夏の日の授業
我輩さまと私、書籍発売から三年&GW短期集中連載です。
夏休みまでもう少しという時期。
学園内で僅かばかりに存在する運動場で、私のクラスは体育の授業をしていた。
山の上に建っているとはいえ、真夏であるこの時期に屋外の運動はどうなのか。
教師が席を外している間に、ほとんどのクラスメイトは木陰へと避難していた。
「あっちで魔術の授業してるぞ!」
近くから聞こえた弾んだ声に、周りに座っていた人たちの意識が一気に集中する。
無属性である私たちにとって、その他の属性の魔術というものは縁遠いものだ。
一般社会ならそもそも目にすることもないものだけど、この場所では機会さえあれば目にできる。
それはクラスメイトにとって心躍るもののようで、揃って目を爛々とさせていた。
運動場の近くにある実技場は、広大な敷地を誇っている。
一応私も目を向けてみると、こんな暑い日だというのに真っ黒なローブを被った集団がいた。
見るも明らかな、黒の組だ。
それぞれ様々な魔術を行使していて、教員はただ見ているだけ。
信頼なのか手抜きなのか分からない授業は、おそらく上級生なんだろう。
魔術の防護壁を張られた壁に向かって、火や水、その他属性の魔術を放っている。
「すっげー! あれ、三年生だよな?」
「総合魔術の授業かな? そういうのあるって聞いたことある!」
無属性は無属性でしかないけど、色を持っている人は自分の属性以外の魔術も使える。
だからこそあんなに多種多様な魔術が使われているんだろう。
クラスメイトは魔術が見えるたびに歓声を上げ、その声は防護壁によりあちらには届いていないだろう。
そんな中、さっきから一向に動くことのない後ろ姿が目に入った。
真っ黒なローブを被った姿は、背が高く、姿勢がよく、そしてどこか威圧感を放っているように見える。
深々と被ったフードで顔は見えないけど、見間違えるはずがない。
教員がおずおずと声をかけたのをきっかけに、その姿は実技場の中央へと立った。
「あっ、黒の級長じゃない?」
「ほんとだ! 級長の魔術見れるの? やった!」
一層賑わうクラスメイトの声を耳にしつつ、珍しく太陽の下にいる我輩さまに視線を向ける。
きっと、黒の生徒たちも同じく賑わっているんだろう。
だけど僅かに見える我輩さまの表情は一切変わることなく、むしろつまらなそうに見えるものだった。
ローブの下から手を伸ばし、小さく口を動かすと同時に魔術が放たれる。
遠くに置かれていた的は一瞬のうちに黒い闇に包まれ、すぐにかき消えたその場所には何もなかった。
さっきまで見た魔術とは段違いの威力と精度に、クラスメイトは歓声すらあげられないらしい。
「……黒の級長、すごすぎないか?」
「あんなに褒められてるのに顔色一つ変えないなんて、やっぱクールな人なんだね!」
「でもちょっと怖いな。威圧感すごいし」
「そんなところが大人っぽいんだよ!」
そんな感想を聞き、納得しながらも首を傾げてしまう。
我輩さまはすごい人……らしい。魔術の腕も段違い……なのも分かる。
でも、クールとは言い難いし、常に威圧感を感じる相手でもない。
ぷーさんと揉めている様子を思い出せば大人なんかじゃ全然ないだろう。
だけど、そう思うのは私だけなんだろうか。
考えている間も、黒の組の人たちは我輩さまを囲んで熱っぽい歓声を上げているようだ。
そういえば、我輩さまを級長室以外で見たことって、ほとんどないんだったか。
どうやらあの場所以外では、本当に崇拝されている存在らしい。
「さっすが、級長は格が違うよな」
クラスメイトの感想を聞いたり、黒の組の熱狂ぶりを見たりすると……なんだか、妙な感覚になってくる。
我輩さまが、遠く感じるような。
遠くにいるんだから当たり前のはずなのに、そこから更に離れていくような。
よく分からない感覚を抱いていると、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
放課後に黒の級長室へ行くと、我輩さまがいつものように本を読んでいた。
その顔に疲れはないようで、ぷかぷか浮かぶぷーさんに体当たりされては指先で風を操っている。
「疲れてないんですか?」
「何故、そのようなことを聞く?」
私の質問に、我輩さまは読んでいた本を机に放る。
見たことのない模様の羅列は、魔術に使うものだと言われても理解できそうにない。
「実技場で魔術を使っていたのを見たので」
「そういえば、珍しく運動場に人がおったな」
きっと、人に見られることに慣れているんだろう。
気にした様子のない我輩さまは、声を上げるぷーさんをあやすように、緩やかな風を吹かせ続ける。
「あの程度で消耗するほど乏しい魔力量などではない。小娘への治癒魔術に比べれば些細なものだ」
きっぱりと言い切られた言葉は耳が痛い。
なんでも、授業で使ったのは闇の魔術だそうで、自分の持つ属性だから負担が少ないらしい。
そして、治癒魔術は真逆の属性だから負担が大きいそうだ。
「闇の魔術って、あんまりイメージできません」
「見たいというならば見せてやろう」
「いえ、大丈夫です」
見たところで理解なんてできないだろう。
それに、せっかく見せてもらっても、クラスメイトのように歓声は上げられないだろうから。
見せるというならもっと有意義な相手に見せるべきだろう。
そう思っての言葉だったのに、我輩さまには不満を覚える答えだったらしい。
一瞬目を細めた我輩さまは、天井に向けていた指先をこちらに向け、小さく呟いた。
