ぷー脱走事件
書籍発売記念話・その2
発売日まであと3日!
学園祭まであと三日。
朝から夜まで級長室で作業をするのも、あと数日と思えば頑張れる。
私は今、実行委員へ資料を届けた帰りで、人気のない廊下を一人で歩いている。
一般の生徒は講堂で集会をしているはずだ。入退場とか席順とか、そういったもののリハーサルらしい。
級長や補助役、それに実行委員はその必要がないから免除されている。
がらんとした校舎の廊下は、当たり前ながらしんと静まり返っている。
おかげで道順も何も考えず、最短距離で移動ができるのは嬉しいことだ。
廊下の窓が開いていて、涼しい風が吹き込んできた。
少し冷たいものの、級長室にこもりきりだった身体には気持ちがいい。
と、視界の端に何かが映った。何かというのもおこがましい、見慣れたもの。
真っ黒な毛をくたりとさせて、紫色の雷がパリパリしている。
ぷーさんの、毛皮だ。
とっさに掴み上げて周りを見ると、幸いなことに誰も居なかった。
ぷーさんは、今日も級長室の奥の小部屋に居たはずだ。私が出ていく前に姿を見ている。
ということは、私が出ていってからぷーさんも……?
考えるよりもまず、確認をするべきだ。黒い毛皮を抱えて、誰も居ない廊下を走った。
「我輩さまっ!」
「む……どうした小娘。そんなに急ぐことがあったか?」
「ぷーさん、居ますかっ?」
「ぷーがどうし……」
我輩さまが、私の手元に気付いたんだろう。一瞬目を瞠り、小部屋へ続く扉を乱暴に開け放った。
「ぷー! どこに居る!?」
狭い室内を見回すも、灰桃色の姿は見当たらない。
ふわふわ揺れるカーテンの奥を見てみると、閉めておいたはずの窓が少し開いていた。
「探してきます」
「我輩も行く。手分けして探すのだ」
重たい扉から飛び出して、我輩さまと反対方向へ向かった。
誰も居ないから手当たり次第に扉を開けていくも、ぷーさんの姿はない。
下駄箱前を通りがかると、ローブのフードを外した我輩さまが肩で息をしていた。
「居たか……?」
「いえ、行ける場所は全部回ったんですが……」
「こちらも、そうだ。あとはどこが残っているのか……」
壁に貼られた校内地図を見つめても、それらしい場所は思い当たらない。
お互い息を整えていると、ふと今更なことを思い出した。
「我輩さま、ぷーさんと魔力でつながってるんですから、場所は分かるんじゃないですか?」
「おおよその位置は掴めるのだが、さっきからふらふらと動いているのだ。今は……そうだな、屋外を探す」
一カ所に留まっていないなら、確かに追うことはできないだろう。
ぷーさんが移動を始める前にと、我輩さまと一緒に校舎沿いを走って回った。
壁と樹木の間を進み、そろそろ一回りしてしまうんじゃないかと思った時。角を曲がると突然、視界が開けた。
そこは少し広く作られた空き地のようで、壁にはどの階にも窓が見当たらない。
校舎からは見えないから、気付かなかったんだろう。
そんな場所に、壁と樹木の間から覗く青空と、地面に一面の桃色が広がっていた。
「コスモス……ですか?」
「そのようだが……」
我輩さまはキョロキョロと辺りを見回して、一点で止まった。コスモス畑の、中心。
咲き乱れた花に埋まるように、灰桃色が乗っていた。
時折吹く風にゆらゆら揺れながらも、眠っているようだ。
桃色の中に居るから、遠目からだとしっかり見ないと分からないだろう。
「彼奴め……」
「見つかってよかったです。ここならきっと、誰かに見られてはないでしょうし」
周りを確認してみると、来た道以外に入り込めそうな場所はない。
校舎からも見えないなら、安全だろう。
「まったく……人騒がせな」
我輩さまはローブを脱ぐと、ぽつんと置かれた古ぼけたベンチにどかりと座り込む。
走り回ったからさすがに暑いらしい。汗で貼り付いた前髪がちょっと邪魔そうだ。
「小娘よ、こちらに座れ」
隣を指さされ、私も少しくたびれたから腰を下ろした。
久々に見る昼間の青空が、こもりきりだった目に眩しい。
それは我輩さまも同じなのか、目を細めている。
