6-4.親族会議
あの日の放課後、我輩さまが呼び出されてから動き出すまでですら、多くの事が起きていたようだ。
全てが済んだら、迷惑をかけたであろう人たちに頭を下げに行かなきゃいけないだろう。
あの生活に戻れるなら、負担でもなんでもないけど。
「あとは山を登り、客用として使っている屋敷から調べたまでだ。
本家の屋敷で謀など、もししたとなれば問答無用で処罰されるであろうからな」
「山、登ったんですか?」
「あの道は馬車でしか通れぬ。ならば己の脚で進むしかなかろう」
そういえば、小さい頃の我輩さまは、一度山を降りてきたんだったか。
登りと下りでは大違いだし、何より今の我輩さまは身体能力が低すぎる。
「筋肉痛は大丈夫ですか?」
「…………正直、動きたくないな」
渋い顔で呟く様子に、うっかり噴きだしてしまった。
それと同時に、そんな無理をしてまで助けに来てくれたのだと気付き、嬉しくなってしまうのは不謹慎か。
むっとして指に力を入れられ、少し痛いのですら心地いいなんて、私は少しおかしくなっているのかもしれない。
「恐らく明日……親族会議が開かれる」
力を緩め、親指で手の甲を撫でられる。
落ち着かない時の手遊びのようなものだろうか。
「我輩の件と、お前の件だ。
故に……出席を強いられるであろう」
くるくるくると指が動き、丸く円が描かれる。
大きな手と長い指だから、その円周は長い。
「しかし、怪我を理由にこのまま学園へ逃がすことも出来る」
「帰りませんよ」
円を描く指がぴたりと止まった。
俯きがちだった顔をばっと上げ、とても驚いた顔をしている。
なんで驚くんだろう。当たり前の答えなのに。
「離れないって言ったの、もう忘れたんですか?」
「しかし、それは……」
「ここで逃げても、同じことが起こるんじゃないですか」
「……っ」
学園の生徒でさえ受け入れないものを、黒峰本家が受け入れるはずが無いだろう。
受け入れないならば、受け入れてもらわなきゃ。
その為にはむしろ、絶好の機会だろう。
是非はどうあれなにかが決まるはずだ。
それがどんな結果になるかは正直分からない。
後悔する結果になるかもしれない。
けど、今の中途半端で滅茶苦茶な状況が晴れるのならば、それはしたほうがいいことだろう。
夜になり部屋の中で軽い食事を取ると、早々に寝ることになったものの、我輩さまが出て行く気配が無く。
理由を聞いてみると、ここは我輩さまの部屋で、ベッドも我輩さまのものらしい。
明け渡そうとしたら当たり前ながら断られ、女中さんらしき人が簡易ベッドを運び込んでくれた。
客間とかあったんじゃないかと思ったけど、我輩さまも思うところがあってここに決めたんだろうから、何も言わないでおこう。
むしろ、我輩さまが育った部屋に居れるというのは役得と思える。
でも、寝巻きに着替えるのは別室でやって欲しかった。目を逸らすのに必死になるから。
「一晩眠れば魔力も回復するであろう。すぐに怪我を治す」
真横に並んだ簡易ベッドから、腕が伸びてきた。
それはチューブだらけの私の腕に触れ、指を絡めて納まった。
空調が付いているとはいえ寒いのに、布団から手を出して大丈夫なのだろうか。
そう言っても我輩さまが決めたことなら何を言っても聞かないだろうし、私としてもこのほうが心地いいから、いいか。
「……おやすみなさい」
「……うむ」
寝て起きて、この手が離れてませんように。
我輩さまから、離れませんように。
『おかあさん!』
悲痛な声。
『どうして!』
泣きじゃくる声。
『あたしにおとうさんなんて、いない!』
怒りのこもった声。
『いや! はなして! おかあさんっ!』
必死に縋る声。
――――誰の声?
