聖夜の過ごし方
クリスマス小話です。
「それでは、行ってきます」
がらんとした女子寮を出て、男子寮との合流地点にある小部屋へと声をかける。
そこには寮長の先生が退屈そうに座っていて、小さく手を振って見送ってくれた。
今は学園の冬休み。
本来昨日からのはずだけど、私は級長としての仕事が残っていて周りより一日遅れてしまった。
一年生の時は帰省なんてせず、二年生の時はそもそも学園にはたまにしか居られなかった。
そして三年生である今は……帰るべき場所が、ある。
前よりは少し大きくなった鞄を手に寮を出ると、校門前に停められた車の窓をノックする。
すると中からドアが開かれ、そこには満面の笑みを浮かべる女性が座っていた。
「弥代ちゃん!」
「お久しぶりです、茜先輩」
今も交流のある、学園の卒業生。茜先輩は白空家から赤山家に嫁ぎ、今や若奥様という立場になっている。
そんな茜先輩は真っ白な車に乗っていて、中はベージュの革張りだ。
暖かな空気と共に漂ってくる品のある香りは好印象で、促されるままに車へと乗り込んだ。
シートベルトを締めると車は滑らかに動き出し、窓の外には木々が後ろに過ぎ去っていくのが見える。
「直接会うのは夏以来かしら? 会えて嬉しい」
隣に座る茜先輩はふんわりとした白いセーターを着ていて、表情と相まって温かみを感じる。
対する私は灰色のコートを着たままだから、明暗がはっきり分かれてしまったようだ。
「わざわざ迎えに来ていただいて、すみません」
「お買い物に付き合ってもらうんだから、これくらい当たり前よ。
弥代ちゃんも買うんでしょう?」
メールでの会話によると、茜先輩は今日、夫である赤山家の次期当主にプレゼントを買うらしい。
なんでも、今日は聖夜だから、と。
本来は宗教行事であるはずなのに、世間一般はただの行事として認識している。
私にとって子どもの頃から縁遠かった日だから、きちんと参加するのは初めてだったりする。
「聖夜って、よく分からないんですが……」
「分からなくていいのよ。ただのイベントなんだから」
軽く言ってくれているのは、私が深く考え込まないようになのかもしれない。
ゆったりとした会話を続けていると、車はいつの間にか大きな建物に近付き、エントランスでぴたりと止まった。
とても大きな百貨店は、扉の目の前まで乗り付けられるものらしい。
運転手さんが開けてくれたドアから外に出て、鞄の中からレースのついた髪飾りを取り出す。
鏡を見ずに付けられるくらい慣れてしまったものは、付けた瞬間に取り除かれてしまった。
「え……?」
「なくても大丈夫よ」
目元をすっぽり隠すはずのものは、茜先輩の手の平を覆っている。
それは、他人の誤解を防ぐための防御策。
見た人の記憶を覗けてしまうという私の能力は、学園内では知られていないけど本家に関わる人間なら知っている。
だから制服を着ていない時は付けるのが当たり前のもので、もはや癖にもなっていた。
「そもそも制御できているんでしょう?
