9-1.我輩さまと私
「――――魔力指導学園の更なる御発展をお祈り申し上げ、答辞とさせていただきます」
講堂の壇上で、薄暗い客席へ向けて声を向ける。
マイクを通した自分の声は、どこか他人のように感じられて、現実味が薄い。
ただ、私が発した言葉どおりに響いているのだから、他人ではないのだろう。
「卒業生代表、黒峰弥代子」
手元の紙を折りたたみ、一歩下がって礼。
拍手の中舞台袖に戻ると、後輩が待っていてくれた。
草薙咲ちゃん。私の補助役。
学園の卒業式では代々、級長の中から一人が答辞を読むことになっているらしい。
対になる送辞は、その補助役。
私の学年の級長は本家とのつながりがほとんど無く、唯一その名を名乗っている私に白羽の矢が立ったらしい。
それに付き合わせてしまった咲ちゃんには、少し申し訳ない。
「お疲れ様です、弥代子先輩。とても素晴らしいお言葉でした」
緑色のローブを羽織った後輩に言われ、なんとも複雑な気分だ。
無属性なのに黒峰で、無属性なのに緑の組の子と居る。
あべこべでちぐはぐな状況は、一年経っても慣れきることはなかった。
「弥代子先輩は、この後どうされますか?」
「予定通り教室に戻ってから中庭へ行くよ」
「では、落ち着いた頃に伺いますね」
中庭……正直、出来ることならあまり行きたくない。
クラスメイトとか、後輩とか、会いたい人は多いし話したいとも思う。
ただ、卒業式の中庭、というのは私に対して一つのイメージにつながるらしい。
『黒峰の愛妻』
結局卒業まで消えなかった名称は、今日は尚のこと目立つだろう。
我輩さまは絶対に行くってきかなかったけど、こっそり来てはくれないものか。
……いや、我輩さまの存在感じゃこっそりなんて不可能だ。
二年前のようなことを、しなければいいんだけど……。
クラスメイトと一緒に中庭へ行くと、毎年同じように属性ごとに分かれていた。
灰色の集団のほうへ向かうと、下の学年の人たちが一斉に取り囲んでくる。
口々にお祝いの言葉を言われ、それに答えるので手一杯だ。
他の級長も同じようで、やっぱり二つ上の級長さんたちは別格だったんだなと思い知る。
後輩との話が落ち着き、ようやくクラスメイトと話せるようになった。
「さすがだね、級長!」
「もってもてー」
完全な冷やかしを受け流し、連絡先の交換を始める。
学園から支給されている携帯端末は、返却しなきゃいけない。
私はまだ個人の物を持っていないから、生徒手帳のメモ帳にひたすら番号やアドレスを書き写すことになった。
二台持ち歩くのは面倒だから卒業してからでいいと言ったのは、失敗だったか。
今更言ったところで意味は無いから、我慢して手を動かす。
「それにしても卒業かぁ……みんな進路決まってよかったよね」
「弥代子なんて未来の当主夫人だもん、すっごいわぁ」
「なんたって、あ・い・さ・い、だもんねっ!」
「それは言わないで欲しいんだけど……」
この一年、我輩さまはことあるごとに学園に会いに来た。
そうすればもちろん、普段一緒に居るクラスメイトとも遭遇するわけで……。
ことごとく攫われる様子をずっと目にしていれば、こんな発言が出るのも仕方が無いのかもしれない。
納得は出来ないけど。
「またみんなで集まろうね。今度は寮じゃなくて、外でさ」
学園の敷地内でしか顔を合わせていないクラスメイトと、敷地外で会う。
それはきっととても新鮮で、楽しいものだろう。
「端末買ったら、すぐ連絡する」
誤字脱字は許されない。しっかり見直して間違いが無いことを確認して、ようやく顔を上げた。
するとふと、遠くからざわめきが聞こえた。
一瞬声が上がり、すぐに静かになる。それの繰り返し。
見なくても分かる、意識しなくても感じ取れる。薄墨色が、近付いてくる。
周りに居たクラスメイトも気付いたのか、女子は一歩下がり、男子は一斉に飛びのいていった。
何度も遭遇すれば慣れるかと思いきや、そんなことは全く無かった。
むしろ男子は無駄に威嚇されたようで、我輩さまが居る時は一切近付いてこなくなった。
本当に……過保護というか、なんというか。
気配が間近に迫ったところで振り返ると、予想通り……我輩さまが居た。
「弥代子」
いつもと似たスーツ姿なのに、今日はどこか違うように見える。
なんだろう……普段より黒が、目立つような……。
嬉しそうな顔と、黒に映る紫色の虹彩が綺麗な瞳を見ていると……我輩さまの動きに注視できなかった。