「"闇よ"」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の周囲が闇に包まれた。
それは、正真正銘の闇だった。
さっきまで見えていた蝋燭の明かりも、私が使っている机のライトも、存在を消してしまった。
目の前にあるであろう自分の指先すら見えなくて、視界の中は黒一色だ。
突然そんな状況になってしまったら、動揺するのが普通だろう。
なのに……私の頭は、一切恐怖を感じていなかった。
それどころか、静かな落ち着きすら感じられる。
私の身体にまとわりつく闇からは、私の体内に巡っているものと同じ、我輩さまの薄墨色の魔力を感じた。
この感覚は……安心だ。そう分かった時、闇が瞬時にかき消えた。
「初歩的なものだが、このようなものだ」
視界を取り戻してすぐに見えた我輩さまは、私に魔術を見せたことで満足したらしい。
机に放った本を持ち直し、片手で分厚いページを押さえている。
とはいえ、何も言わないわけにはいかないだろう。
何を言うべきかと悩んだ末、当たり障りのない感想を口にした。
「昼間に寝たい時に便利そうですね」
「今日は特に作業はない。試してみればよかろう」
「宿題をやりたいのでいいです」
そもそも、校内で昼寝はするべきじゃない。
鞄から教科書とノートを取り出し、真っ黒な部屋の中、明るいライトの下へと広げる。
薄暗い部屋の中では眩しさすら感じてしまうけど、窓を開ければこれ以上の光が差し込むことだろう。
そんな中でだったら、あの闇は有用だ。
それに……あの闇に包まれて眠るのは、きっと心地良いだろう。
ふと浮かんだ根拠も何もない考えは、一体どうしたものか。
不思議に思っても浮かんだ理由は分からず、シャーペンを片手に首を捻ってしまった。
「分からないものがあれば聞くがよい」
「大丈夫です」
「……張り合いのない奴だな」
本に目を向けながらも、我輩さまはこちらの様子を窺っていたらしい。
だけど宿題に対して考えていたわけじゃないんだから、聞くようなこともない。
考えてみれば、我輩さまは私が宿題をしている時、いつもこうして聞いてくるような気がする。
補助役の学力が低くては示しがつかないということなのか。
それとも、もっと違う理由があるものなのか。
「我輩さま、人に教えるのが好きなんですか?」
「有象無象に施しを与えるつもりなどない」
椅子に深く体重を預けた我輩さまは、さも興味なさそうに答える。
その様子は運動場から見た、黒の生徒に囲まれている時と同じものだ。
有象無象の対象は、自分のクラスメイトも含まれているんだろうか。
なのに、私には自分から教えてくれるという。
よく分からない状況に、ますます首を捻ってしまう。
そんな私の態度を見ていたのか、我輩さまは小さくため息を付いた。
「小娘は、理解が遅いようだな」
眉が下がり、口角も下がる。細めた目は明らかに呆れているんだろう。
自分より下の相手に向ける憐れむような視線は、我輩さまにとっては慣れたものなのかもしれない。
「……やっぱり、教えてください」
「よい、見せてみろ」
ここは我輩さまの意思を尊重すべきだろう。でないと、ますます機嫌を損ねてしまいそうだから。
我輩さまは力を抜いていた身体をすぐに起こし、私の手元を覗き込んでくる。
その目は開いたページの文章を辿っているようで、あっという間に端まで読み終えてしまったらしい。
そんなに真剣にならなくても大丈夫なんだけど。
ただ、呆れたような表情は消えたからいいか。
忙しなく動いていた紫色の虹彩を持つ瞳が、再び私に向けられる。
「こんな簡単なものも分からないのか?」
「すみません」
分からないわけじゃないけど、分かっているのに聞いたと分かったら怒られそうだから。
完全に理解しているわけじゃないから、ここは分からないと言っておこう。
もう一度浮かべられる、心底呆れた表情。
さっきと同じものを見て、ふと、その意味を考える。
施しを与えないと言いながら、私に施しを与えようとする。
その言動が理解できなかったけど、我輩さまにとっては今の言葉が意味するように、簡単なものなんだろうか。
施しを与える理由。
与えない理由は、我輩さまにとって有象無象の存在でしかないから。
なら、その逆は?
二年間一緒に過ごしたクラスメイトと、せいぜい数ヶ月しか過ごしていない私。
どういう価値基準があるのか分からないけど……我輩さまにとって私は、有象無象ではないのかもしれない。
「小娘よ。一年生とはいえ、この程度しか教えないのはどういうことだ」
「私に聞かないでください」
ぶつぶつと文句を言いながら眉を寄せるその表情は、昼間は浮かべていなかったものだ。
この部屋ではない場所に居る我輩さまは、クールで威圧感を感じる、大人っぽい人間なのかもしれない。
だけどこの部屋では、表情がよく動き、ぷーさんと甘いものの取り合いをする、年相応の人間でもある。
立場も能力も段違いに優れている我輩さまのそんな一面は、多くが知るものではないのかもしれない。
級長室でのことは他言無用。だから、知る人が増えることもないに違いない。
「さて……では、講義を始めよう」
椅子を寄せて教科書を覗き込む我輩さまは、ゆったりした声で説明を始める。
正直な話、我輩さまの教えてくれることは無属性の授業には必要ないことも多い。
だけど、教えてくれるなら聞いて損はないと思うから。
黒の生徒が見れば垂涎である黒の級長の講義に、耳を傾けることにした。