せっかくのお買い物なのに、弥代ちゃんの顔が見えないなんてもったいないわ」
そう言うと茜先輩は髪飾りを運転手さんに渡してしまい、真っ白なコートを羽織った。
白空家で育ってきた茜先輩は、やっぱり白が馴染むんだろう。
だけど前は白色だったカチューシャは、鮮やかな赤色に変わっていた。
自分の服を見返してみると、私の身体も二色に染まっている。
白色と、赤色。灰色と、黒色。
だったら、今日はいいのかな。
とても楽しそうにしている茜先輩の顔は、私も直接見たいと思ってしまうから。
そんなことを考えながら駐車場に行くであろう車を見送っていると、煌びやかな街並みが目に入った。
昔は、この時期が嫌いだった。
だって、みんな賑やかで、華やかで、楽しそうだったから。
街はきらきら輝いていて、色がいくつも眩しくて。
学園内ではあまり見かけない色で溢れた街並みは、今はとてもきれいに思えた。
「弥代ちゃん? 行きましょう」
支配人らしき人と話していた茜先輩は、案内を断って好きに動くことにしたらしい。
さすがは赤山家の嫁。扱いがVIP待遇だ。
黒峰家はあまり世間と関わらず、必要なものは家に届けさせるから対極的かもしれない。
ドアボーイの開けた扉から店内に入ると、茜先輩は迷うことなく目的の場所へと脚を進める。
辿り着いたのは男性用小物のコーナー。
時期的になのか、分かりやすいほどにプレゼント用のものが主張されていた。
「茜先輩は、どういったものを買うんですか?」
「今年は正直に聞いてしまったのよ。手袋がいいんですって」
だから選ぶのは色と素材くらいだとのことで、うきうきと手袋を手にしていた。
本人に聞いてしまえば確実なんだろうけど……我輩さまは多分、聖夜を知らない。
世間一般の常識に疎いというだけでは説明がつかないほど、我輩さまは世間を知らないから。
一番確実な手段を使えないとなると、ここは自分で努力するしかないだろう。
見渡す限りに広がる男性用小物を前に、ため息をぐっと堪えた。
我輩さまは、必要なものはすでに持っているだろう。
だからここは、もらっても困らない程度の物品を選ぶべきだ。
そして聖夜は冬のイベントだから、冬らしいものがいいのかもしれない。
ということは、茜先輩と同じく手袋?
目の前に置いてあった黒い手袋を手に取ると、ふと、二年前の秋が頭に浮かんだ。
それは、学園の文化祭の、級長の誓いの言葉。
ステージ上の我輩さまは、スポットライトを浴びて、手袋を外して……。
「……やめよう」
頬が熱くなっているのを感じ、そっと棚に戻す。
そもそも、我輩さまの手は温かい。だから、手袋の必要はないはずだ。
そう思って場所を移動すると、お目当てのものを見つけたらしい茜先輩が私の手元を覗き込んできた。
「そういえば弥代ちゃんって、お小遣い制? お店、ここで平気だったかしら?」
「はい。一応、黒峰家からいただいてはいるんですが、贈り物に使うのはどうかと思って。
子どもの頃から貯めていたお年玉を持ってきました」
「なんだか微笑ましいわ……。黒峰なんかに使っていいの?」
「こういう時でないと、使い道がありませんから」
目立って欲しいものはないし、そもそも私は物欲に乏しいらしい。
だったら贈りたい相手に使えたほうが、お年玉としても本望だろう。
適切な価格帯の小物を見ながら、頭の中で我輩さまへと当てはめる。
といっても、冬らしい小物は限られている。
その中でふと目に入ったものは、ひとまず予算内に収まりそうでほっとした。
見て、触って、眺めて、撫でて。
時間をかけて吟味したものを見せてみると、茜先輩は微笑みながら頷いてくれた。
「いいんじゃないかしら? 黒峰、どんな顔をするかしらね」
お会計を済ませて包装してもらうと、どうしてか達成感が湧いてきた。
そしてそれと同時に、これでいいのかなという不安も。
考えてみれば、こういう行事で誰かに何かを贈るなんて初めてかもしれない。
我輩さまと出会ってから、私は感情が豊かになった……と、思う。
だから、今感じているたくさんの感情も、きっと体験すべきものなんだろう。
落ち着かない気持ちで言い聞かせていると、茜先輩は落ち着いた雰囲気のカフェへと入っていた。
お昼時なのに騒がしくない店内は、学園の食堂とは雲泥の差だ。
今年の級長は食堂の別室を使うことはほとんどなくて、二年前が少し懐かしくなってしまった。
「級長はどう? 補助役は緑原の関係者って聞いたけれど」
注文を済ませてくれた茜先輩は、すぐに運ばれてきた紅茶を手に取る。
温かい湯気と香りを楽しみながら、私も少しだけ口に含んだ。
「思っていたよりずっと大変ですが、咲ちゃんが助けてくれているので。