手を伸ばして、私の手を取って、そのまま引っ張って。
案の定、私はすぐに我輩さまの腕の中に居た。
ああ、シャツの色か。
普段は黒に近い灰色なのに、今日は私のローブと同じ色だ。
灰色。無属性の組の色。
その色が黒に包まれてる。
「卒業、おめでとう」
定型句のような言葉だけど、我輩さまに言われるというだけで聞こえかたすら違う気がする。
本当に、心から喜んでるような、祝福してるような、そんな言葉。
……なんて思ってたら、強く抱きしめたまま顔を上に向かされた。
「だ、駄目ですっ……!」
これはいつもの……キスをする姿勢だ。
ここをどこだと思ってるんだ。衆人環視の只中だ。
二年前は状況が状況だけに仕方が無かったかもしれないけど、今はあの時みたいに逼迫した状況じゃない。
会いたい時に会えて、触れたい時に触れられるんだから……今は、違う。
とっさに両手で我輩さまの口を覆うと、不思議そうな表情で言葉が続く。
「ほう……何が駄目だと言うのだ? 我輩は、愛しい妻の顔をよく見ようとしただけだが?」
「……近いです」
「それだけか? 何をされると思った?」
「……なにも」
今日の我輩さまは、意地悪だ。
だって、手を離した口元が、すごく笑ってる。
その気が無いならそれはそれでいい。から、離してほしい。
胸元を少し叩いてみても腕の拘束は緩まず、私の肩に顔を埋めるほどに密着してしまった。
「久しぶりに会ったのだから、少しくらいはよかろう?」
耳元で囁かれ、それに私も小さく返す。
吐息がくすぐったいのは変わらないけど、我慢はできるようになった……と思う。
「少し前に会ったじゃないですか」
「お前の少しと我輩の少しは、かなりの違いがあるようだな。
そもそもあの理由はなんだ。答辞の練習をするから寮に残るだなどと言いおって。
そんなもの、我輩とすればよいのだ」
「後輩と約束をしていたんです」
「草薙の妹であろう? 揃って来ればよかったではないか。妻の後輩と言うならば、無下にはせぬ」
無下にはしなくても、こういう行動を常日頃しているのを見られるのが嫌だったから……とは、本人に言っちゃいけないだろう。
家でも部屋で二人の時だけと言ってるのに、一向に守られることはない。
そもそも守る気がないんだろうし、必要もないと思っているかもしれない。
その上、私のほうの……感じかたが、変わった。
前は抱きしめられると鼓動が速くなって苦しいくらいだったのに、今はそれに充足感を持つようになってしまった。
だから、強い抵抗や逃げるという行為を取りづらくなってしまい、我輩さまもそれに気付いたのか、更に頻度が増える。
私だって、こうされるのは嫌じゃない……というより、嬉しい。場所さえ考えてくれれば。
「あとは帰ってからにしてください。今は、駄目です」
「ふむ……では後ほど、存分に堪能しよう」
言質は取ったとばかりに笑い、ようやく腕を離してくれた。
お互いの距離は一歩にも満たないくらいに近く、姿勢を正した我輩さまの顔は遠い。
そのことにほっとしてクラスメイトのほうに向こうとすると、また一歩、また一飛び離れてしまった。
女子はまだいいとして、男子はもう、話すどころか場所すら掴みづらい位置じゃないか。
「我輩さま、ちょっとどいててください」
「……何故だ」
「クラスメイトが怖がって、話が出来ません」
「気にすることはなかろう」
「気にしてください。卒業式なんだから、話したいです」
我輩さまが近くに居る限り、クラスメイトは近付いてこないだろう。黒峰という立場以上に、我輩さまが威圧するからだ。
理由は……なんとなく分かるけど、そこまで信用がないのかとも思ってしまう。
嫉妬されるのは嫌ではないけど、度を過ぎると困る。
どうにかできないものかと五感を強めて周囲を探ってみると、遠く離れた場所に何人か見知った顔を見つけた。
我輩さまと同じ学年の、級長さんたちだ。面白がってたり呆れてたり、色々な表情でこっちを伺っている。
分かってるなら手を貸してくれたりしないのかと思ってしまうけど、私は直接的な付き合いはないから頼むのも難しい。
「……では、しばし時間を設けてやろう」
どうにもならなそうな状況に悩んでいると、私と離れることを嫌うはずが珍しい提案をしてくれた。
卒業式だから、特別なのだろうか。もしかしたら、さっき抱きしめたので満足してくれたのかもしれない。
「その代わり、手を出すのだ。左手を」
左手……?
