8-1.後日談
三年生の夏休み。私は黒峰本家に居る。
進級と同時に入籍をし、その時から私は黒峰家の一員となった。
といっても、男系であるこの家に置いて、女の私がやることはほとんどない。
せいぜい、黒峰の歴史やそれぞれの家の事を勉強するくらいで、毎日根を詰めるほど難解な物でもなかった。
その代わりなのか、度々面会の指示が舞い込んでくる。
そういえば我輩さまもそうだったな、なんて思っていたのは甘かった。
なぜなら私は、希少な能力を持つ嫁、という認識を持たれているからだ。
物珍しさか好奇心か、はたまた敵情視察か。
黒峰に属する人間が、新参者の顔と魔力と能力を測りに来る。
片手を越えたくらいからはもう変に気を遣うことはやめ、求めることを披露して早々にお引取り願うことにした。
それがお互いの為だ。そう思うことにした。
今日も午後から一人、お客さんが来るらしい。
くどくどとした説明は耳に入らず、どこかの奥さん、とだけ覚えてる。
それだけ覚えていれば十分だろう。
失礼にあたらない程度の格好は、灰色のワンピースに黒のカーディガンとタイツ。
真っ黒尽くめは正直勘弁して欲しいから。
『――――――。』
広く黒い客間の前に、人の気配がした。
一人は女中の人、もう一人が客人だろう。
お願いして持ち込んだ時計を見ても、まだ夕方まで遠い。
黒い部屋に差し込む真夏の日差しは明暗がはっきりしすぎて、むしろ気が重くなった。
「初めまして、黒峰弥代子と申します。本日はお越し頂きありがとうございます」
客人が椅子に座ると同時、視線を下に固定して挨拶をする。
黒いテーブルセットの上にはお茶の準備がしてあり、今日は紅茶らしい。
客人の目を見ないという失礼極まりない行為は、お互いの誤解を防ぐ為にしていることだ。
視覚で記憶が見えるという能力は、相手としてはあまりいい気はしないものだろう。
だから、真夏の室内なのに黒いレースのたっぷり付いた髪飾りで目元を隠している。
「能力を見たいとのことであれば、お時間を取らせるわけにはいきません。
私は過去と現在しか見えません。未来視をご期待であったなら、すみません」
未来が見えるなんて、そんな……御伽噺だ。
御伽噺の欠片を継いでしまった私としては、笑えないけど。
「お望みの物が必ず見えるとも言いきれません。その程度の、不安定な物だと思ってください。
その上でお話があれば、どうぞ」
視界の端に見えるのは、女性の手。
白くて細い指は、過度な装飾も無くただただ綺麗だ。
多分、若い。視界に映る胴体から容姿もなかなかだろう。
だけど相手の言葉があるまで、私は顔を上げたりしない。
綺麗な女性の手がゆっくり動き、その流れで小さな指輪が見えた。
左の薬指。結婚指輪。赤い石が付いている。
……赤い、石?
「今日の約束は、赤山の嫁が、黒峰の嫁とお茶をするという話ではなかった?」
赤山の、嫁。そして、声。
そっと視線を上げると、黒いレースの先には一人の女性が座っていた。
「その態度はあんまりじゃない? 弥代ちゃん」
「茜先輩……?」
にっこりと。それはそれはきれいに笑う茜先輩は、記憶の中より大人びて、美人だ。
どれくらい経っているんだろう?