ただ、先輩方には到底追いつけません」
日常の業務はもちろん大変だけど、最近では文化祭が大仕事だった。
無属性の組に居る黒峰は、やっぱり無属性で。
事務作業ならいくらでも頑張れるけど、魔力を使ったものはどうにもできない。
級長の誓いは今年も行われ、私は佐々木さんと同じように魔力の放出機を付けることになった。
その時の我輩さまは、もう大変で……。
顧問の先生が必死になって説得してくれたけど、それがなかったらどうなっていたか分からない。
そんな騒動を経て行われたものなのに、二年前と比べると見劣りしてしまったのは不甲斐なかった。
「あの年は本家筋が異常なほどに揃っていたもの。それでも、やっぱりわたしも必死だったわ」
「茜先輩も、ですか?」
「本家に関わっているからこそ、要求以上の結果を出さなければならなかったから。
学園の中であっても、家のしがらみからは逃れられない。そういう特殊な年だったのね、きっと」
柔らかな湯気の向こうで、茜先輩はどんな表情を浮かべているんだろう。
そう思ったけど、カップをテーブルに戻した時には、茜先輩は穏やかな笑みを浮かべていた。
「だから黒峰と弥代ちゃんの騒動の後は大変だったわ。
教員は事態の秘匿とわたしたちへのお説教で大わらわ。
でもそのおかげで、級長同士の仲が深まった気がするの」
本家の関係では築けなかった関係が、学園の中で築かれた。
それを不幸中の幸いと言うべきか。
騒動の原因である私が、そう言ってはいけないんだろうけど。
「だからね、弥代ちゃん。わたしたちはみんな、あなたたちを応援しているわ。
学園でも親族関係でも、少しでも嫌なことがあったら遠慮なく言ってね?
全属性の本家筋相手にして、まともで居られる魔力持ちは居ないから」
にっこりと。それはそれはきれいに笑う茜先輩の顔は、同性である私から見ても魅力的だ。
だけど、ぞっとする感覚がするのも事実であって……。
そんなひんやりとした空気をかき消すように料理が運ばれ、たくさんの匂いに囲まれながらの食事が始まった。
学園とも黒峰家とも違う料理は、カフェご飯というものらしい。
パンケーキとやらはホットケーキと何が違うのかと考えながら食べていると、茜先輩が小さな笑い声をたてた。
「あの……作法、違いました?」
丁寧で品のある所作をする茜先輩にとって、私の作法は素人でしかないだろう。
そう思って聞いてみたけど、どうやらそういう笑いではなかったらしい。
茜先輩は小さく首を振ったあと、フォークを置いてカップを手に取った。
「弥代ちゃん、とっても珍しそうに食べるものだから。
黒峰ともそうやって過ごしているのかと思ったら、なんだかおかしくて……」
くすくすと笑ったままの茜先輩は、学園に居た時よりも表情が豊かに見える。
赤山家の次期当主との関係がそのきっかけなのだとしたら、長年の婚約期間の結果は意義のあるものなのかもしれない。
とはいえ、笑われっぱなしなのはどうなんだろう。
我輩さまの沽券というものもあるだろうから、それなりには否定しておかなきゃいけないはずだ。
「我輩さまは、ちゃんとしてますよ」
「それはそうでしょう。でも、きっと黒峰も今のわたしと同じ気持ちだと思うわ。
弥代ちゃんのこと、可愛くて可愛くてしょうがないでしょうね」
笑いながらの言葉は、茜先輩の行動と関係がないように思える。
だけどわざわざ指摘するものでもないから、謎のソースのかかったパンケーキを口に押し込んだ。
甘いのかしょっぱいのか、食べ慣れない料理はやっぱり首を傾げてしまう。
からかいにも聞こえる会話を続けながら食事を済ませると、デザートに小さなケーキが運ばれてきた。
新しい紅茶は果物の香りがして、さっきまでのものとはまた違った味わいをしている。
「それでは弥代ちゃん。せっかくだから恋バナをしましょう」
「恋バナ、ですか……?」
茜先輩の突然の提案は、高級感のある店内には見合わないものにも聞こえる。
だけど私たちは、年齢だけで言えばまだ未成年。
そういう話題を選んでも不相応ではないのかもしれない。
「学園では結局できなかったんだもの。
今は同じ次期当主を夫に持つ同士、これほど立場の合う相手は居ないはずよ」
「それは、そうですが……」
夫、と。
言われ慣れない言葉を聞くと、首のあたりがむずむずしてくる。
だけどそれは不快ではなくて、こそばゆいとでも言える感覚だった。
「プライベートの黒峰って、どういう感じ? やっぱり弥代ちゃんを溺愛してるのかしら」
「その、比較対象が、居ませんので……」
「世間と比較すると十分に溺愛しているわ」
当然のようにあっさりと言われ、握ったフォークがケーキの角を崩してしまう。
溺愛……溺愛?