「このように空を見上げるのは、久しぶりだな」
「そう、ですね……」
一番近いのは多分、我輩さまと海で見た時だろう。
波と、風と、空と……。そういえば、あの時からか。我輩さまが私を……抱き締めるようになったのは。
今は清水さんのおかげでなくなったけど。
「……手を出すのだ」
空を見上げたまま、我輩さまがこっちに手を差し出してくる。
いつものように手を乗せると、指を絡めて緩く握られた。
「さすがに、疲れた」
「ずっと働きっぱなしですもんね」
「うむ。故に……しばし休んでもよかろう?」
ベンチに寄りかかる我輩さまは、かなりお疲れの様子だ。私が疲れているんだから、我輩さまはそれ以上のはずだし。
「じゃあ、ぷーさんが起きるまでなら」
残った作業と日数を考えると、そうゆっくりはしていられない。
だけどここで無理をするよりは、この心地いい場所で休憩を入れるのもいいような気がしてきた。
秋の高い空と、暖かい日差しと、一面の桃色と。そんな中でなら、気分も晴れるだろう。
二人で並んで、何を言うでもなく景色を眺める。ぷーさんはまだゆらゆら眠っているから、もう少し時間はありそうだ。
そう思っていたら、肩に重みが乗ってきた。
「我輩、さま……?」
隣で座っていたはずの我輩さまの頭が、私の肩に寄りかかってきた。
力の抜けきった表情で、小さく規則正しい呼吸をしている。眠ってしまった……んだろうか。
我輩さまは結構真面目な人で、文句を言いつつも仕事は完璧にこなす。
その疲れが、限界を迎えてしまったのかもしれない。
ちょっと重たいけど、しばらくこのままにしておいてあげよう。
風に揺れる我輩さまの黒い髪が、目元に影を落とす。
邪魔じゃないんだろうか。そっと払ってみると、きちんと閉じた目蓋が現れた。
本当に、綺麗な人だ。
じっと眺めていると、ほんの少し身じろぎをした。起きるのかと思ったら、頭の据わりが悪かったらしい。
ちょっと首を動かして、再び寝息が続いた。
「ぷ……?」
コスモス畑の中に居るぷーさんが、目を覚ましたらしい。
キョロキョロと周りを見て、私に気付いてぷかりと浮かんだ。
「ぷーっ!」
声をあげながらこちらに向かってくるから、我輩さまも目が覚めるかもしれない。
けど……
「ぷーさん、しー」
空いている手の人差し指を、唇の前で立てる。意味は通じるだろうか?
「ぷ……! ぷー」
小さな声で返ってきたから、分かってくれたらしい。
ぷかぷかとこちらに辿り着いたぷーさんをそっと撫でる。
「我輩さま、疲れてるみたいなので……もう少しこうしてましょう」
「ぷ」
ひそひそと言うと、ぷーさんも小さく頷く。
するとふわりと浮かび、脱いであった我輩さまのローブをくわえてきた。
晴れた昼間とはいえ、風は少し冷たい。汗をかいた身体では冷えてしまうかもしれない。
「ありがとうございます、そっちを持ってくれますか?」
大きな真っ黒なローブをそっと被せても、我輩さまが目を覚ます気配はない。
私も少し、休憩しよう。
膝の上に納まったぷーさんを撫でながら、空をぼんやり眺める。
ここ最近、こんなにのんびりした日はなかったと思う。
ずっと忙しない空気だったから、ぷーさんも息抜きをしたかったのかもしれない。
いや、もしかしたら……ぷーさんなりに、こういった場を作ろうとしたのかもしれないか。
「ぷ?」
見上げてくる目だけでは、そこまで分からない。けど、そう思っておくのも悪くないだろう。
指で毛並みを辿ってみると、じゃれつくように身体を揺らす。
その間も肩にかかる重みは変わらず、静かな寝息だけが伝わってくる。
黒の級長として、黒峰の次期当主として。
公私の境なんて存在しない、常にそれらしくあろうとする我輩さま。
たまには、こういう時くらいは……気持ちを緩めても、いいんじゃないか。
「……いつも、お疲れさまです」
少しずり落ちたローブを首元までかけると、つないだ手に少し力が入った気がする。
だけど起きる気配はないから、このままにしておこう。
肩と手の平から伝わる温かさを感じながら、風に揺れるコスモスを眺めることにした。