あれから一年
我輩さまと私、書籍発売から一年経った記念小話です。
少しずつ暖かくなってきた時期の夕方。相変わらず揺れのひどい馬車を降りて黒い大きな扉をくぐる。
黒峰本家。今、私が住んでいる場所だ。
魔導学園を卒業してから移り住んだこの家はまだ慣れないけど、きっと寮と同じようにいつかは慣れるだろう。
扉を入ってすぐに広がる大きな玄関は何度通っても無駄に思えてしまう。けど、代々続く黒峰本家の建物だから歴史があるに違いない。
黒色の装飾の目立つ玄関を素通りし、当主の書斎に挨拶に行くことにした。
広さの弊害というか、この屋敷ではわざわざ声をかけないと誰が居るか居ないかが分からない。
女中さんに言えば伝わるんだろうけど、私なんかがそうやって女中さんを使うのも違う気がする。
そもそも、広いとはいえ歩ける距離なんだから大して面倒でもない。そう思っている間に目的の部屋の前に着いていた。
「失礼します。ただいま戻りました」
ノックをしてから扉を開け、深く頭を下げて挨拶をする。当主は今日も真っ黒な部屋の中で座っていた。
本来こんな仕草なんてしたことがなかったのに、この屋敷で暮らし始めてから教えられたマナーの賜物だ。
人前に出ても恥ずかしくない程度の作法は心得ている……はず。
「ああ。茶会はどうだったか」
「何事もなく。赤山の若奥様も一緒でしたので」
当主は書斎で顔を合わせるといつも他人行儀な話し方をしてくる。もしかしたら、当主なりの使い分けなのかもしれない。
当主と嫁という立場ではなく……家族、として接する時はもう少し柔らかい口調をしてくるから。
それは奥様も一緒で、夫婦揃って公私を分けているのかもしれない。
報告を済ませるとすぐに退室し、再び離れた部屋へと脚を進める。
途中何人かすれ違った女中さんにお辞儀をされるけど、それについてはやっぱり慣れない。
うっかり私も頭を下げてしまって時たま注意されてしまうくらいだ。若奥様なのだから、と……。
魔導学園を卒業してから約一年。それはつまり、黒峰家の嫁として過ごして一年ということだ。
覚えることは多く、礼儀作法はもちろん、始祖の家々が代々守ってきた歴史、そして一番苦手な人付き合いまで。
学院の寮に入っている我輩さまからは無理に覚えることはないと言われているけど、その言葉通りに過ごすことはできない。
私は黒峰家の嫁であり……我輩さまの、妻なんだから。
我輩さまの不利益になるような存在にはなりたくない。だから無理にでも覚えていきたい。
慣れた廊下を歩いてたどり着いたのは、飴色をした木の扉。黒色ばかりのこの屋敷ではひどく目立っているように見える。
ノックなんてせずに軋み一つしない扉を押し開け、屋敷は古いながらも手入れが行き届いているのだと実感する。
先程伺った当主の書斎より広いこの部屋は……我輩さまと、私の部屋になっている。
卒業と同時に強制的に移動させられたこの部屋は、黒峰家の屋敷だとは思えないほどに普通の部屋だ。
我輩さまが子供のころに過ごした部屋によく似ている。
木目の家具は明るい茶色で、カーテンと寝具は眩しいくらいに真っ白で、日差しの差し込む窓からは海が見える。
気付けばもう夕方が近いらしい。気だるい腕を持ち上げて髪飾りを取り外すと少し頭が軽くなったような気がする。
黒いレースのたっぷり付いた髪飾りは外出には欠かせない。私の目元をすっぽり隠すのは、私なりの配慮だ。
だけどそれを失礼だと言い張る人も居るから、それが正しいのかは分からない。
今日もそう……あれはどこの奥様と言ったっけ……。
それぞれの本家に属する女性を集めたお茶会は、想像以上に人が多くて名前と顔がなかなか一致しなかった。
化粧台の引き出しに髪飾りをしまい込みながら思い出そうとしたものの、茜先輩が満面の笑みで威嚇していたことしか思い出せない。
こういうところがまだまだなんだと思い知ってしまい、重たい身体をベッドの上へと投げ出していた。
少しだけ、横になってもいいだろう。ふかふかなベッドに身体を沈め、左手に光る指輪を眺めた。
「……若奥様、か」
最後に我輩さまと会ったのは何週間前だったか。
普段は休みの日にはできる限り帰ってきてくれるけど、最近は進級の都合もあってか難しいらしい。
もう少しで春休みだと言っていたけど、あと何日だろう……?