我輩さまの言動は、確かに学園に居た頃よりもエスカレートしている。
だけど、根本にあるものはきっと変わらなくて、伝えられる言葉はいつだって、甘い。
「夏休みに行った時を考えれば、それはもう、大層愛されているんでしょうね」
若干の棘を感じる言葉に、その時のことを思い出す。
外出から帰ってきた我輩さまは、茜先輩が居るというのに客間に押しかけてきて、それで……。
そこまで思い至ってから、慌ててフォークをケーキに突き刺した。
「さぁ、教えてちょうだい? お互いのお休みが合った時、どうやって過ごすのかしら?」
口に運んだケーキは味がしなく、仕方なく、紅茶を一口飲んでから口を開くことにした。
「……当主のお部屋で話したり、我輩さまの自室で話したりしてます」
会えない時間を埋めるかのように、我輩さまは片時も私から離れようとしない。
一緒に居られるのは、嬉しい。だけど限度というものはあると思う。
「どうせ黒峰のことだから、憚りもせずあれこれ言うんでしょうね」
「あの……どうして、それを」
「あの男は遠回しなことなんてするタイプには思えないもの。
それで、どんな言葉を囁かれるのかしら? ぜひ聞きたいわ」
目をきらきらさせる茜先輩の顔は、なんだか学園で話していた頃に戻ったようにも見える。
期待の込められたような視線は一心に私を見ていて、誤魔化せそうにない。
だから、できるだけ端的に、可能な限りシンプルに答えることにした。
「その……いと、しい、とか」
「とか?」
「離したく、ない、とか……」
「とか?」
「……私は、我輩さまのものだから、とか」
「そこは昔から変わらないのね。弥代ちゃんのことだから、毎回反論しているんでしょうけど」
楽しそうに苦笑した茜先輩は、満足したようにケーキを一口運んだ。
頬の熱さを感じながら私も食べてみると、今度はしっかり味がしてくれた。
「あ、茜先輩のほうこそ……普段はどう過ごしているんですか?」
一足先に若奥様と呼ばれるようになった茜先輩は、一体どうしているんだろう?