ローブの隙間から腕を出し、そのまま我輩さまに預ける。
外のひんやりした空気と、我輩さまの温かい手がなんだか気持ちいい。
なんて、気をそらしてしまったのがいけなかったのか。
上着のポケットから小さな箱を取り出し、そこからさらに小さな物を取り出すのをただ見ているだけだった。
三年近く前に見た、補助役に渡されるバッジが入っていた箱に似ていて。
我輩さまが摘まむと、その小ささが際立つ物で。
指の一本に添えられて、そのままぐっと押し込まれた。
「…………何を、してるんですか」
左手、薬指。
銀一色の金属。
学園から出るとよく見かけるようになったそれは……
「結婚指輪に決まっているであろう」
呆れたように言うと、同じ場所からもう一つ取り出して自分の指にはめた。
左手と、左手。
同じ場所にはまった指輪は同じ見た目の物で、つるりとした表面に緩やかな日差しを映してきらきらしている。
「一年前に渡そうとしたものを、学生だからと断ったではないか。
学生結婚など珍しくもない学園なのだから、気にする必要は無いと言ったにも関わらず。
お前は先ほど、卒業したのだからもう学生ではない。故に、もうその理由では拒ませぬ」
一年前といえば、私はまだ学園に戻れたばかりだったし、結婚の許可はもらったものの正式に籍を入れたわけでもなかった。
その上、学生の身分でそういった装飾品をつけるというのも気が引けるというのと……私の名称を嫌でも強調しそうだからと遠慮していた。
卒業して、黒峰の家で暮らすようになってからでいいと思っていたのに……まさかの、今。
「これから寮の荷物を片付けたり、学園内に挨拶に行くんですけど……」
「だからどうした」
「無くしたら困るので、外しておいていいですか」
指にぴったりの大きさは、いつの間に調べていたんだろう。
緩くもきつくもない、一番いい具合だ。
「失くす心配があると言うならば、そうだな……生涯外れぬ呪いでもかけておこうか。
いつ何時も、僅かの隙間すら通さぬ、強固な呪いを、な」
握られたままの左手に力がこめられ、薄墨色の魔力がじわりじわりと広がっていく。
手全体から指へ、薬指へ。移る度に濃く強いものに変わっていった。
「……失くしませんから、大丈夫です」
「うむ、ならよかろう」
そう答える以外、無いじゃないか。
魔力を散らしてから満足気に指輪をなぞったり、二つをこつんとぶつけたり。
その流れで指を絡ませあう前に、少し強めに腕を引く。
むっとした顔をしてるけど……だから、今ここでは止めて欲しい。
「何故だ」
「用が済むまでは、駄目です」
「ではすぐ済ませるのだ」
「済まさせてください」
我輩さまがここに居る限り、この場に居る全生徒は存在を意識しないわけにはいかないだろう。
だからせめてこの集団の中ではなく、少し離れたところに居て欲しいのに。
「校門のほうに級長さんたちが居ましたから、そこならちょうどいいんじゃないでしょうか。
ほら、こっち見てますよ」
「毎日のように見ている顔を、何故ここでまで見なければならぬ。
ならばお前を見ているほうがずっと有益だ」
「……これからは、毎日見る顔になるんですよ」
面白そうに観察してくる級長さんたちには目もくれず、私ばかりを見る様子につい、言ってしまった。
言った言葉を思い返せば、それはとても恥ずかしい言葉で……
「……うむ、そうだな」
私につられたように顔を赤くする我輩さまを見て、さらに恥ずかしくなった。
我輩さまが学院に居るうちはそうじゃないかもしれないけど、そっちだって卒業すればもう、ずっとずっと一緒だ。
離れることも、会えないことも、話せないことも、きっとなくなる。
「ならば一時、待っていよう。指輪は決して外すな。これは命令だ」