そう思ってカレンダーを見てみると、ふと今日の日付に目が行った。今日……今日は、確か……。
「卒業式だ……」
毎年同じ日に行われる、魔導学園の卒業式。
たった一年前のことなのに、もうずいぶん昔のことのように感じてしまう。
思い出してみれば、本当にいろいろなことがあった。
始まりはぷーさんの毛皮を見つけたこと。それからすぐに我輩さまの補助役になって、いろいろなことを経験した。
大変なことも、辛いことも、苦しいこともいっぱいあった。けどそれ以上に、大事な人たちに巡り会えたんだから。
大事な学園生活の、大事な卒業式。その時の話題になるとからかわれてしまうけど、恥ずかしくても嬉しい思い出だ。
学園生活を思い出すとなんだか気持ちがほっとしてきた。思っていた以上に、お茶会では気を張っていたのかもしれない。
緩んだ気持ちは身体の疲れを自覚させ、意識が柔らかく濁っていく。
少しだけ……ほんのちょっとだけ。そう思って、そっと目蓋を閉じた。
温かな感触はなんだろう?
その疑問が頭に浮かび、眠りに落ちていた意識はゆっくりと覚めていく。
温かくて、柔らかくて、少し苦しい。そんな感触につられて目蓋を開けると、そこには居るはずのない姿があった。
「我輩さま……?」
「む、起きたか」
ベッドに横になっていたはずの私の顔の前に、我輩さまのきれいな顔がある。
おかしい。だって確か春休みはもう少し先で、今日はお休みの日でもなくて……。
夢かと思って目の前の顔に手を伸ばすと、すべすべと柔らかい肌に触れた。
「寝ぼけておるのか? まぁよい。好きなだけ触るがよい」
頬に触れた手の上から、大きな手の平が包み込んできた。
それはいつも触れている手の平で、私の手をすっぽりと覆ってしまう。
我輩さまはやっぱり、体温が高い。私の身体に絡みついている腕からも、温かい温度が伝わって……。
「あの……何、してるんですか?」
そう、絡みついている。
外から帰ってきてそのままなのか、我輩さまは真っ黒なスーツのままベッドに横たわり、私の身体をぎゅうっと抱きしめていた。
さっき感じた温かさと苦しさの原因はこれか。我輩さまの頬から手を離すと、上から覆っていた手が指の間に絡んでくる。
指を絡めた繋ぎ方は不思議と心地よくて、小さく息が漏れた。
「お休み、まだでしたよね?」
「うむ。本来であればあと数日あるのだが、戻ってきた」
「学業を疎かにするのはどうかと思います」
「疎かになどしておらぬ。成すべきことは成してきたからな」
そういう問題なんだろうか。学院での様子はよく分からないけど、生徒が勝手に休みを早めるのは違う気がする。
寮生の我輩さまとは学園から卒業すればいつでも会えるんだと思っていたけど、実際のところそうではなかった。
学園のように隔離されているわけではないし、親族であれば申請さえすれば会いに行くことは可能だ。
だけどそれがあまりできていないのは私の方に原因がある。
黒峰家の新米として、なかなか個人的な時間が取れないのが理由だった。
だから我輩さまは週末に帰ってきて、週明けの早朝に戻っていくという生活を送っている。
最近はそれもなかったから、我輩さまに会うのは久しぶりな気がする。
「……おかえりなさい」
「うむ、ただいま」
気になることは多いけど、まずは挨拶からだ。
寮生活ではなかなか言えなかったこの言葉は、ここに来てから何度も伝えられている。
私がおかえりなさいと言うと、我輩さまはいつも穏やかにただいまと言ってくれて、それがとても嬉しいのは内緒にしている。
今日も間近にある顔が綻んで、外では絶対に見せない優しい表情をしていた。
「して……お前がよく眠るのは何時も通りであるが、今日はどうやら違うようだな。何事かあったか」
「いえ、お茶会に行ってきただけなのでいつも通りです」
「あぁ……あの七面倒臭い集まりか。何故あんなにも無駄なことをするのか理解できぬ」
「無駄じゃないですよ。いろいろな人と知り合えますし、茜先輩にも会えるので」
「白空め……」
どうやら余計なことを言ってしまったらしい。
我輩さまと茜先輩は相変わらず犬猿の仲で、家の用事で私と会うことすら認めたくないらしい。