そんな興味で聞いてみたことだけど、茜先輩は浮かべていた笑みをわずかに曇らせた。
「わたしは、白空に居た時とあまり変わらないわ。
本家の求める知識をつけて、本家に属する人と会う。
あとは、会合の立ち位置が白空から赤山に変わった程度だもの」
もう慣れているとでも言いたげな様子に、私は少し後ろめたさを感じてしまった。
まだ学園を卒業していない私は、その一部分ですら体験できていないだろうから。
どうしても断れない面会は受けるけど、それ以外は学生という立場により排除される。
だけど、あと数ヶ月もしたらそれもできなくなるはずだ。
そうなった時……私は、どこまでできるんだろう。
「焔さんには、大切にしていただいているわ。だから、わたしも頑張ろうって思えるの」
「茜先輩……」
夫のために頑張る。
そう言い切れるのは、茜先輩が赤山家の次期当主を、きちんと大切に思っているからなんだろう。
私もそういう意味も込めて、我輩さまを……大切にできて、いるのかな。
「黒峰の、妻の客人に喧嘩を売ることも、親族関係の諍いに巻き込まないことも。
子どもらしい、年相応の愛し方でしょうね」
含みのある言葉にフォークを置くと、茜先輩はふと眉を下げた。
私と違って本家の生まれで、私よりも先に本家に嫁いだ。
だから私が知らない事情もたくさん知っているはずで、だからこそ、こんな表情をするんだろう。
「本家に属せば、嫌なことはたくさんある。害そうという人も増えるでしょう。
そうだとしても、きっと黒峰は弥代ちゃんを守ってくれるはず。年相応ではなく、立場に見合った守り方で」
親族会議の時に垣間見えた、私の知らない世界で生きる我輩さま。
あれが立場に見合った姿と言うなら、私はそれに……守られるだけでは、いけないんだろう。
「もちろん、わたしも守るわ。だから……」
テーブルの上で、白くて細い指が縋るように組まれる。
その一箇所にある赤い色は、茜先輩の身を置く場所が変わったことを明確に表していた。
「居なくならないでね、弥代ちゃん」
白空家の次女。赤山家、次期当主の妻。
生まれながらに決まっていた立ち位置は、どんなに年月を経ても軽くなることはなかったんだろう。
そんな茜先輩の立場に、少しでも近付けたというなら……。
「……居なくなりませんよ」
赤い石のついた指輪ごと、細くて白い手を包む。
それはひどく冷たくて、とても頼りない。年相応の、女の子のような手。
初めて会った時とも、学園内で過ごした時とも、黒峰家で会った時とも違う。
いつも私を元気づけてくれた茜先輩を、今度は私が元気づけたいから。
「私の帰る場所は、我輩さまの隣ですから」
我輩さまの隣に居るということは、茜先輩と同じ立場で居るということ。
大変なことも、不安なことも、いっぱいあるだろう。
だけど、私も茜先輩みたいに、我輩さまのために頑張りたいんだ。
「……妬けちゃうわね、もう」
そう言って、茜先輩は頬を赤らめ、とても嬉しそうに笑った。
滑らかに走る車に乗り続け、目的地に着ついたのはもう夕方近くだった。
黒峰家の敷地の手前、山の麓にある喫茶店。
数ヶ月ぶりに来たお店は、ほんの少しだけ電飾を施しているようだ。
「送っていただいて、ありがとうございました。迎えに来ると言っていたので、我輩さまに会っていきますか?」
「いいわよ、年始の会合で会うんだから。それに聖夜を邪魔する気もないわ」
茜先輩は笑いながらそう言って、車から降りることはなかった。
コートと鞄と、小さな紙袋。
忘れ物がないように確認してから車を降りると、茜先輩は頑張ってと呟いて去っていった。
頑張って、か……。
手にした紙袋の存在感は、なんだか大きく感じられる。
これをどうやって渡すものかと考えながら、チリンと鈴の音を鳴らしながら扉を開いた。
「ご無沙汰しております」
「まあま、おかえりなさい、弥代子さん」
ぱたぱたと小走りにやってきたお婆さんに声をかけると、私の姿を見て満面の笑みを浮かべてくれた。
黒峰家に帰る時は、ここで馬車を呼んでもらうことになっている。
だからそうお願いしようとしたら、お婆さんは室内の奥のほうを指さした。
