帰る場所
学園から遠く離れた、山とも海とも離れた場所の、やけに白い大きな建物。
一年生の冬に来て、二年生のほとんどを過ごして、三年生になる直前に去ることになった。
一年中快適な温度を保つ室内を、少しの荷物を持って進む。
建物にはほとんど窓がないけど、自室だった部屋の天窓からは、この時期らしい日差しが差し込んでいた。
「ぷ、ぷ、ぷ」
私の隣をぷかぷか浮かぶぷーさんは、どうやらご機嫌らしい。
鼻歌のような声を出しながら廊下を進み、白い扉の前で止まった。
いくつか設置されている扉は、この建物内における関所のようなものだ。
大きくて頑丈そうな扉を潜るのは、何度目だろうか。
一度目は、ここに来た日。
二度目は、我輩さまの卒業式の日。
その後は、学園側から指定された登校日。
ぎりぎり片手で足りる回数は、これからも増えることだろう。
扉に設置された監視カメラの前で待っていると、白い扉が音もなく、ゆっくりと開いた。
「弥代子ちゃーんっ!」
開いた先で待っていたのは、花柄のスカートを着た小柄な女性だった。
満面の笑みを浮かべながら大きく手を振り、私を手招きしている。
「おはようございます、先生」
この施設内では最年少であろうこの人は、いわゆるカウンセラーという立場らしい。
若々しい容姿と子どもらしさすら感じられる行動をするけど、れっきとした大人だ。
一度年齢を聞いてみたところ、迫力のある笑顔で叱られてしまった。
女性に年齢を聞くのは、同性であろうと細心の注意を図るべきものなのだと。
「おはよぉー! 今手続きしてるから、ちょっと待っててね!」
壁際に置かれたソファに座ると、先生はほとんど隙間なく隣に座る。
近すぎる距離感に最初は戸惑ったけど、今はもう慣れた。
きっと、元から人と距離を置きすぎる私への治療の一環でもあったんだろう。
「決まりだから一応説明しておくね。弥代子ちゃんの身元引受人は、えーっと……なんだっけ。
そうだ、黒峰さんですって。格好いい名字だねぇ!」
手元の書類に目を落とした先生は、魔力を持たない人だ。
なんでも、魔力の制御を学ぶ過程で、他人の魔力の干渉は邪魔でしかないらしい。
そのため、学園の登校日であっても、隔離された部屋で担任の先生としか顔を合わせていない。
だから他の先生とも、クラスメイトとも、それ以外の人とも、誰とも会えなかった。
「あ、そうそう。弁護士さんだけじゃなくて若い男の子も来てたよ。
あれ、彼氏? イケメンだねぇ!」
その言葉に、胸がぎゅっと苦しくなった。
黒峰の、若い男の子。それに当てはまるのは、一人しか居ない。
「……彼氏、じゃ、ない、です」
「えっ、そうなの? どういう関係?」
「どういうと言われましても……」
返答に困っている間に、手続きとやらが終わったらしい。
じんわりと熱を持つ頬を押さえていると、外へと向かう廊下に案内された。
「おめでたいことだっていうのは分かるんだけどさぁ、寂しいよねぇ。
弥代子ちゃん、ここでのこと、忘れちゃやだよ?」
「忘れませんし、定期検査にも来ますから」
頬を膨らませる先生を見ると、どうしてか力が抜けてしまう。
これがカウンセラーという人なのか。いや、多分この人の元々の性格からくるものなんだろう。
もしもの想定だけど……もし、私に姉が居たら、こんな人なのかなと思ってしまう。
口にする勇気はないけど。
鍵のかかっていた小さな扉が開かれ、関係者用の出入り口へ続く細い廊下が見えた。
「じゃあ、またね?」
「はい、また」
先生のどこか悲しそうな笑顔に向かい、小さく手を振った。
小さいながらも重々しい扉が閉まり、誰も居ない廊下を進む。
いつもと違って響く足音は一つだけで、本当にここから出ることになったのだと実感する。
我輩さまとは、卒業式の日から一度も会っていない。
面会は元より、電話すら禁じられていた。
その理由は、強い魔力との接触や感情の乱れは、魔力の制御に不備が生じるから。
そう考えると、我輩さまの卒業式は本当に特別な計らいだったんだと分かる。
私は日常に戻るためにここに来た。一刻も早く戻るために学んでいた。
だから、その決まりに強く逆らうことはできなかった。