とは言っても、本当に仲が悪いというわけじゃないんだから気にしないことにしている。
「全く、お前はどうしてそうも人を寄せ付けてしまうのだろうな。茶会などに行ってそういう輩が増えたらどうしてくれる。
いっそ常に我輩の手の届く場所に置いておくことにしようか……」
「やめてください。それにそういったことはないから大丈夫です」
「しかしだな……」
今日のお茶会の感じから、そういったことにはなりえないだろう。
邪険にされない程度に交友を深められればそれで十分だ。
こういう後ろ向きな部分は改善すべき点なのかもしれないけど。
「それよりも、どうして休み前に戻ってきたんですか? 何かありましたっけ」
「夫が妻に会いに来てはならぬと言うのか?」
そういう意味じゃない。ただ、何もないのに学院を休んでしまうのはどうかと思っただけだ。
それほどの行動を取る理由が思い浮かばない。
我輩さまは学院に入っていると知られているから、黒峰家としての用事はまだないはずだ。
あと数日もすれば数え切れないほどの面会希望が来ているけど。
「そんなに気になるのならば、今日の我輩の記憶を覗いてみるがいい」
絡めたままの手を引かれ、視線をぴたりと合わせられた。
真っ白な肌の中に浮かぶ紫の虹彩を持つ黒い瞳は、沈みかけの夕日を映して複雑な色合いになっている。
黒くて、赤くて、紫で。その瞳の奥を覗き込めば、その記憶の中に入り込める。
「……嫌です」
「何故だ。もう操作は出来るのだろう?」
「それでも、嫌なんです」
人の記憶を覗くのは、その人の知られたくないことまで覗いてしまうことだから。
……いや、それは言い訳なのかもしれない。
我輩さまの記憶の中にいる私が、どのような姿をしているのか。我輩さまの本心は、私をどう思っているのか。
意図せずそれが見えてしまったら。それが我輩さまの言動と食い違っていたら。本人さえ気付かない気持ちに私だけが気付いてしまったら。
そんなことを考えてしまって……とても、怖いから。
だから私は、我輩さまの記憶を覗くのが誰よりも怖い。
「ふむ……お前に見られて困る記憶などないと言っているのだがな。むしろどれだけお前を愛しいと思っているのかを理解させたいほどだ」
愛しいと、口にしてくれる我輩さま。
それだけで十分じゃないか。それ以上なんて必要ないじゃないか。
そう思っているのに、我輩さまは納得してくれないらしい。
「弥代子。我輩の記憶を見よ」
「でも……」
「心配することはない。我輩はお前が思っているよりも、お前を愛しているのだからな」
そう言って我輩さまは、私の唇にキスをした。
ひんやりとした体温の柔らかい唇は、ほんの少し触れただけで私の気持ちを奪っていく。
もしかしたら我輩さまは、私の考えが分かっているんだろうか。そうじゃなきゃ、こんな言葉は言えない気がする。
そうやって我輩さまが私のことを考えて言ってくれているのなら……拒絶するのは、違うのかもしれない。
「……本当に、嫌じゃないんですか」
「嫌などと思うはずがない」
「間違って、知られたくないことを覗いてしまうかもしれませんよ」
「元よりそんなものはないが、そうだな……」
絡んでいた指が解けたと思ったら我輩さまの姿はそのままに、背後の風景がくるりと回る。
気付けば見えるのは天井で、その前にある我輩さまの口元が優雅に弧を描いていた。
「我輩の思いの深さを知ったら、お前は逃げてしまうかもしれぬな」
ベッドに放られた私の両手に、我輩さまの指が絡みついた。決して逃さないとでも言うかのように、強く。
真っ直ぐに見下ろしてくる瞳はやっぱりきれいで、吸い込まれてしまいそうだ。
そんな目で見られたら、逃げられるはずなんかないのに。
私の心配とは逆方向な答えに、なんだか少し笑えてきた。
「何が可笑しい?」
「いえ……我輩さまは、本当に私を」
愛してくれているんだな、と。そう口にするのは勇気がいるから、そっと意識を我輩さまの中に紛れ込ませた。
一瞬広がる無の空間。様々な色と形が入り乱れる世界。
ここはあの……無透の血筋のみが入り込める世界なのだという。
それはすぐに薄れていき、私が知らない我輩さまの記憶の中へと沈み込んでいく。