最後に会ったのは、私が学園を離れた時。泣いて泣いて、私を送り出してくれた時。
そう考えれば、もうずいぶん経っていた。
赤山の次期当主と正式に結婚し、若奥様として過ごしているというのは聞いたことがある。
ただ、こうして会えるだなんて思っていなかった。
「ようやくこの機会が作れたわ。学園に行くことも考えたのだけど、こちらのほうがゆっくり話せると思って」
茜先輩が学園に顔なんて出したら、白の組も赤の組も大騒ぎになるだろう。
そう考えれば、こうしてゆっくりなんてできないだろう。
「改めて……赤山茜です。どうぞ宜しく、黒峰の奥様?」
「お、奥様って……」
「あら、事実じゃない。籍を入れてまだ短いものね、初々しいわ」
「慣れてないだけです……」
大人びてはいるけど、やっぱり中身は茜先輩だ。
茶道室でひっそり話していた時と、一緒のまま。
お互いの挨拶が済んだと判断してか、女中の人が静かにお茶を注いで出て行った。
普段なら部屋の隅で立っているけど、旧知だと判断してくれたんだろう。
気兼ねなく話すには都合がよく、気を遣ってくれたことがありがたい。
「さあ、今日はたくさん話しましょう? ずっとずっと、こうしたかったのだから」
私だって、そうだ。
茜先輩ともっともっと、たくさん話したかった。
私に起こったこと。黒峰で起こったこと。あと……我輩さまのこと。
誰にも言えなかった色々を、茜先輩にだったら話していいのにと思ってた。
秘密のお茶会は形を変えて、もう一度始められるらしい。
「私もずっと、お話したかったです」
日はまだまだ高い。下校のチャイムも鳴らない。
本家の嫁同士の、気兼ねない会話。
美味しいお茶とお菓子と一緒に、それは始まった。
茜先輩は学園を卒業して、すぐに赤山の家に入ったらしい。
元から白空の家で相応の教育を受けていたから、大して苦労は無かったとか。
というか、赤山の家が大らかだから、というのも理由らしい。
ただ、同級生と会う機会がほぼ作れず、級長のその後も人から聞くくらいだと。
私も、いくら黒峰になったとはいえまだ学園生。外の状況を知る術は少ない。
「ただ、そうね……卒業式のあれこれは聞いているわ」
「……っ!?」
口に含みかけていたお茶をふき出しそうになった。
卒業式のあれこれ……って、あれ、か……。
「あれから、卒業式には求婚や告白をするというのが恒例になったようね。
前例がさぞかし印象的だったのでしょうね……」
優雅にお茶を飲みつつも、遠くを見つめる視線が怖い。鋭い。
確かにあれはやりすぎだったと思う。けど、あれは私がやったものでもないし……
「黒峰は今日、帰ってくるのかしら?」
にっこり笑顔の視線の奥は、仄かに怒りが宿ってる。
正直もう、あの件の事は忘れたい。いや、忘れたくはないけど話に上げたくない。
「た、多分……けど、あの話はちょっとその、居た堪れない、と言いましょうか……」
我輩さまへの苦言の流れであの時の状況を口にでもされれば……恥ずかしくて堪らない。
正直もう、時効にして欲しい。前回の卒業式で向けられた生暖かい視線は忘れられないだろう。
衆人環視の中告白をする卒業生たちに、一切目を向けられなかった。
あぁ、あんなことしちゃったのか、と。
今考えれば頭が痛いけど、当時は恥ずかしくも幸せだったから、無かったことにしたいとは絶対に思わないけど。
お茶菓子に手を伸ばし、茜先輩はポットからお茶を注いでくれた。
しっかり保温されていたのか、ふわりと湯気が立ち上る。
『――――――。』
外から音が聞こえた。それと、魔力も。
迷い無く早足に近付く足音は止まることなく、その勢いのまま扉が開かれた。
「弥代子、帰った」
喪服のような真っ黒なスーツ。
スーツと揃いの真っ黒なネクタイ。
黒に近いグレーのシャツ。
真っ黒な髪に、真っ黒な瞳と紫の虹彩。
それと対照的な、真っ白な肌。
二年前に初めて出かけた時と同じ格好。
なのに、そこにある表情だけは全く違うものだ。
穏やかに、嬉しそうに、幸せそうに、笑っている。