「分かりました」
「そしてこれは……待つ時間の代償としよう」
灰色のローブの襟を引かれ、顔が上を向いた瞬間すぐ、唇に柔らかいものが触れる。
それは下唇を軽く食んで小さく舌でなぞってから、ローブと一緒に離してくれた。
だから、どうして、今この時に……。
周りから響く歓声に頭が痛くなる。どうして我輩さまはこれをなんとも思ってくれないんだろうか。
公衆の面前でこんなことをするのは普通ではないと、いい加減気付いて欲しい。
「これで羽虫は寄ってこぬだろう?」
「羽虫、ですか……?」
「我輩の愛しき妻は、よほど人心を掴むのだろうな。白空然り、佐々木然り、その他大勢も然り。
遠い地でそれを考え、何度攫ってしまおうと思ったことか」
髪を撫で、背中を撫で、目と目をしっかり合わせられる。
真っ黒の瞳に紫色の虹彩。それがいつもより色濃く見える。
「その為に目に見える所有印を持たせようとしたものを、嫌がりおって。
卒業式では何かと浮かれる輩も多いからな。そのような者共に触れられぬよう、外してくれるな」
「心配性すぎじゃありませんか……。私はそういうの、ありませんから」
「そう思っているのはお前だけだ。白空も言っておったであろう」
「あれは……先輩の欲目のようなものですよ」
「……やはり、付いて周ろうか」
「嫌です。やめてください」
せっかくの許可を反故にされたら堪らない。
だからとりあえず気をつけると散々訴えて、無理矢理校門のほうまで押しやってしまった。
代償、と言ってあんなことしたんだから、その分時間は取らせて欲しい。
ようやく普通の空気に戻ったかと思ったら、クラスメイトの女子には肩を叩かれ、男子には遠くから応援された。
我輩さまを警戒しているんだろうけど、そこまで離れられるとなんだか申し訳ない気分がする。
校門のほうを見ると、級長さんたちが我輩さまをしっかり引き止めてくれていて、もしかしたら気を遣ってくれてるのかもしれない。
中庭でのやりとりが終わり、移動しようかと思った時に咲ちゃんが来た。
私がクラスメイトと話し終わるのを待っててくれたらしい。
感情の起伏が穏やかな様子は昔の自分に少し似ているけど、咲ちゃんのは元の性格かららしい。
仕事が丁寧で、気を遣えて、人付き合いが上手で……私が補助役だった時も頑張ったつもりだったけど、咲ちゃんには到底及ばないだろう。
「咲ちゃんが補助役で居てくれて、本当に助かった。ありがとう」
一年の空白の後の級長は、思った以上に大変だった。
それでもやっていけたのは、咲ちゃんのお陰だ。
「弥代子先輩のお手伝いが出来て嬉しかったです。なので、その……」
緑色のローブの中から一枚の紙を取り出し、差し出された。
それはとても綺麗なカードで、小さな押し花で飾られている。そこに書いてあるのは多分、携帯端末の番号とアドレスだ。
「卒業してからもお話、してくださいますか……?」
「もちろん。すぐに連絡するから、待ってて」
これは早急に端末を手にしなきゃ。クラスメイトと咲ちゃんと、茜先輩にも知らせたい。
この後の予定を聞かれて退寮手続きと答えると、手伝いを申し出てくれたけど大した用でもないので遠慮しておいた。
緑の組の人と話すこともあるだろうし、私だけに付き合わせるのも悪いから。
人の少なくなった中庭を後にして、ひとまず寮に戻る。
三年間過ごしたこの部屋からとうとう出ることになるのか。
私にとっては三年に満たなかったけど。
私物はほとんどなく、私服も小さな旅行鞄に収まる程度。
三年前、入学時に持ってきた量とほとんど変わらない荷物は持ち歩くのを躊躇う程ではない。
ベッドの上でころころ転がっていたぷーさんは、私が鞄を肩に掛けたのを見て、ふわりと近付いてくる。