記憶の表層、直近の部分。あまり奥には目を向けてはいけない。
新しいからか鮮明に見えたのは、学院のとある場所でのことだった。
私も見知った学院生と話す我輩さまは、前に言っていた通りに学業に勤しんでいるらしい。
やらなきゃいけないことが多すぎるのか、なんだか不機嫌そうだ。
そんな中、青の級長の補助役……清水さんが我輩さまに声をかけた。
「黒峰様は、記念日というものを覚えていらっしゃいますか」
そんな質問に対し、我輩さまはすべての出来事を覚えていると答えた。
それに付随して出てくる言葉は、なんというかとても……聞いていて恥ずかしくなってしまう。
周りもそれは同じのようで、ひやかしなのか呆れなのか、いくつかの声がかけられる。
女性は記念日を大事にするものだ。そう言われた我輩さまはすぐさま立ち上がり、いつになく素早い動きで寮へと向かっていた。
その頭の中に浮かんでいるのは……多分、嬉しい、だろうか。
僅かに混じる焦燥につられてか、少し荒い手付きで自室の扉を入ってカレンダーに目を向けた。
そして今日の日付を見つけて思ったのは……。
「理由が分かったか?」
耳に響いた声に意識を戻し、覗き込んでいた記憶を視界からかき消した。
さっきと同じ距離に居た我輩さまは、私の顔をじっと覗き込んでいた。
記憶を覗いている時の自分なんて分からないけど、そんなに見つめられていたと思うとなんだかこそばゆくなってくる。
「卒業式、ですか……?」
「うむ。正確には卒業式があった日の全て、だがな」
卒業式を終えて、二人で校舎を歩いて……黒の級長室で、我輩さまと私が気持ちを伝えあった日のことを繰り返した。
寂しくて、嬉しくて。私にとって、とても大事な思い出だ。
「あの日ようやく、お前の指にこれをはめることが出来たのだ。記念日と言うならば、やはりこの日であろう」
左手の薬指に光る、我輩さまとお揃いの銀色の金属。
そこには色なんてのっていなくて、黒色でも灰色でもなくて。
血筋なんて関係ないと主張しているような、そんな指輪だ。
「あの日、真に夫婦になったと感じたのだ。故に、今日この日にお前と過ごしたいと思った」
あれから、一年。もう一年なのか、まだ一年なのか。
どちらかは分からないけど、今思うことはただただ、嬉しいという気持ちだけだ。
あの日のことをそんなに大切に思ってくれたのかと思うと、絡んだ指に力が入る。
「私も……今日、我輩さまと過ごせたら……嬉しいです」
「今日という日はまだ長い。存分に共に過ごそうではないか」
手を引かれて身体を起こすと、そのまま我輩さまの胸に顔を埋めた。
久しぶりに感じる体温が嬉しくて、右手だけを解いて我輩さまの背中へ回す。
強く響く鼓動に耳を向けていると、我輩さまは私を強く抱き寄せ、反対側の耳元に口を寄せてきた。
「お前とようやく繋がれた日だ。今宵はどのような日になるのだろうな?」
「……っ、わ、我輩さま……っ!?」
ふっと息を吹きかけられて、驚いて顔を上げた途端に顎に手を添えられた。
ここまできたら次は分かってる。恥ずかしくて目を閉じ、触れてくるであろう唇を待つことにした。
だけどいつまで経ってもその感触はなく、不思議に思って目を開けるとすぐ間近に我輩さまの顔があった。
「あの……?」
「口付けを待つお前の顔は、ひどく愛らしいものだな。いつまでも見ていられる」
「み、見ないでください!」
思わず顔を背けると、窓から差し込む光がほとんどなくなっていた。
いつの間にかずいぶんと時間が経っていたらしい。時計を見ればもうすぐ夕食の時間だ。
「我輩さま、こんなことしてないでご飯に行きましょう」
「こんなこと、ではない。夫婦において大事なことだ」
「今しなくてもいいことです」
からかわれたのが恥ずかしくて、我輩さまの腕を抜け出してベッドから降りる。
ワンピースのまま眠ってしまったから少し皺になってしまっているけど、少し叩いておけばいいか。
元の素材が良いせいか、あまり気を使えない私でも問題なく着れている。
「待て」
扉を開けようと手をかけたものの、ノブががっちりと固まっているかのように動かない。
手元には薄墨色の魔力が渦巻いているから我輩さまの仕業だろう。