「……おかえりなさい」
椅子から立って出迎えると早足のままこっちに向かってきて、その勢いのままぎゅうっと抱きしめられた。
正面からしっかりと、私の身体を抱え込むような状態だ。
「わ、我輩さまっ! ちょっと!」
「仕事を終えて帰って来た夫を、労ってはくれぬのか?」
「ね、労うのはいいんですが!」
時と場合と場所を考えて欲しい、と言って理解してくれるんだろうか。
そうこう思っているうちに我輩さまの手は私の顎を持ち、上に持ち上げる。
真正面にあるとても綺麗な顔がだんだん近付いてきて、逃げられない。
「客間にいきなり入ってくるだなんて、どういう礼儀かしら?」
がちゃんと音を立てて、お茶が置かれた。
あまりに大きな音に動きを止め、じろりと視線が動く。
「今日の客は貴様だったか、白空よ」
「今は赤山よ、失礼ね」
「かねてより我輩のものに手を出す輩を、どう呼ぼうと同じであろう?」
「大事なお友だちを束縛するような男、ろくなものじゃないわね」
ああ、また始まった。いや、むしろこれすら懐かしい気持ちがする。
茜先輩と会っていると度々我輩さまから呼び出しが来て、それを無視したり電話で抗議したりして。
いつもこんな風に言い合いをしていたっけ。
「何か可笑しなことがあったか?」
「いえ……なんだか懐かしくて、嬉しいです」
うっかり笑っていたのを見られてしまったようだ。
色々なことが起こって色々な道に進んで。
だけどこうしてまた同じようなことが出来るのは、とても嬉しいことだ。
「……弥代子に免じてここは引いてやろう」
「そうね。弥代ちゃんとの時間を、無駄にするなんてもったいないもの」
我輩さまは渋々離れて私の真横に座り、茜先輩は綺麗な所作で新しいカップにお茶を注ぐ。
やけに距離が近いのは諦めるべきだろう。開放してくれただけでありがたいと思うことにした。
「ぷーっ!」
「ああ、忘れていた。ぷーが部屋で拗ねておったから連れて来た」
普段なら大して時間がかからないし、何よりあまりいい空気にはならないからとぷーさんは部屋で留守番をしてもらっている。
気付けばもう夕方で、ずいぶん長い間一人にさせてしまっていた。
灰桃色のもこもこは不満気に声を発し、私の膝の上に納まる。
「それにしても、まさかプラズマの核を弥代ちゃん用に作り変えるだなんて……無茶なことしたわね」
我輩さまの魔獣であるプラズマは消滅させ、残った核を私の魔獣へと作り変えた。
そういう話に、なっている。
だからもう、プラズマさんは存在しない。
存在するのは、私の魔獣のぷーさんだけだ。
「いつ何時、危険が迫るとも分からぬからな。陣よりも確実なものだ」
「もしも危険が迫ったらどうするの?」
「無論、行く」
「機械音痴の運動不足の身体で何が出来るのかしら?」
「なっ……!?」
茜先輩の正しくも厳しい言葉に、我輩さまは何も言えないようだ。
多分、危険がどうこういうのはついでだろう。
私が寂しくないようにと、ぷーさんが息苦しくないようにと、考えてくれたんだと思う。
それをはっきり口にすることは無いけど、私はそう思ってる。
「学園では、顧問の先生も気を遣ってくれてますし、補助役の子もずいぶん助けてくれてます。
もう三年目ですし、危ないことは無いです」
「……分かっておる」
「それでも心配なんでしょうね、貴女の夫は」
夫、と言われるたび、なんだかくすぐったい気がしてそわそわする。
我輩さまは当然とばかりに受け流してるけど、いつか慣れる日が来るのだろうか。
それから話は変わり、我輩さまと茜先輩の代の級長の話になった。
と言っても、それが分かるのは我輩さまだけだから、私たちは聞くに徹するだけだ。
「赤山、青川、緑原は補助役と共に魔研学院に通っている。
魔導学園の延長のようなものだな」
私が通っているのは、魔力指導学園。
そしてその上は、魔力研究学院に名前を変える。
生徒数はそれほど多くなく、家柄や実力の有る人間ばかりが通うらしい。
「佐々木は一般の学校へと進学し、変わらず有能のようだな」
