婚姻の儀式
長い時間揺られた車は、途中で馬車へと変わる。
あまり穏やかではない道を進んだ先に、私の帰る場所があった。
黒峰本家。
一度だけ過ごしたこの場所は、その時は外観をまじまじと見る機会がなかった。
昼間の明るい中でも変わらない、歴史を感じる重厚な建物。
黒色を主として使っているからなのか、森の濃い緑に溶け込んでしまうようなこともない。
大きな門の奥にある大きな扉を過ぎ、大した挨拶もなしに当主の部屋へ招かれた。
粛々と進められるのは、私と我輩さまの婚姻についてだった。
改めて意思の確認をされることもなく、弁護士立ち会いの下、言われるままに書類を埋めていく。
たったそれだけのことで、どうやら手続きは終わってしまったらしい。
「これで貴女は、黒峰家の嫁となった」
無表情に、淡々と。当主は事実だけを口にした。
後ろに立つ奥様は、身じろぎもせずただただ視線を真っ直ぐに向けている。
だけど弁護士が部屋を離れると、ほんの僅かに空気が緩んだ。
「……弥代子さん。恐らく、貴女の今まで持ってきた常識は、これから先は通用しないでしょう」
当主の声からは威圧感が抜け、丁寧ながらどこまでも距離を感じるものに変わった。
その口調に慣れているのか、我輩さまは眉一つ動かさずに耳を傾けている。
「十夜はもちろん、わたしも妻も、貴女を援助します。
黒峰家の嫁に相応しくあるよう、努力してください」
「……分かりました」
気持ちだけでは務まらない。
そう言われているように感じ、だけど覚悟はしていたから頷いた。
我輩さまの隣に居るためには、私自身の努力だけでは足りるはずがない。
当たり前の忠告を胸に刻み、これで話は終わるのかと思った。
「明日より学園が始まると聞いています。出立の前に、二人には儀式を行ってもらいます」
「儀式……ですか?」
我輩さまも初耳だったようで、訝しげな視線を当主へ送る。
間にあるテーブルに置かれたのは、古びた黒い本だった。
なんでも、さっきの手続きは対外的な、世間的に必要なものでしかないらしい。
本当の意味で黒峰家に属するためには、特別な儀式をしなければいけないという。
「十夜、儀式の間を開けてある。夕方までに済ませるように」
そう言って、私たちは退室を命じられた。
それから軽い食事を取り、昼を過ぎる前に儀式の間という部屋へと向かうことになった。
「あの、我輩さま。儀式って何を……」
「我輩も知らぬ。しかし、この魔術書に沿えばよいのだろうな」
黒地に金で模様が描かれた本は、古くても大切に扱われてきたんだろう。
触れる場所には汚れがついているものの、埃なんかはかぶっていないようだ。
長い廊下を歩き続けると、玄関から一番離れた突き当たりに、真っ黒な扉が現れた。
それは当主の部屋とも、前に親族会議に使った部屋とも違う、過剰なほどに重厚なものだった。
「ここは、本家の人間が特別な魔術を行使する際に使う場所だ」
我輩さまはそう説明して、懐から真っ黒な鍵を取り出した。
騒々しいほどの解錠音が響き、滑らかに扉が開く。
その中の光景は、黒一色だった。
入り口から射し込む以外の光源がなく、どれくらいの広さかすら分からない。
一歩踏み入れたら闇に落ちてしまうんじゃないか。
そんな不安を抱くくらいに、その場所は異質だった。
「弥代子」
一歩脚を引いたことに気付いたのか、我輩さまは私の手を握った。
ここは、黒峰本家だ。そしてこの人は、黒峰家の次期当主だ。
だったら、この程度の闇に怯んでいてはいけないだろう。
引いた脚を元に戻し、我輩さまに続いて更に踏み出す。
そうして入った部屋は、扉が閉まったすぐ後に、ぼうっと蝋燭が灯った。
壁の高い場所に設置されている蝋燭は、ゆらゆらと室内を照らし出す。
広さは、学校の教室くらいだろうか。
黒い壁。黒い床。黒い机。黒い椅子。
息苦しいまでの黒色だけど、不思議と落ち着きも感じられてしまった。
それはきっと、あの場所に似ているからだろう。
「級長室みたいですね」
「恐らく、この部屋を意識して作られたのであろうな」
大して気にした様子もなく、我輩さまは蝋燭の下で魔術書とやらに目を通し始めた。
ぱらぱらと読み進める目は忙しなく、分厚くはなかった本はすぐに最後のページに辿り着く。
そして読み終わったであろう我輩さまは、堪えきれないといった様子で笑みを浮かべた。
「我輩さま……?」
口角を上げただけの笑みは押し殺した笑い声に繋がり、黒いスーツを着た肩が小さく震える。
一体どんな内容が書かれていたのかと思っていると、我輩さまは魔術書を机の上へ放った。
「儀式とやらがどんなものかと思ったが……他愛もない」
再び手を引かれ、部屋の中心へと立たされる。
よく見ると床には何か模様が描かれていて、それは前に私の肌に写っていたものによく似ていた。
「婚姻の儀式というものは、夫が妻の心臓の上に陣を施すことだそうだ」
「はぁ……前と一緒ですね」
仰々しい様子からどんなことをするのかと思ったから、なんだか拍子抜けだ。
我輩さまの陣は何度も施されているし、茜先輩の印だってつけてもらったことがある。
だから大したことじゃないと思ったけど、我輩さまにとってはそうじゃなかったらしい。
「他の色は知らぬが、黒の魔力を持つ者にとって人体への陣は所有の意味を持つ。
意識せずとも婚姻の証と同義のことをしていたとはな」
そう言って、我輩さまは私の胸元にとんと指を置いた。
