師ウォルター・ホワイト(名前もぱっとしない小市民系)は、ある日進行した肺ガンで余命2年を宣告される。
それがきっかけとなって、回りを巻きこんでとんでもない『悪の帝王』へと成長していくというもの。
まさに、とことん太く短く、を絵に描いたようなお話だね。
第一シーズンから順に観ているのだが、最初のうちは全く感情移入できなかった。
というのも、ごくごく平凡なオッサンだったはずのウォルターが、どうしてそこまで『ワル』いことをしてしまうのか、どうしても感情移入できなかった
……のだが、あまりの徹底っぷりに、ある一線をこえたあたりから
「もう応援するしか、ない」
とまで。
とにかく、とことんやってみようとする一生懸命な姿がなぜかとてもツボにハマるのであります。
本当にワルいことばっかりやっているんだけどね。
うちの父はとことんワルに、というわけでもなく、結局小市民のまま生をまっとうした。と、思う。
今のところ、
「未解決強奪事件のことで何かお父さまからお聞きになってませんか?」
という定年間近の刑事とか
「あなたの異母きょうだいですが私に遺されたというペルーの秘宝はどちらに?」
と通訳を介して問いただしてきた国籍不明の人もいないし。
それでも父は一生懸命さでは、ウォルターに負けてはいないかもな。
ひとりでコツコツ、小屋とか建ててしまったりとかね。
どちらかと言えば、ウォルターよりも、『大草原の小さな家』系のおっさんだったかも。
そんな中、この『現金に体を張れ』を思い返してみると、やっぱり最終的には、善であれ悪であれ、思う存分生きた人間というのはやっぱりどこか
「カッコイイ」
のかな、と。
主人公ジョニー・クレイ(スターリング・ヘイドン)は悪にひたむき、という点でやはり主役にふさわしい。
そしてラストのあの札束……当時の倫理観からこういう幕引きなのだろうか、と思うがある意味華やかで「カッコイイ」って感じだったね。
同じ『敗北』を見る立場なのだが、主役と脇役との『役割』が明確だった。
誰がどんな最後になるか、画的にどう持っていくか、というのが監督の並々ならぬ手腕だったのかと思う。
原作はライオネル・ホワイトの「見事な結末」(未読でしかも紙媒体としては未確認)。
キューブリックの多才ぶりを知る、しかもはしりの頃の勢いを知りたい時には、この映画はかなりお勧めかと思いました。
そんなこんなではあるが、どうせ人生一回きり。
できれば誰もが善として、精一杯生きてほしいなあ、とは願うんだけどね。
私も小市民だねぃ。