それを言う我輩さまの顔は、なんだか嬉しそうで誇らしそうだ。
同学年の同じ役職の人間の誉れは、やっぱり嬉しいんだろう。
「そして茶壁は……旅に出ているそうだ」
「旅、ですか?」
「うむ。後継者問題は無事片付いたようでな、身軽になったとそのままふらふらと各地を周っているらしい。
緑原がよく、連絡が来ると言っている」
「あそこは変わらず仲がいいのね」
「緑原が旅に出たいという度に、補助役の草薙が宥めておる。
彼奴の場合は逃避に近いからな、苦労しているのだろう」
「そう言いつつ、きちんと従っているのだから、あそこはあれでいいのだと思うわ。
弥代ちゃんの代はどう?」
苦笑しながら聞かれたものの、どう答えていいものか。
二年上に本家の人間が固まりすぎたせいか、それ以降はそこまで血の繋がりが無い人間が級長をしている。
本家の末端とか、分家とか、そういう話を最初に聞いた。
だからなのか、級長と生徒の垣根が低く、畏敬や尊敬といった念は感じられない。
その分仲がいいんだから、これはこれでいいんだろう。
私の苗字と属性で何かしら起こるかと思ったけど、それよりも卒業式のイメージが強すぎるらしい。
黒峰の愛妻、という困ることこの上ない呼び名がまかり通っている。
最初は疑念を抱いていた一年生も、上級生がそういう態度だからとそれに従っているようだ。
「それはよい呼び名だな。妙な虫が寄り付かぬ」
「そんなこと思うの、我輩さまだけです」
面白そうに笑ってるけど、私にそんなことが起こるはずが無い。
クラスメイトとの仲は良好だし級長ともそうだけど、あくまでそれは仲がいいというだけだ。
「あら、弥代ちゃんは元から可愛いし綺麗になったわよ? こんなお邪魔が居なければ引く手数多ね」
「邪魔は誰であろうな? 僅かな夫婦の時間を奪う輩こそそう呼ばれるべきではないか」
「正式に申し込んだ面会に文句があるの? 黒峰の次期当主は懐が狭いわね」
「貴様だから言っておるのだ。そんな簡単なことが分からぬとは、赤山の次期当主も難儀なことだ」
「焔さんは優しいから、貴方のような嫉妬まみれな束縛はしないのよ。
ねえ弥代ちゃん、今度赤山の家に遊びにいらっしゃい。何日か泊まっていくといいわ。
女同士ゆっくりしましょう? 女同士、ね」
これはじゃれてると思えばいい、そう思えばいい。
そのままずいぶん長いこと言いあっていた二人を、私はじっと黙って見ていた。
夕日が沈み夕闇が訪れた頃、茜先輩にお迎えが来たらしい。
またお茶をする約束をしてからその場で別れ、元の椅子に腰掛ける。
すごく楽しかったけど、ちょっと疲れた。原因は絶対に我輩さまだ。
というか、茜先輩の我輩さまに対するあれは、愛情の裏返しでいいんだろうか。
元は初恋の相手で、ちゃんと気持ちを整理した相手で、今は夫と同等の地位の相手だ。
それともむしろ気持ちがひっくり返ってしまった? それは少し、悲しいかもしれない。
こうして私一人で考えていても意味の無いことで、答えも出ない。
そう気付き、膝の上のぷーさんを抱えなおし、お茶菓子を食べることにした。
今日はクッキーとチョコレートがきれいに並べられていて、そのまま手で摘まんで食べていいものだ。
ぷーさんはやっぱりチョコだろうか。それとも苺ジャムの乗ったクッキーか。
とりあえず手近なチョコを摘まんで膝元に持っていこうとすると、長い腕がすっと伸びてきて、私の腕を掴んだ。
言わずもがな、我輩さまだ。
「ぷーさんにあげるんですけど」
「ぷーより先に食べさせるべきではないか?」
そう言って、私の指ごと咥えてしまった。そう、指ごと。
我輩さまの真っ白な歯がちらりと見え、鋭そうなそれに少し力が入ってしまった。
「そんなに嫌か」
指を咥えたまま喋らないで欲しい。
少し舌足らずな声が可愛らしいとか、余計なことを考えてしまう。
「我輩さまの歯が……ちょっと怖い、です」
「噛むなどせぬわ」
ころんとチョコを手放すと、空いた指に……舌が這った。
軽く、指に付いた物を舐め取るくらいの弱さ。