「坊ちゃんはもうお見えですよ。ただ、少し待ちくたびれてしまったようで」
声を小さくしながら案内された先には、椅子に座って壁にもたれる、我輩さまの姿があった。
喪服のような真っ黒なスーツとネクタイに、黒に近いグレーのシャツ。
いつもなら真っ黒な瞳と紫の虹彩が見えるはずだけど、閉じた目蓋と真っ黒な髪に隠されている。
そしてその身体には、なんとも可愛らしいブランケットが掛けられていた。
パッチワークはお婆さんのお手製だろうか。
カラフルな色合いは我輩さまが纏うには現実味がなさ過ぎて、思わず瞬きを繰り返してしまった。
「朝から待っていらしてね、ついさっき眠ってしまったのよ」
その言葉通り、テーブルの上には書きかけの紙や分厚い本、それに飲みかけのコーヒーが入ったカップがあった。
着いたら連絡するって、伝えておいたのに。
だけど、そこまでして待っていてくれたことは、少し嬉しい。
「今起こすのも可哀想なので……少し、海を見てきてもいいですか?」
「構わないけど、寒いわよ?」
「平気です。少しだけなので」
手にしたままの荷物はそのまま持って、裏口から砂浜へと脚を進める。
夏とは違う冷え切った砂は、足の裏から冷気を伝えてくるようだ。
繰り返される波音と、木々が揺らされる音。
近くから感じるものを頼りに地面を踏みしめると、辿り着いたのは真っ赤に染まった海だった。
夏の青とは違う。夜の黒とも違う。
なのに、眩しいくらいに夕日をはね返す水に手を入れれば、不思議といつもの透明だ。
触れれば変わらないと分かるのに、触れないから変わらないと気付けない。
だからきっと、触れないままではいけないんだろう。
海水の冷たさが染みこんだ手の平は、茜先輩の手の温度に似ている。
違う立場から同じ立場に。馴染んだ場所から初めての場所に。
これから変わり続けるであろう自分の立ち位置を考えると、胸のあたりが苦しくなる。
だけどそれは、必要なことで……。
「こんな所で何をしておる」
繰り返される音に割り込んできたのは、聞き馴染んだ声だった。
そして同時に、肩に温かいものが置かれる。
それはカラフルなパッチーワークで作られたブランケットで、自分のものではない体温が残っていた。
「我輩さま、起きたんですか?」
「お前の魔力を感じ取ったのだから、居眠りなどしていられぬ。
それより、身体を冷やしてしまうではないか」
そう言ってブランケットを巻き付けてくるけど、我輩さまはコートも羽織っていない。
見るからに軽装な様子を見て、思わず手にしていた紙袋を差し出した。
「我輩さま、あの、これ……」
そこまで言ってから、自分の身体に触れる空気の暖かさに気付く。
そうだ……我輩さまは、暑かったり寒かったりしたら、自分で調整できるんだ。
ということは、防寒具なんて必要ないということだ。
そう気付いてしまうと、上げていた腕がすとんと下に落ちた。
「どうかしたか?」
「えっと、その……」
訝しげに覗き込んでくる我輩さまの前から、紙袋をさっと後ろに隠す。
やっぱり、慣れないことなんてするものじゃない。
贈り物なんて高度な真似を、私ができるはずがなかったんだ。
今更ながらの後悔を感じていると、我輩さまは私の背中へと腕を回してきた。
「何を隠した」
「な、なんでもないです……!」
「何でもないわけがなかろう。お前がそういう反応を示す時は、何かしら事情があるはずだ」
鋭い指摘に息を詰まらせると、長い腕が私の手を掴んだ。
紙袋を持ったままの手に、我輩さまの温かい手が覆い被さる。
「こんなに冷え切っている。愛しい妻の指先を、温めさせてはくれぬのか?」
顔を目前まで近付けての言葉は、私が恥ずかしがるのを分かっているんだろう。
じりじりと近付く顔を前に、私は思わず手を前へと戻した。
つまり、隠していたものも見せてしまうということで。
包まれたままの手を見ながら、我輩さまの手の平に紙袋を押しつけた。
「これ……プレゼント、です」
「プレゼント……?」
てんで心当たりがないといった反応に、やっぱり我輩さまは聖夜を知らないのだと感じ取る。