「我輩さま、こんなことしてないで行きますよ」
「行くのは構わぬ。しかし弥代子よ、こちらに来るのだ」
ここで何を言っても扉は開かないから、言われた通り我輩さまの前に立つ。
一緒に横になっていたはずなのに我輩さまのスーツには皺一つついていなかった。
うっすらと魔力が見えるから、無意識に保護でもしているんだろう。
無属性の私にはできないことに少し羨ましくなってくる。
そんなことを思っていると、我輩さまはなぜか少しかがんで私を抱き寄せ……。
「ちょ……っと、何するんですかっ?」
「共に食事に行こうとしているだけだが?」
こともあろうに我輩さまは、片腕で私を抱きかかえたまま立ち上がってしまった。
まるで小さな子供にするような抱え方は不安定で、思わず我輩さまの肩に縋り付く。
太腿の裏に添えられた腕だけで支えられるなんて、大の大人がされる抱え方じゃない。
いつもより高い目線と浮いたままの脚は落ち着かなく、下ろしてほしいけど落ちそうで動けない。
なのに我輩さまは慌てる私を楽しそうに見つめきて、多分下ろしてくれる気配がない。
「なんてことするんですか……」
「愛しき妻と片時も離れたくないだけだ」
「こんなことする必要ないじゃないですか」
「しない必要もないな」
片手で私を抱え、もう片方はまたしても指に絡む。間近にある顔は少し赤くて、響く鼓動は速い。
こんなことができる筋力なんてないだろうから、わざわざ肉体強化までして。本当に、この人は……。
「筋肉痛で動けなくなっても、知らないですからね」
「我輩がいつまでも軟弱なままでいると思ったか?」
自信有り気な声だけど、触れてみた感じは前と変わらない。
軟弱とまでは言わないけど、筋骨隆々とは絶対に言えないはずだ。
でも、ここまで言うということは何か対策をしているんだろうか。
「筋肉痛など二日で治るようになったわ」
「なるにはなるんですね」
ほんの少し期待してしまったけど、これはこれで我輩さまらしい。
休み中に少し運動でもさせたほうがいいんだろうか。そうなるときっと私も一緒にやることになるだろう。
まずはウォーキングから始めよう。
「回復は早くなったのだからよかろう。それに数日は屋敷から出る気はない。問題はなかろう」
「こんなに広いんですから、問題ありだと思いますよ」
「ならば部屋からも出ぬ。無論、お前もな」
「嫌です。明日は奥様とお話をする約束をしていますので」
「夫の願いを断るというのか?」
「断りはしませんが部屋に閉じこもるのは無理です」
抱きかかえられながらの会話は続き、すれ違う女中さんは何事かと視線を向けてくる。
けれどそれが我輩さまがしていることだと確認すると、温かい視線に変わるのはどうしてか。
誰か一人でも注意する人が居てほしかったけど、食事をする部屋にたどり着くまでに誰も声をかけてはくれなかった。
「このまま入るのはお行儀が悪いですから、下ろしてください」
「我輩の膝の上で食事を取ればよかろう」
「子供じゃないんですから……」
小さな子供が親にされるようなことを提案され、呆れてため息が出てしまう。
そもそも今の抱え方からして不満が大きい。
我輩さまには何度か運んでもらっているけど、引きずられたりおんぶされたりと、荷物や子供のような運ばれ方ばかりな気がする。
別に何かを求めているわけじゃないけど、ほんの少しだけ虚しい気分だ。
「子供であるはずがなかろう。お前は我輩の、妻なのだからな」
そっと地面に脚を降ろされ、抱きついていた腕を解く。
絡んだ指を口元に引かれると、手の甲に唇を押し付けられた。
「さて……食事を済ませたらすぐに戻るぞ。異論は許さぬ」
返事をする間もなく手を引かれ、開いた扉の中へと入る。
どうしてこう……こんなタイミングでこんなことをするのか。
赤くなってしまったであろう顔を隠すように、我輩さまの背中に頭を押し付けた。
「異論なんて、ないです」
好きな人と一緒にいられるんだから嫌なはずがない。
残り少ない今日は、一体どんな一日になってしまうんだろう。
だけど今日は、記念日だから……。どんな一日でも、きっと大事な思い出になるに違いない。




