そして父になる(2013)――淡々と。考えるより感じる真理
これも、家族が年末年始撮り溜めした中にあった一本。
ホントはね、前回チェックした時に見つけた『アイ・アム・サム』を観てみようと思って、飲み物を用意してテレビの前にスタンバッたら、何と、家族その①の独断によりいつの間にか消去されていたのさ。
しかたなく、残っている『真田丸』と『進撃の巨人』と『相棒』との合い間からこちらを見つけて観ることに。
びっくりするくらい、どんな映画か知らずに、つまりほとんど前評判とか情報とかを調べずに、飛び込みで観ましたよ。うん、旅のだいご味にも似て。
つうか、調べ過ぎていると観る気が失せたり、逆に観た気になっちまう悪い癖があって……
ぶっちゃけ、面倒くさがりなだけですわ。
私でも知っている人たちが続々登場。人物等については詳しい人が多いのでパス。私から言わせると、どの人物も適材適所、という印象。
タイトルからもあるように、この物語で核になるのはやっぱり『父親とはどんなもの?』という所なのだろうな。
血のつながりなのか、愛情なのか、関わりの深さなのか。
そして感じたのは、常日頃から私たちが無意識のうちにも行っている『マウンティング』とか『順位付け』という行為ね。
この話でも、常に比較とか順位付けという要素が登場する。
のっけから出てくる小学校お受験、ピアノの発表会、会社での役職や上下関係について、主人公の野々宮良多さんは常に順位というものを意識して、高い所を目指そうと努力している。
そこに起こるのが、自らの価値観をひっくり返しにきた出来事。
もちろん自分には全く非がない。なのに、次々と起こる事象はまるで
「オマエは本当に正しいのか? オマエが大事に思っていた物には本当に価値があるのか?」
と常に深く問いかけてくる。
取り違え子についての物語の中に、彼でなくとも私たちは常にものごとの優劣についての判断を迫られる。
いわく、住んでいる環境は、仕事内容は、約束の時間は守るか、相手が強い場合または弱い場合の対応の仕方は、乗っている車は、子どもと触れあっているか、煙草は吸うのか、子どもにかける期待はどう表現しているか、金に困っているのか、自身や配偶者の親との関係は、食事のとり方は、子どもがケガした時の対応は……
映画がとてもうまく出来ているなあ、と感じたのが、この優劣の判断についてとても『見えやすい』という点かな。そして、最初は前橋の夫婦に対して、『ナンダカナー』って判断が多く働いてしまうのがいい。この夫婦に子どもを任せられるのか? みたいな。
判断材料が次々と出されるにつれ、あれ? もしかして子どもにとっての幸せって、そこかー? みたいな点も続々と出てきてね。
そんな中、「二人とも引き取る」という意志が最初は野々宮から、その後斎木家から提示される展開の推移がとても分かり易く、いつの間にか物語に入り込んでしまったよ。
まあ最終的にこの作品の良かったのは、どちらの家庭にもよい点はあるし、どちらの家庭にも子どもを大切に思う気持ちが溢れていた、というのがちゃんと示されていたところかな。
野々宮父の不器用さも真摯な点も十分語られていたし。
私たちは、正義について語る時にはつい、物事(起こった事、見えた事)について削って削って、真理についてつきつめて判断する、ということを日常行うことが多い気がしている。
つまり、『どちらがどう正しいのか、優れているのか、それはなぜか』みたいにね。
これはだめ、これはしてはいけない、これは間違っているということを常に言いがちだよね。
そして優先順位をキッチリとつけていくことが、この世を生きていくのに大切だと考えることが多い。
そこをね、斎木父は『まあ……どうでもええやん』と、軽くスカしてくれるんだよねー。
斎木家のスカ具合が必ずしも『正しい』わけではない。彼らにも弱い点、まずい点は多いと思うし。
ただ、正しい/正しくないということについて、もっと緩く、『それもええんやない?』と包みこみ、足していくという判断も大切なのかな、と。
つまり、正義や真理というものは必ずしもきちんとした形なのではなく、足していった事実の末に輪郭があやふやになった中にも存在できるのかな、と感じられたんですよ。
野々宮の判断も、あいまいさが目立ってきたのが印象的だった。例えば、看護師の家を訪ねていった時に、彼女の息子に凄まれて(多分)用意していた言葉を呑み込み、彼を支持するように肩を叩いて帰っていったシーンとか、琉晴に「なんで?」と聞かれ、「ほんと、なんでだろう?」とつぶやいてしまった場面。
削り出して抽出されたピュアな真理も大事だし、足していっておでんの出汁みたいに混じり合った真理もまた、たいせつにしなければ。
としみじみ思い返した作品でした。うん、福山カッコイイ。そこか結局(実はリリーフランキーの方が好きだけどね、おっと順位つけてるw)。