「行きましょう、ぷーさん。最後に校内に挨拶に行きます」
「ぷ!」
我輩さまが卒業してから、ぷーさんはずっと私の側に居る。
だから校内の色々な人とも面識があり、容姿と性格から結構人気があったりする。
これからはそうそう会うことも出来なくなるだろうから、ぷーさん共々行きたいと思っていた。
食堂の人や職員室のたくさんの先生と話し、最後に奥の応接室に案内されると、級長に関わることの多かった青の組の先生が居た。
「音無さん……じゃ、もう無いか。黒峰さん、卒業おめでとう」
「ありがとうございます。先生には、お世話になりました」
三年前から今まで、たくさんのことで迷惑をかけた。
我輩さまの補助役の時も、施設に行くことになった時も、戻ってきて級長になってからも。
学園内の様々なことを、顧問だからとしっかりと受け止め、陰ながら対処してくれた。
こういった先生が居るからこそ、級長という立場が確立していられるんだと思う。
「今後もたくさん、大変なことが起こると思うけど……黒峰君と一緒なら、きっと大丈夫だよ」
初めて話した時と同じく穏やかな声で言われ、礼をしてから部屋を出た。
ぷーさんも最後の挨拶代わりに頬ずりをしていたから、私と同じ気持ちなのかもしれない。
卒業式は昼過ぎに終わったのに、もうしばらくしたら夕方だ。
思った以上に時間がかかってしまったけど、我輩さまはどうしているだろう。
級長さんたちと居るのか、それとも食堂なりどこかに居るのか。
我輩さまなら学園内のどこに居ても怒られることは無いだろう。
だからこそ、どこから探せばいいのやら……。
「ぷーさん、我輩さまがどこに居るか、分かりませんか?」
「ぷぅ……」
魔力を通してつながっているといっても、限度はあるんだろう。
我輩さまの魔力を探りながら歩けば、案外すぐ見つかるかもしれない。
と、思っていると……どこかから、薄墨色の魔力が飛んできた。
来た方向を思い返してみると、級長室がある場所だ。
二年前、散々繰り返し感じ取った、あの部屋から。
今この時になんでそんな場所からと思ったものの、確実に私を呼んでいるものだから、行かないわけにはいかないだろう。
誰も居ない廊下を足早に、最短距離で歩けばそれはすぐに見つかる。
真っ黒な扉。
来る者を拒んでいると思えるくらい、とても重くて厚い扉。
よくもこんな扉を開けられたものだ。
ノックなんて到底響かないと分かっているから、何もせずに手をかける。
記憶通りに重い扉を手前に引っ張り、出来た隙間に身体を滑り込ませる。
静かに扉が閉まると、部屋の中は真っ暗闇だった。
自分の爪先どころか指先すら見えない暗闇。
視力をいくら強化したところで高が知れてるから、素直に目が慣れるのをじっと待っていると、ぼぅっと蝋燭が灯った。
手前から左右均等に順々に。
ぼぅ、ぼぅ、と小さな音を立てながら広がる蝋燭の明かりの先には、真っ黒な机に向かう真っ黒なスーツ姿の人物が居た。
「遅い」
真っ黒な椅子に深く腰掛け、軽く腕を組んでこちらを見ている。
薄暗い部屋に溶け込むような姿は、ずっと見てきた姿のままだった。
「すみません、思った以上に時間がかかりました」
むすっとした表情は、怒っているんじゃなく拗ねている。
それが分かってるから、素直に謝ることにした。
「……して、用は済んだのか?」
「はい。挨拶も済みましたし、荷物もこれで全部です」
「……ならばしばし、休むとしよう。外はまだ人が多いようだからな」
もう一つの椅子をすぐ隣に動かし、視線で促された。
いつも座っていたその位置は、もはや懐かしく感じられる。
そういえば、この部屋に入るのはどれくらい振りだろう。