でもそんな、自分でしかしないようなことをされるなんて。
「……どうした?」
手を離してくれたけど、これは偶然でも無意識でもなく、意地悪だ。満足気に笑っている。
「なんで、こんな……」
「ぷーばかり構うからだ。少しは我輩の事も構え」
「構うって……子供じゃないんですから」
口の中のチョコを咀嚼しながら椅子を寄せ、私にぴったり寄り添う位置で座った。
そして手を繋がれたかと思うと、膝の上のぷーさんをぽんと宙に放る。
「先に戻るがよい」
「ぷぅっ!?」
明らかに不満気だ。それはそうだろう、まるで邪魔だと言わんばかりの行動だ。
なのに我輩さまは魔力で扉を開け、ふわふわ漂うぷーさんをそちらへと動かす。
私の手には届かない位置まで行ってしまったから、どうにもすることができない。
「夫婦の時間を邪魔するでない」
そう言って部屋の外へ追い出し、しっかりと扉を閉めた。
「我輩さま……大人げないです」
留守番をさせてしまったのに、せっかく来たと思ったらこれだ。
学園に居る時はずっと一緒な分、こうして離れると少し落ち着かない。
我輩さまだって久々にぷーさんと居れるんだから、もっと一緒に過ごせばいいのに。
「……ぷーばかり、不公平であろう」
「不公平、ですか?」
気付けば我輩さまは、私の肩に頭を預けていた。重くはないけど、落ち着かない。
「ぷーはいつもお前と共に居る。我輩は、限り有る時しか過ごせぬのに」
「お互い寮なんですから、仕方ないじゃないですか。
前に比べたらよっぽど会えてますよ」
私が魔力の操作を覚える為に離れていた期間に比べたら、今の頻度は高すぎるくらいだ。
学園に居た頃だって、長期休みの時はもっともっと離れてたし。
「お前は、我輩がどう感じていたか知らぬからそう言えるのだ。
我輩がどれだけ苦しんだか、過去を覗いてみるがよい」
「そんなに狙って視ることなんて、できません」
「ふむ、残念だ」
本当は、視れる。
大雑把にだけど、なんとなくは狙って視ることはできるようになった。
けど、我輩さまの記憶は……視ていいと言われても、視る勇気が出ない。
今この場ですら恥ずかしいのに、そんな恋煩いみたいな場面を見てしまったら、もっと恥ずかしい気分になってしまう。
だから私は、できないことにしておく。
「弥代子、チョコ」
繋いだ手を緩く握り、視線で物を訴える。これじゃ本当に子供だ。
それに今は、普段は見上げる位置にある顔が少し下に居るから尚更に。
今度は咥えられないようにチョコを唇に当て、小さく開いたら中に押し込む。
これで不満は無いらしい。
ぷーさんにいつもしていることだから、私としても全く問題は無い。
いや、少しはあるけど飲み込める程度だ。
「クッキー」
「はいはい」
食べさせる傍らに、私も摘まむことにした。
小さくかじって見えたのはホワイトチョコで包まれた苺のチョコで、甘くて酸っぱくて美味しい。
「美味いか?」
「はい、我輩さまも食べますか?」
確かまだ、運んでいないはずだ。
片手は我輩さまに握られたままだから、半分残った食べかけをさっさと食べなければ。
そう考えて口を開くと、またしても腕を取られてしまい……そのままチョコを奪われた。
「うむ、美味いな」
「食べかけ取るの、よくないですよ」
「それが食べたかったのだから、仕方なかろう」
何が仕方ないんだろうか。
渋々もう一度同じ物を取ると、またしても奪われる。気に入ったらしい。
最後の一つを唇に当てると、今度は真ん中あたりを歯で支えて動きを止める。もういらなかっただろうか。
そろそろ夕飯時だし、おやつはこれで止めておいたほうがいいだろう。
溶けて指に付いたチョコを少し舐め、紅茶で口内を洗い流す。
「半分、食べるか?」
さっきのチョコをまだ咥えたままで、やっぱり少し舌足らずな声だ。
私に頭を預けている様子から考えて、疲れているのかもしれない。
「私はもう大丈夫です。我輩さまが食べてください」
「そう言うでない」
手を首の裏に当てられたと思うと、そのままぐっと引き寄せられた。