「……ぷーさん。この先に、我輩さまが居るんですよね?」
脚を止め、隣で浮かぶぷーさんに問いかける。
我輩さまとは、一年生の春に出会って、冬に離れた。
実際一緒に過ごしてきたのは、一年にも満たない期間だ。
そして、それ以上の期間離れていた。
会えるのは記憶の中だけで、募った気持ちと同じくらい不安もある。
理想と現実を、はき違えていないか。
自分に都合のいい虚像を、当てはめてはいないか。
気持ちが募っているのは……私だけなんじゃないか。
「ぷ!」
一際大きな声を出したぷーさんは、私を置いて廊下を進んでしまう。
もしかしたら、本来の主人である我輩さまの魔力を感じ取ったのかもしれない。
魔力を遮断するという特殊な建物は、関所の扉を越えてしまえば効果はない。
「ぷーさん、待ってください」
「ぷ、ぷ、ぷー!」
ぷーさんは軽やかに進んだ先で、扉に体当たりしはじめる。
柔らかな身体では大した衝撃も与えられないだろうけど、このまま続けさせるのも可哀想だ。
本当はもう少し頭の中を整えておきたかったけど、仕方がない。
関係者専用の扉の先は、この季節らしい日差しが差し込んでいた。
触れる空気は少しだけ冷たく、久しぶりの屋外に時間の流れを感じる。
そしてその中で一点。景色に紛れることのない存在があった。
僅かばかりに植えられている木々を背に、真っ直ぐに立つ一人の姿。
その姿が視界に入った瞬間、今日まで整うことのなかった頭の中がまっさらになってしまった。
ただ一つの考えで埋め尽くされた身体は、最初はゆっくりと、すぐに小走りでその場所まで向かう。
私の足音に気付いたのか、俯いていた顔がこちらに向けられた。
真っ白な肌と、真っ黒な髪と、紫色の虹彩を持つ瞳と。
記憶の中とまったく変わらない、綺麗な顔。
「弥代子!」
強く響く声は耳に染み渡り、近付く息遣いすらも拾い上げる。
お互いに駆け寄って、私たちは手を伸ばさなければ触れられない距離で立ち止まった。
明るい場所で見る姿は、いつものローブを羽織っていない。
当たり前だ。もう、学園を卒業してしまったんだから。
何か言わなければ。
そう思っても、身体の中にあるものをどう取り出せばいいか分からない。
口を開こうとしては閉じ、だけど合わせた視線は外せない。
明るい場所で見る瞳の中には、ちゃんと私の姿がある。
「弥代子」
「……はい」
呼びかけに答えると、手が伸ばされる。
指先が触れ合い、その冷たさに驚く。
震える手が私の指に触れ、そっと握られる。
あぁ……同じだ。
私の記憶の中にあるものと、何度も思いだしたものと、同じだ。
冷たくて大きな手が私の指を絡め取り、ぎゅっと力が入れられた。
縋り付くように組み合わさった手から伝わるのは、私が抱えているものと一緒だ。
やっと、会えた。
ずっと、会いたかった。
気持ちが募っていたのは、私だけじゃなかった。
「我輩さま」
虚空に向かって何度も呼びかけていた名前を、本人へと投げかける。
それを受け止めてくれた我輩さまは、繋いだ手を引き寄せた。
「ただいま、戻りました」
「……よく、戻った」
近付いた顔が綻んだ。
たったそれだけなのに、我輩さまからたくさんの気持ちが流れ込んできた。
その気持ちは、私の中を埋め尽くしていたものと同じ。
愛しい。
口にしなくても分かる気持ちは、我輩さまにも伝わっているだろうか。
そう思って指に力を入れると、我輩さまは淡く微笑んだ。
「共に帰ろう」
手を引かれ、我輩さまの隣に並ぶ。
触れた場所から感じられるのは、薄墨色の魔力だ。
何度も身体に注がれ、当たり前になっていたもの。
そして……これからも、当たり前になるもの。
「家までの道中、お前の話を聞かせるのだ」
「我輩さまのお話も、聞かせてくださいね」
音もなくやってきた車に乗り込み、隣り合って座る。
たったそれだけのことなのに、とても特別なことのように思えた。
募っていた気持ちを伝えることはせず、触れ合う場所を増やすこともしない。
ただ、今まで一緒に過ごしてきた時と同じ時間を繰り返す。
緩やかに流れる景色の中、私と我輩さまの話も、繋いだ手も、切れることはなかった。