黒峰家の屋敷では行事に関わるようなものは見かけなかったし、学園でもその気配はなかった。
知る機会のないままに育った我輩さまに、一体どう説明すればいいのか。
きちんと考えたいのに、混乱した頭では何も考えられず、取り留めもなく口から言葉が溢れていた。
「今日は、聖夜で……聖夜は、家族や、大切な人に、贈り物をする習慣があるみたいで……」
私だって詳しいわけじゃない。
思い浮かんだことをそのまま言っているだけで、こんなの説明になっていないだろう。
だけど我輩さまは私をじっと見つめたまま聞いてくれて、その視線に更に焦りを感じてしまう。
「我輩さまの、欲しいものとか、必要なものとか、分からなくて……。
だから、余計なものかもしれなくて」
言いながら、押しつけた手から力が抜けていく。
私、何を言っているんだろう……。きっと我輩さまも困っているはずだ。
そう思って見上げてみると、我輩さまは不思議そうな表情を浮かべながらゆっくりと口を開いた。
「お前から、我輩への贈り物だということか?」
「……はい」
端的な言葉に頷くと、我輩さまはかさりと音を立てて紙袋を抱えた。
これは、受け取ってもらえたということなのか。
ほんの少しだけほっとして、肩に掛かったブランケットを引き寄せた。
「そういえば、緑原が何やら騒いでおったな。聖夜という日は、恋人同士の日だと」
「私も詳しくはないんですが、そう、らしいです……」
「ならば、お前と我輩の日でもあるな」
あっさりと言い切った我輩さまは、私の肩にあったブランケットを砂浜に敷き、その上に座ってしまった。
これは一体どういうことか。
どうするべきかと考えていると、我輩さまは開いた脚の間をぽんと叩く。
「ここに座るのだ、弥代子」
「冷えるって言ってたじゃないですか」
「お前と我輩の周りの空気は暖めている。座らないのならば、我輩はここから動く気はないぞ」
どういう脅し文句だろう。
早速の我が儘発言に、ほんの少しだけ焦っていた気持ちが落ち着いたかもしれない。
だから言われるままに、ブランケットの上へと腰を下ろした。
「早く帰らないと、当主が待っているんじゃないですか?」
「屋敷に帰るとお前はいつも父上を優先するからな。
恋人同士の日だというならば、今日は我輩を優先しろ」
そう言うと、我輩さまは私のお腹に腕を回してきた。
それはそのまま力を込められ、背後からぎゅっと抱きかかえられる姿勢になってしまう。
砂浜に座って、後ろから抱き締められる。
なんだか懐かしいこの姿勢に、少し嬉しくなってしまうのはどうしてだろう。
我輩さまもそれを知ってか知らずか、私のうなじに頬を押しつけてきた。
「……して、これは開けてもよいものか?」
低く響く声の先は、あの紙袋だろう。
一瞬びくりと身体を震わせてしまうけど、あれは我輩さまのために買ったものだ。
だから、開けてもらうのが正しいはずなんだけど……。
「いい、ですけど……いらなかったら、すみません」
事前に予防線を張るのは私の悪い癖だ。
そうと分かっていても、今はそれに縋りたい。
だって我輩さま、わざわざ私のお腹の前で開けるんだから。
お店の人が丁寧に施してくれた包装を、長い指で少しずつ解いていく。
ちらりちらりと見え始める中身を見て、私は少しずつ身を強ばらせてしまった。
「……マフラー、か?」
最後に我輩さまの手に残ったものは、黒と灰色で織られたマフラー。
よく見ないと分からない程度に、うっすらと紫色も混じっている。
「わ、我輩さまは……学園で、いつもローブだったから。
首元冷やすの、慣れてないかなって、思って……」
そんな言い訳が出てしまうけど、我輩さまが卒業してもう二年も経っている。
だからそんなのありえないって分かっているのに、溢れる言葉は止まらない。
「我輩さま、きっとどの色でも似合うと思うんですけど、あんまり、他の家を意識しちゃいけないと思って……」
「我輩と、お前の色だな」
尻すぼみの言葉に被せるように、柔らかい声が響く。
それは私も思ったことで、だからこそこれを選んだ。
黒と、灰色。それに紫色の虹彩。
だけどそれに気付かれるのは恥ずかしくて、続けようとした言葉は喉で詰まってしまった。