一瞬で間近まで近付けられ、目を見張った隙にチョコレートが唇に押し当てられる。
それを支えてるのは我輩さまの口で、口は顔についているもので……つまり、ものすごく近くに我輩さまの顔があった。
上から見る顔はなんだかとても新鮮で、普段こんな風に見られているのかと思うとなんだか恥ずかしい。
お互いの体温でチョコがゆっくり溶けていき、真ん中で噛み切ったあと、それを舌先で押し込まれる。
自分の意思と関係なしに入り込むそれは、奇妙な感覚がした。
「……なんて食べ方、させるんですか」
「たまにはよかろう? 他の人間には決してするでないぞ」
「……しません、こんな……」
キス、みたいな。
唇は触れてないけど、それよりなんだか……艶めかしい。
ちらりと見えた我輩さまの歯や舌が頭から離れず、目の前で笑ってる顔が見れない。
いつの間にか繋いだ手が解かれ、腰に腕が回っていた。それにぎゅっと力が入れば、そのまま距離は縮まっていく。
「今日は家に泊まっていく。食事が済んだら時間を作るのだ」
囁くように言われれば、当たり前のように体温が上がっていく。
何度こうしても慣れることはなく、その度に笑われてしまうのが悔しい。
「今日は夕食後、当主とお話をする予定です」
「……何故だ」
「当主に言われたからです」
意趣返しになるだろうか。本当の事を伝えているだけだけど。
むっとしたような渋い表情は、色々な葛藤をしているようだ。
ただ、我輩さまに対してはこう言ってしまえばいい。
「当主の言葉は絶対、ですよね?」
「……言うようになったな、小娘め。我輩が当主になった時は覚悟するがよい」
黒峰当主はまだ若く、我輩さまが継ぐことになるのは先の話だろう。
それまでに私は、我輩さま対策をしておいたほうがいいのかもしれない。
今は伝家の宝刀であっても、それが敵に回れば絶体絶命だ。
「では父上の話が終わるのを待つ代わりに……一度、よいか」
一応問いかけにはなってるけど、拒否権は無い。
腰を抱えて距離を縮められ、その上目の前に顔を持ってくるんだから。
喋るたびに吐息が当たる距離での問いかけなんて、意味が無い。
それに……拒否なんて、する気も無い。
「一度、ですね?」
「うむ。一度、だ」
「……じゃあ、いいですよ」
目を閉じて少し上を向くと、温かい唇が押し当てられる。
やっぱり私より体温が高くて、それがなんだか心地いいと気付いたのはいつだったか。
夏休みの間はこうして頻繁に会えるけど、授業が始まったらそうはいかない。
結婚、したのに……私たちの距離はあまり変わらない。
「……っ?」
唇に、生暖かい感触がした。
つんつんとつついてみたり、そっとなぞってみたり。
不思議な感触が続くのが不思議で目を開いてみると、我輩さまが笑ってた。
キス、してて……唇以外に触れるものなんて……。
「なに、を……っ」
「チョコがついていた」
真っ赤な舌を少しだけ出し、それで私の唇に触れたまま喋った。
さっきチョコを食べていた時みたいに舌足らずで、でもそれ以上に圧倒される雰囲気を醸し出している。
色気……とでも言うのだろうか。
見ているだけで苦しくなってしまう、妖艶な姿。
舌をしまうと同時、再び唇が柔らかく触れた。
触れて、押し付けて、食んで……そのまま少し、舐められる。
くすぐるみたいに、撫でるみたいに、味わうみたいに。
まだ付いているのか。そもそもさっきの指もそうだけど、舐めとる必要性がどこにあるのか。
真っ赤な舌が私の唇を這っていると思うと、鼓動がなぜか速くなった。
それと同じように体温も高くなり、頭がくらくらとしてくる。
なのに我輩さまはそれを止めようとせず、むしろ楽しそうにしてる。
「わがはい、さま……っ」
キスをして何度目かに呼吸は合間にすると気付いたけど、合間が無い場合はどうすればいいんだろう。
何度もキスをして、舌でなぞって。呼びかけする暇も無くなった。
もう、限界だ。
そう思って我輩さまの背中にしがみ付くと、ようやく触れた部分を離してくれた。
