不思議惑星キン・ザ・ザ(1986)――クー? それともクー? 彼らはしたたかに選び、生きる。
高校時代からの友人K宅には、今でもたまに訪ねていくことがある。
ドアチャイムを鳴らし、相手が玄関先に出てくるとまず出る挨拶が
「クー!」
そして両手を両脇斜め下に伸ばし、膝を外向きに曲げながら少し腰を落とす。
かつて一緒に『自宅映画観賞会』で観た不思議惑星キン・ザ・ザの挨拶である。
КИН‐ДЗА‐ДЗА!
知る人ぞ知る、知らない人もけっこう知っている、ソ連時代のSFコメディー。
なぜこんなものをみんなで観ようと思ったのか、当時の記憶がないが、たぶん何かしら話題にはなっていたのだろう。
異世界のあまりにも唐突さ、オマヌケさ、コミカルな中の物悲しさ。
当初、最後まで観た時には笑いながらもナンダカナー、って空気が室内に漂い、互いに顔を見合わせ、思わず
「クー」
とことばを交わしあってしまった。
最初に見た時にまず、オープニングの曲にやられる。かったるく哀愁に満ちて、いつまでも耳に残ってしまった。
そしていきなり始まるモスクワの現実世界の一こま。ここに今後の異世界物語のヒントがいくつかかくされている。マッチで煙草に火をつける(たぶん)いつもの一連の動作、なにげに点けたテレビ番組など……
見た目では判別できないが、相手に向けて押すと、ランプがグリーンかオレンジかで人種を見分けるというかわいらしい差別的機械が登場する。判別されたパツァックという被支配側と支配側のチトラニアンとは常に微妙な力関係でせめぎ合う。その上に社会的身分差別があり、エツィロップという更にオマヌケな連中は武器を所持し、庶民は逆らえない。
通貨もあるが、マッチが更に貴重品で、人びとは交渉ごとやトラブルのたびに細かい取引を繰り返す。
主人公のウラジミールは、ロシア人としてはごく普通のおっさんで、妻から買い物を頼まれてイヤイヤ街に出たはいいが、とんだ異世界旅行に巻き込まれる。
不審者を見つけた若者に対して「通報しろ」とか、異星人と出あって「大使館に連絡する」とか、思いっきり権威の名を借りて保身を図ろうとする小市民らしさを発揮。
しかし、地球への帰還を目指す中、同行の若者を守ろうと奮闘したり、有り合わせの知識や技術でその場を乗り切って行く。
いざという時には見事な攻撃も!
ヘンテコな武器を構えて「クー? それとも、クー?」とすごんでみせるところが意味もなくかっこいい。
でもやっぱり手製のゲージの中で「マーマ、マーマ」とバイオリンを弾くシーンが特に好きだなあ。
一番まともに見えるのは、ゲデバン(スクリパーチ=バイオリン弾き…実際は弾けないけど)かな。
グルジア人というところもいい、他民族国家ソビエト連邦らしいよね。比較的温和で味のある好青年。そしておじさんに対する呼びかけがちゃんと「タバリーシチ=同志(当時の意味合いで、あなた/君、程度)」というのがソ連ソレンしている。
(ところで奥さん、日本では、グルジアという国家名称が2015年から「ジョージア」に変わったという話、ご存知でした?
あたしゃ、今回この映画のことを調べて初めて知ったのよ、びっくりだね。時代はどんどん変わっていくわ。)
共に行動するふたりの異星人もまた、味がある。
どう見てもレーピンの絵だあ。
そしてどこからどうみてもソ連人。誰もかれもすぐにロシア語しゃべるしね。
境遇も他民族国家的で切実だし。
エヴケーニー・レオノフとユーリー・ヤコヴレフ、この二人の他の映画ももっと観てみたくなること、請け合いの素晴らしい演技だったよ。
ヴォーヴォおじさん役のスタニスラフ・リュブシンという人が出ていたという(フルシチョフ時代の1962年に制作され、1995年にようやく公開された)「私は20歳」という作品もぜひ観てみたいものだ。
まあ、キンザザに戻って。
このお話で一番感じたのは、
「郷に入ってはまず、郷に従え」
というところかな(オイ)。そして
「そこからの反撃!!(ただし、暴力だけが解決方法ではないよ)」
だろうか。
ロシア人の反骨精神について思うことが多い。
まず、小市民たるもの、上からの圧力に耐えて耐えて、じっくりと己の中に知識や経験を溜めこみ、そこからユーモアというエキスを絞り出して蒸留する……
といったイメージを、この映画からもじんわりと感じるのです。
権力に弱いのだがそれでもしたたかなところ、冷たいようでいてふと感じる温かさ、粗野なようでいて複雑な繊細さなどなど……
つい、ロシア映画からみえてくる『ロシア人とソ連に組み込まれた人たち』に夢中になってしまう私でありました。
軽くネタばらし?
まあ、この映画で一番ショックだったのは、あのセリフかな……
「俺の母親もグルジア人だった」
え? かの星は実はソユーズ計画の行く末の未来だったのか……?
あ、違った。グルジアンじゃねえやジョージアン、だね。おわびして訂正しますー。