私の学年の級長は、何か用があるならお互いの教室を行き来するほうが多かったから、わざわざここに来ることは無かった。
「ここ、入って大丈夫なんですか?」
「教員の許可は取った。それに、今現在級長はおらぬのだからな。過去の級長が少し使うくらい、問題なかろう」
先生がいいって言うなら、いいか。
座るとすぐに手が伸びてきて、右手に指を絡められ、左手は膝の上のぷーさんに置く。
いつもしていた、この仕草。
久々にすると懐かしくて、嬉しい気分がする。
ぷーさんも同じなのか、小さな声で歌ってる。
ぷーさんの毛皮がきっかけで来たこの部屋。
たった一年だったけど、たくさん過ごして、たくさんのことを経験した。
辛いことも多かったけど、楽しいことも多かった。
幸せなことも、多かった。
「む? どうかしたか」
すぐ近くにいるこの人が、首を傾げてこんなにも穏やかな表情をすることが知れた。
私だけに、見せる表情。
「我輩さまは、美人ですね」
「……いきなり何を言うのだ」
ああ、そうか。美人じゃなくて格好いいだったか。
でも一番最初に思ったのがそれだから、それでいいか。
「我輩さま、お願いがあるんです」
「ほう……お前からとは珍しい。何だ?」
最後にこの部屋に来れたから、最後にしておきたいこと。
二年前の、学園祭。
我輩さまに初めて名前を呼ばれて、我輩さまに恋してるって気付いた場所。
季節も時間も全然違うけど、変わらない場所。
そんな場所に居れるんだから、その時の気持ちを……なぞってみてもいいかな、なんて。
子供じみた考えかもしれない。ただもう、ここに来ることは難しいと思うから。
荷物も何も少ない私の、大事な大事な、思い出だから。
「…………抱きしめて、いいですか?」
絡んだ指に少し、力を入れてみた。
まだ温かくない季節だから、体温の高い肌が心地いい。
白くて、綺麗で、でも男の人の指で。
触れられると嬉しくて、恥ずかしくて、苦しくて。
そんな指が、ふと解かれた。
「願っても無い機会というのは、このことなのだろうな」
あの時と、同じ答え。
一つ違うのは、驚いた顔ではなく、嬉しそうな顔だということ。
ゆっくり立ち上がって引かれた場所は、窓際だった。
カーテンを少し開けると、夕暮れが始まっている。
薄暗い部屋に差し込む強い夕日は、我輩さまの真っ白な顔を赤く染めている。
それだけなのか、それだけじゃないのか。多分私も、同じように染まっているんだろう。
だったらどっちか分からないほうが、私にとって都合がいい。
灰色のローブから両腕を伸ばして。
真っ黒なスーツの中の灰色のシャツに頬をつけて。
爪先が合わさる距離で抱きついた。
温かい体温が沁みこんで来て、お互いの体温が混じる。
目と耳と鼻と手と、全部で我輩さまを感じたい。
「我輩さま」
「どうした」
強く抱きしめられて少し苦しかったり、耳元で喋られてくすぐったかったり、自分の体温がどんどん上がっていってたり。
そんな全部が、心地いい。
「大好きです」
「……我輩も、同じ気持ちだ」
押し付けていた顔を離されて、首の後ろを支えて上を向かされる。
やっぱり、夕日だけじゃない。我輩さまだってすぐ、赤くなる。
「我輩が唯一愛しいと思えるのは、黒峰弥代子だ。それは今もこれからも、ずっと変わらぬ」
「私も、我輩さまだけが……ずっと、好きです」
お互い言って、お互い恥ずかしくて、同時に俯いてしまった。
それすらもなんだか嬉しいのは、ちょっとおかしいのかもしれない。
恥ずかしさを紛らわす為に外を見ると、卒業生らしき生徒が何人も居て、それぞれ最後の学園を楽しんでいるようだ。
我輩さまも……そうだったのだろうか。
あの日私が帰った後、我輩さまはどんな卒業の日を送ったんだろう?