間近にある顔は真っ赤で、でも満足気で。少し濡れてる唇が妙に艶めかしい。
「なに、するんですか……」
私が肩で息をしているのが分かってるんだろうか? 満足気な様子が変わることはない。
「一度って、言ったのに……っ」
しがみ付いた部分をぎゅうっと握ると、ようやく私の怒りに気付いたのかぽんぽんと背中を叩く。
あやしているつもりだろうか。そんなのに誤魔化されはしない。
「約束破るのは、だめです……」
「破ってはおらぬぞ。一回も離れなかったのだから、一度は一度だ」
「そういうの、屁理屈です……っ」
「そんなに嫌だったか?」
むっとした顔で覗き込まれる。真っ赤なままで、拗ねてるみたいだ。
……嫌じゃなかったから、問題なんだ。
「手を繋ぐのにも種類があるように、キスにも種類があるようだ。故に、それを試しただけだ」
「そんなの、試さないでください……」
好奇心があるにも程がある。
二つ年上で、育った環境も周りの人間も違くて、考え方もまるで違う。
私の常識は通用しないのかもしれない。それが仕方なくも、寂しい気がする。
それとももしかして、誰かとこんなことをしたことがあるのか。
「我輩さまは……慣れてますね」
「む? 何故そう言う」
「こんなの……いつ誰と、覚えたんですか」
私の乏しい知識では、重ねるくらいしか方法がないと思っていたのに。
それとも世間の恋人同士にとっては、自然と出来る行為なんだろうか。
「妙な誤解をするな。我輩はこのような行為、お前としかしたことが無い」
「……じゃあなんで、知ってたんですか」
「お前が以前、言っていたであろう? 清水に教えを請えと。それは今も続いている」
青の級長、青川さんの補助役。
魔力持ちの常識だけでなく、一般常識にも敏い。
茜先輩からの伝言だったけど、それは卒業した後も継続されていたらしい。
……いや、ちょっと待った。清水さんに教えてもらってる?
「キスの次の行為を教えろと言っても、お前が卒業するまで待てと言うのだ。
その代わりにと教えられたのだが……気に入った」
もしかして我輩さま、私との行為を清水さんに言ってたりするのか?
清水さんは青川さんといつも一緒だし、自ずと赤山さんもだ。
つまり……あの三人に知られてるのか……。ひどい、これはひどい。茜先輩に言いつけてもいいはずだ。
「弥代子、こちらを向け」
我輩さまの胸に頭を押し付け俯いていると、ぽんと髪を撫でられた。
ぷーさんにしてるのと同じようで、ちょっと悔しい。だからしばらく無視してたけど、そうしてると勝手に顔を持ち上げられた。
「お前との行為は、全てが新鮮で心躍るものだ。
しかし心の底から嫌だと言うなれば、耐えるのも我輩の役目であろう」
唇を撫でられると、湿った感触がする。我輩さまと同じように、私の唇も艶めかしく濡れてしまっているのだろうか。
「しかし愛しい妻を前に、そう耐えるのも苦だ。故にそうでないのなら……受け入れてくれ」
欲求を抑えるような表情は、赤いままの顔とは不釣合いに見える。
そんなちぐはぐな様子にさせてしまっているのは私で、私だからそうなるのだと思えば……ちょっと気分がいい。
だから、ちゃんと言っておこう。
「嫌じゃ、ないですよ」
「……本当か?」
「はい。ただ、初めてのことばかりだから、戸惑ったり恥ずかしかったりするだけです」
「……そのように愛らしいことを言われると、抑えるのが一層辛くなるのだがな」
小さく笑ってから、今度は柔らかく一回、唇が触れた。
同じくらいの体温はまるで、我輩さまと繋がっているように感じる。
触れ合って、溶け合って、重なって、一つになってるようだ。
「お前の唇は、いつも甘いな」
「……甘い物を食べた後にするからですよ」
「いいや、そうでない時も……お前は、甘い」
閉じ込めるように抱きしめられると、口元が耳に寄せられた。
満足気な吐息がかかる度に奇妙な気分になってしまうのは、どうしてだろう。
「早く、先に進みたいものだな。どのようなことをできるのか、楽しみだ」