「礼を言う。巻き方が分からぬ故、お前がやってくれないか?」
「普通に巻けばいいと思いますけど……」
そう反論してみても、我輩さまは意見を変える気はないらしい。
少しだけ緩んだ腕の中で身体を横に向け、我輩さまの首元へと手を伸ばす。
ふわふわとした布地は温かいけど、触れている我輩さまの身体のほうがずっと温かい。
「必要なかったら、使わなくていいですからね」
「お前からの贈り物を、使わないわけがなかろう」
すぐさま返ってきた言葉に、マフラーを持つ手に力が入る。
我輩さまはどうしてこう、率直にものを言うんだろうか。
そしてそれに対して、私はどうしていつも気持ちを乱されてしまうんだろう。
くるくると巻き付けたマフラーは、すっきりとした我輩さまの首元を覆い隠す。
それは防寒という意味では正しいけど、見慣れた素肌を見えなくしてしまった気がして少し寂しかった。
「ふむ……温かいな」
マフラーを付けたことに満足したのか、我輩さまは再び私を抱き寄せた。
柔らかな布が頬に触れて、その温かさに少しだけ顔を押しつける。
「聖夜とは、どういうものなのだ?」
ぽつりと呟かれたのは、漠然とした質問。
聞かれたとしても、私だって答えられることは少なかった。
「どうと言われましても……ただ、街並みは賑やかになりますよ。
イルミネーションがそこら中で光っているんです」
いろんな色の電飾が、至るところでちかちかしている。
そう説明すると、我輩さまはふむと頷いてから片手を空へと向けた。
「こういうことか?」
そう言って、我輩さまは小さな光を空へと打ち上げた。
それは学園の文化祭の夜で見た、花火のようなもの。
つい最近も見たはずのものなのに、我輩さまの手にかかるとその精度は段違いだった。
色とりどりの光が空を彩り、届く光が我輩さまの頬を染める。
「多分違うと思いますが……こっちのほうが、ずっときれいです」
ぱん、ぱんと。小さな音を立てる光は、始まりかけの夜空で鮮やかに弾ける。
そんな景色を見ていると、ふと……胸に浮かんだ考えを口に出していた。
「我輩さまと居ると……時々、不安になります」
それは、重たい立場だからというだけではない。
我輩さまの気持ちに、私がきちんと返せているのかが不安なんだ。
ひとのきもちは難しい。だけど、一端だけでも理解したい。
他の誰もない、我輩さまの気持ちを。
「ならば、その不安は我輩が取り除こう。どのような手を使っても」
そう言って、我輩さまは私の顔を自分のほうへと向けさせる。
たくさんの色の光に染まる顔は、真っ白なのに少し赤くて。
言葉と表情がちぐはぐで、そんな我輩さまが愛おしい。
「我輩がどれだけお前を求めているか、分かっておらぬようだからな」
そう言って、我輩さまは私の唇を奪う。
最初は遠慮しながら。そしてすぐに我が物顔で。
温かくて柔らかいのに、性急で強引。
そんなキスは、我輩さまが本当に私を求めているんだって言ってくれているみたいで……。
合間に少し離れた時、熱を持った唇でそっと聞いてみた。
「私の帰る場所は……ここで、いいですか?」
「他の何処へと帰るつもりだ? 我輩の隣以外に行くことは許さぬ」
拗ねたような言葉のあとに、もう一度唇を押し当てられる。
それはまるで所有印でも押しているかのようで、その独占欲が心地いい。
気付けば空はすっかり暗くなっていて、満天の星が降り注いでいた。
聖夜というのは今この時のことを言うのかもしれない。
そう思ってしまうくらいの景色に見とれていると、身体に回った腕に力が込められた。
「来年も、聖夜とやらを過ごそう」
「……はい」
「その前に、お前にも贈り物をせねばな」
「もう、もらってます」
「……どういうことだ?」
怪訝そうな声を上げる我輩さまの胸に顔を押しつけて、胸の鼓動に耳を澄ます。
速いだけではなくなったのは、いつからだろう?
安らぐ音を耳にしながら、小さくそっと、呟いてみた。
「今が、贈り物です」
大切な人と過ごせることが、一番の贈り物だから。
そんな言葉を胸に浮かべながら、飽きることなく二人で星を眺めた。