灰色のワンピースは布が厚めだけど、それでも指の感触は遮られなかった。
「わ、我輩さま……っ」
「これより陣を敷く。お前と我輩を、繋げる陣だ。
誰にも消されない、誰にも切れさせない、特別な陣を」
置かれた指が円を描き、じわりじわりと魔力が染みこむ。
目で見えなくても分かる薄墨色が、私の肌のすぐ下で蠢いている。
なのにその感触よりも、蝋燭の光で淡く照らされた姿のほうが、私の意識を持って行ってしまう。
級長室で過ごしていた時と同じ、綺麗な顔。
思いを伝え合った時と同じ、満足そうな顔。
そんな顔が、ふと近付いてきた。
「お前の香りがする」
低く囁く声が、私の聴覚を刺激する。
一瞬のうちに広がった熱に、我輩さまは気付いてしまっただろうか。
「記憶の中にしか居なかったお前が、こうして我輩の前に居る」
噛みしめるような囁きは、私のすぐ目の前で発せられる。
誰も居ないと分かっているのに、薄い唇は誰にも聞かれないように密やかに動く。
「お前の記憶の中に……我輩は居たか?」
一際小さな囁き。
ぴくりと身体を震わせてしまうと、我輩さまの手の平が私の胸にぴたりと当てられた。
その手は私の鼓動を感じ取ろうとしているのか、それとも……。
「……ずっと、居ましたよ」
縋り付いているかのような手に、自分の手を重ねて押しつける。
高鳴る鼓動は確実に響いているはずだ。
これが証拠だと分かって欲しくて、苦しさを覚えながら言葉を続ける。
「我輩さまの隣に帰るために、今日まで過ごしてきました」
押さえつけた場所に、薄墨色の魔力が満ちる。
きっとこれで儀式は終わりだろう。
そう分かったけど、私は身動き一つ取れなかった。
だって、我輩さまがずっとずっと、私を見つめているから。
「これでお前は、我輩のものだ」
「はい」
「その代わりに……お前には、我輩を捧げよう」
我輩さまは私の手を取り、自分の心臓の上へと重ねた。
私に魔力を外に出す手段はない。
だから、触れたところで陣を敷けるはずもない。
それでも我輩さまは、私の手から魔力を感じ取るかのように、強く強く押し当てる。
速い鼓動は私と同じで、その理由も同じなんだろう。
「弥代子、我輩の思いを告げてもよいか」
「……はい」
触れあい、見つめ合い、囁き合う。
至近距離からの睦言は、遠く離れていた期間をなかったものにしてくれる。
「お前が好きだ」
熱い手の平に身体が震えそうになる。
「お前が愛しい」
真っ直ぐな視線から目が離せない。
「お前を……愛している」
率直な言葉に胸が締め付けられる。
これは……離れることになってしまった日の、私の告白だ。
身体に詰まったたくさんの気持ちを、どうにかして取り出したいと足掻いた、私の告白。
「あの日から、何度も思い出してきた。
だが、今は……お前の声が聞きたい。お前の声で告げて欲しい」
押しつけられた手の平で、私を求めているんだと分かった。
同じ速度の鼓動を耳と手の平に感じながら、少し上を向いて、乞われたものを口にする。
「私も、我輩さまが……好きで、愛しくて、愛してます」
それを耳にした我輩さまは、頬を赤く染めた。
私の言葉に素直に反応して、分かりやすく照れているらしい。
学園の内外で畏怖を集め、次期当主としての貫禄を備えた人なのに。
「……抱き締めても、いいだろうか」
そんな我輩さまの遠慮しがちな声に、思わず笑ってしまった。
自分のものだって言ったばっかりなのに。
「はい、もちろん」
聞かれるままに許可をすると、我輩さまは一度小さく息を吸う。
そして触れていた手を離し、両腕で強く私を抱き寄せた。
温かい胸に顔を押しつけられ、身体の音が直に聞こえる。
衣擦れの音。強い鼓動。浅い呼吸。堪えきれないように漏れ出る声。
それらに耳を傾けていようと思ったら、すぐさま顔を上に向けられてしまった。
「キスは?」
紫色の虹彩を持つ瞳が、蝋燭の炎に照らされる。
その表情は恥ずかしそうで、不安そうで、だけど求める気持ちは抑えられないようで。
長い指が顔に触れ、下唇をそっと押し込まれた。
「……いいですよ」
返事と動きと、どっちが速かったか。
気付けば私の顔はしっかりと捕らわれ、壊れ物にでも触れるかのような、優しい感触がした。
遠い記憶に刻みつけた感触は、現実に塗り替えられる。
しっかり覚えているつもりだったのに。
今この一瞬で、あの時と同じくらいの感情があふれ出していた。
「もう一度」
僅かに離れた唇がそう囁き、再び重なる。
どうやら私の返事を待ってくれるわけではないらしい。
「まだ、足りない」
長い腕が私の背中をさすり、くすぐったさに身じろぎをしてしまう。
だけどその反応がお気に召したのか、我輩さまは同じ動きを何度も繰り返してきた。
私が声を上げるたびに、我輩さまはとても……愛しそうな目をする。
「もっとお前に触れたい。良いか?」
「わざわざ、許可なんて……、取らないでいいです」
「……成る程。ならば存分に味わうとしよう。
ようやくお前と二人で過ごす時間を得られたのだからな」
離れていた隙間を埋めるかのような触れあいは、いつまで続くのだろう。
だけどそれはまったく嫌なものではなく、私だって求めているものだから。
外の光も何もなく、時間の流れも分からない場所で、二人きり。
ようやく我輩さまが離してくれたのは、日が暮れた頃に外からノックが響いてからだった。