今でさえこんな有様なのに、これ以上先なんてどうなるんだろう……。
我輩さまは嬉しそうにしてるし、無理ですとは言いがたい。
卒業までに私は、覚悟を決められるのだろうか……。
「さて……不服ではあるが、そろそろ食事に向かわねばならぬな」
「たまにしかご両親と会えないんだから、そんなこと言わないでください」
「そうは言ってもだな、お前とのひと時を減らす物に対し、一言くらい言ってもよかろう」
子供がしがみ付くみたいにぎゅうぎゅうと力を入れられ、正直ちょっと苦しい。
我輩さまはいつの間にこんなに幼くなってしまったのか。
いや、学園に居る頃からその片鱗はあったか。
「親孝行だと思ってください」
実の親にも、育ての親にも、そんなことは欠片もしてこれなかった私が言うのも変な話だけど。
ただ、してこれなかったからこそ、今その可能性があるのならしてみたいとも思う。
「私も、義理の親に対する孝行をしてみたいので」
「ふむ……お前の願いならば、聞くしかあるまいな」
渋々といった風に離れ、先に立って手を差し出される。
それを自然に取れるようになったのは、実はまだ最近の事だ。
引かれるままに立ち上がり、身なりを少し整えてから扉へ向かう。
黒いレースの髪飾りは、茜先輩との話の間に取ってしまったから置いたままでいいか。
「弥代子よ……お前が親になる、という気は無いか」
「私が、ですか?」
何の親になるというのか。子猫や子犬でも拾ってきたのだろうか。
いや、それなら飼い主と言うか。我輩さまは、人間と動物はきちんと区別しそうだ。
「お前の子なら、さぞ愛らしいのだろうな」
私の、子……?
「いや……これ以上時間を奪われるのは耐えられぬな。今しばらく、夫婦の時を優先しよう」
誤魔化されたのだろうか。
苦笑する我輩さまの横顔は、なんだか少し照れているようにも見える。気のせいかもしれないけど。
「それと……順番は譲ったが、父上との話が済んだらすぐに我輩の元に来るのだぞ」
「命令ですか?」
「いや、願いだ」
ならば聞かないわけにはいかないだろう。
それに何より、私もそれを望んでいる。
握っていた手を緩め、指を絡ませ手を繋ぐ。
我輩さまの一歩は大きいけど、こうして歩く時はちゃんと調整して、私が小走りにならないようにしてくれている。
私が無理なく隣に居れるように、してくれている。
「我輩さま」
「どうした?」
手をぎゅっと握り、肩を少し寄せ、小さな声で言ってみる。
「我輩さまの子も、可愛いと思います」
いつかそんな未来があっても、いいかもしれない。
ただ私も、今は我輩さまと一緒に居れる時間を満喫したい。
「……お前は、本当に我輩の常識を破りおるな」
軽く手を引かれ、一瞬だけ唇が重なった。
廊下ではしないでほしいって、言ってあったのに。
その考えが表情に出ていたのだろう、困ったように笑ってる。
「さて、行くぞ。親孝行とやらをしようではないか」
真っ黒な扉を開けると、部屋の中には一組の夫婦と灰桃色の魔獣。
呆れたように笑ったり、拗ねたように怒ったり。
そんな、団欒の空気。
ずっと、焦がれるくらいに望んだ場所。
もっと、飽きるほどに長く居たい場所。
多分、飽きることはないだろう。だから生涯、ずっと居たい場所。
ならば、願ってもいいだろうか。
ずっとずっと、みんなと一緒に居れますように。
もっともっと、我輩さまの隣に居れますように。
『――――――』
頭の芯のほうから、声が響いた……気がする。
遠いような、近いような、叫ぶような、囁くような。
男なのか女なのか、若いのか老いてるのか。
どれとも言えない声が。
「どうかしたか?」
立ち止まった私を、我輩さまが心配そうに覗き込んできた。
ということは、私にしか聞こえていなかったのだろう。
いや、そもそも聞こえた気がしただけかもしれない。
声のように感じただけで、何を言っているかもはっきり分からなかった。
けど……不思議と、懐かしい気持ちがした。
「……いえ、気のせいです。多分」
そう答え、扉の中へ進んだ。
私の大事な……家族の元へ。