聞いてみたい気もするけど、今はやめておこう。
だって、この場所で、この人と、こんなことが出来るのは、今だけだから。
その今を、大事にしたいから。
「学院になど、進まなければよかったな」
「本家の人は通うのが慣例じゃないんですか?」
「慣例などどうでもよい。ただ、お前と触れ合う時間を少しでも持ちたいのだ」
「……じゃあ、今度は私が会いに行きます」
我輩さまの居る学院は、海の側らしい。
黒峰本家と同じような場所なのか、それとももっと観光地に近い場所なのか。
学園の場所を思えば前者だと思う。自力で行くのは少し、難しいかもしれない。
「今からでも遅くは無い、進学するか」
「遅いですよ……。それにそうすると、我輩さまが先に卒業してまた離れますよ」
「む……歳の差というのは難しいものだな」
「だから、ちゃんと行きますよ。我輩さまが来てくれたみたいに」
「約束だな?」
「約束です。指きり、しますか?」
片手を離して小指を差し出すと、そのまま全ての指が絡め取られた。
絡んで、握って、引き寄せて。
行き着く先はいつもの、真っ白で綺麗な、整って美人な、我輩さまの顔の前。
「指きりよりも、こちらがよいな」
温かくて柔らかい唇が何度か触れ、少し強く押し付けられると、隙間から熱く濡れた感触が広がってくる。
さっきしてきたのと同じかと思ったら、それは唇をなぞるだけではなく、僅かな隙間から入りこんできた。
「……っ、な、なにを……!」
思わず顔を離すと、目の前で小さく舌を出した我輩さまが面白そうに笑っている。
つまり、あれが、私の……
「愛しい妻の愛らしい口を、味わおうと思っただけだが?」
口の中に、入ってきた……?
なんで、どうして、そんなことを。
「もう学生だからと遠慮をすることは無い。キスの次を、しようではないか」
「次、って……何を、するんですか」
「それは今夜、教えてやろう。
あぁ、今日より部屋を移ることになった。夫婦なのだから、夫婦で過ごさねばな」
「私は別に、今の部屋で……」
「ならぬ。元居た部屋はもう片付いておるからな。今更戻ることは許さん」
「当主に言いつけますよ」
「言ったところでどうにもならん。
父上は反対していなかったし、母上は喜んで手配をしていた」
当主夫妻と我輩さまと、三人が決めたなら私には拒否権は無い。
今までに同じ部屋で寝たことはあるけど、それは一時的なものだ。
毎回簡易ベッドを持ち込んで並べて寝ていたけど、そういうやり方ではないんだろう。
夫婦、と言われれば……おかしなことじゃ、ないんだと思う。
「眠れなくなったら、どうするんですか……」
「問題なかろう。我輩も休みに入るから、このまましばらく家で過ごす。
たまには自堕落に過ごすのもよかろう? お前と一緒であれば、それでよいのだからな」
小さく笑ってゆっくり抱きしめ、頭の上に顎を乗せられる。
こうしてみると身長差がすごいと思うけど、絶対に赤い顔を胸に埋められるのはいいとも思う。
鼓動を間近で感じられるのも、実は結構気に入ってるし。
目を瞑ってじっと耳を澄ませていると、静かにカーテンを閉めた。
「さて……愛しき妻よ、そろそろ行くとしよう。時間は有限だからな」
「自堕落、するんじゃないんですか」
「その前に、するべきことがあるからな」
するべきこと……?
ああ、そうか。今日は当主夫妻が卒業祝いの食事をしようと言っていた。
普段から美味しい料理が出てくるけど、特別に人を手配するとかなんとか。
だったら待たせるわけにはいかない。名残惜しいけど、いつまでもここに居るわけにもいかない。
最後にと、ぎゅうっと腕に力をこめると、ほんの少し……涙が出てきた。
強制的に入ることになった学園だけど、思っていた以上に、私はこの学園に愛着があって、感謝していて、去り難いようだ。
「ここで我輩さまと出会えて、よかったです」
「うむ、我輩もだ」
最後にもう一度、今度は触れるだけのキスをして身体を離した。
その代わりすぐに手が繋がれ、部屋を出て校門までゆっくり歩く。
組によって特徴のある教室の前を通り、綺麗に整備された芝生の道を通り、大きくて頑丈な校門を過ぎた。
これで、私の学園生活は終わり。
ただこれから、また違う生活が始まる。
それは今までとはとても違いのある生活だろうけど、不思議と不安は少ない。
だって隣に、我輩さまが居る。
「さて……帰ろう」
「はい、帰りましょう」
我輩さまと私。これからはずっと、隣で、一緒に。