薄い光で目が覚めた。
窓にかかった薄いカーテンが、朝日を透かしているらしい。
少し頭が重いのは、妙な夢を見たからだろうか。
いや、単純に身体が回復していないのだろう。
頭上を見ると輸血のパックは無くなっていて、ただの点滴だけになったようだ。
真横の簡易ベッドの上には、寝る前と変わらない様子の我輩さまが眠っている。
静かに寝息を立て、緩んだ表情をしている。
きっとここは、我輩さまにとって気を抜ける場所なのだろう。
寝ぼけ眼で改めて部屋を見回してみると、生活感が残っている。
真新しいわけじゃないカーテンとか。
所々傷んだ勉強机とか。
懐かしい物語が並ぶ本棚とか。
窓の外は海だろうか。それとも森だろうか。
我輩さまが起きたら、聞いてみようか。
「む……起きたか」
握ったままの手に力が入り、身じろぎする。
半分しか開いていない瞼の上に、長い前髪がかかって邪魔そうだ。
案の定むっとした顔になり、すぐに空いた手でかき上げると、真っ白な顔が晒される。
カーテン越しの朝日を受ける顔は、やっぱりとても美人だ。
「おはようございます」
「うむ……体調はどうだ」
「ひどくはないです」
よくはないんだから嘘はつけない。
すぐに医者が来て点滴を外し、ようやくチューブまみれの状況から開放されるとすぐに、ずいぶんとしっかりしたご飯が運び込まれる。
昨日の夜から私の分の主食がお粥なのは、身体に気を遣ってくれたのだろうか。
食事の準備と一緒に簡易ベッドを運び出されたので、我輩さまは椅子に座ってベッドにもたれ掛っている。
小さな欠伸を何度もかみ殺し、並んだ食事に手を出すことも無い。
先に挨拶をして箸を付けると、学園の食堂とはまた違う、上品な美味しさを感じられた。
「食べないんですか?」
「……朝は、苦手だ」
これはまた、イメージ通りだ。
少し寝乱れた寝巻きを直すこともせず、ぼーっと私が食べるのを眺めている。
そんなに見られると食べづらいのに。
「我輩さま、たまご焼きは好きですか?」
「……うむ」
きれいに巻かれただし巻き卵を一切れ箸で掴んで、我輩さまの口元に差し出してみた。
つんつんと唇に当ててみると、渋々といった感じで口を開き、受け入れる。
もぐもぐと口を動かし、しっかり飲み下したところで唇が少し尖る。
「お前が食べなくてどうするのだ、怪我人め」
「ちゃんと食べないと治りませんよ、筋肉痛」
出汁で炊いた野菜の肉巻きを差し出すと、またしても渋々受け入れる。
その間に私も自分の食事を進め、無くなるたびに差し出すのを繰り返す。
最後まで一切動かなかった我輩さまは、ご飯とお味噌汁以外を完食していた。
「子供みたいですね」
「子供のように扱うからであろう」
「子供みたいなことしてるからですよ」
むすっとしたままそっぽを向くと、扉からノックが響く。
我輩さまがお座なりな返事を返すと、黒い毛皮が飛び込んできた。
パリパリと静電気を放ち、ゆらゆらと空中を彷徨っている。
そして私の膝の上に納まり、静かになった。
「プラズマさん……連れて来たんですか?」
確か、申請が面倒とか言ってた気がする。
プラズマさんを連れて来た人は静かに下がって扉を閉めた。
「無断で連れ出すのは、国の規則に反するからな。
残った者に頼んでおいたのだ」
「――――、ぷーっ!」
すぽんと毛皮を脱ぐと、勢いよく顔に飛び掛ってきた。
今回はぶつかる手前で急停止し、すりすりと頬を摺り寄せてくる。
ふかふかの毛皮と灰桃色の色合いとで、なんだかとても癒される。
「ぷーさん、来てくれたんですね」
「ぷ!」
「ありがとうございます。心配かけました」
「ぷぅ」
「何故ぷーにはそうなのだ……」
そう、とはなんだろうか。
我輩さまにもちゃんとお礼は言ったのに。
「ぷー、どいておれ。怪我を治さねばならぬ」
「ぷ……」
寂しそうな表情ですっと離れると、我輩さまがベッドの端に腰掛ける。
軋むことなく、重みだけがマットに伝わった。
いたる所に貼られたガーゼを一枚ずつ剥がし、全て取り払ってから傷跡に手をかざす。
擦り傷、切り傷、刺し傷、打撲、内出血、その他諸々がみるみる消えていく。
消える度に薄墨色が身体を巡り、何度も何度も入り込んできた。
ああ、この感覚だ。
常にたくさんの、自分のものじゃない魔力が巡っている感覚。
我輩さまと一緒に居るようになって、日常になっていた感覚。
「そういえば、なんで他の人の治癒魔術を使わなかったんですか?」
昨日の話によれば、我輩さまは魔力を消耗していたらしい。
ならば他の人に治してもらえばよかったんじゃないか。
ここは黒峰本家なんだから、治癒魔術が使える人も居るんだろうし。
それとも、そういう意味では信用していないのだろうか?
いや、さすがにそれはないか。
「…………お前の中に、我輩以外の魔力など、入れてなるものか」
最後に頬に手をあてて、殊更丁寧に魔力を流してきた。
すぐに傷が塞がり、それでも続いているのは痕を気にしているからなのか。
確かに、顔に残るのはあまりよくないかもしれない。
「今後、他者の魔力を受け入れることは許さん。
もしそのようなことがあれば……その者を呪うことになる」
「それは……ちょっと、約束できないです」
「……何故だ」
「もし、死にそうな怪我をした場合は、死にたくないので治療してもらいます」
「我輩から離れなければ問題ない」
「限度はあると思います」
「約束したではないか」
むすっとした顔で唸られても、物には限界ってものがある。
この場に居る限りなら我輩さまから離れることはないけど、学園に戻れたら、学年が上がったら、卒業したら……先を考えれば不可能にしか思えない。
一時の約束ならば頷くけど、そうでないなら無理なものは無理だ。
「……でも、できるだけ……そうならないよう、気をつけます」
「ふむ……今はそれでよしとしよう」
自分に無頓着だった私がこう思うようになるなんて、人間、短期間で変わるものだ。
変われるようなきっかけというか、存在感の影響なのかもしれないけど。
我輩さまが辛い思いをすると思うと、気をつけなきゃと思う。
「ではそろそろ身支度をするか。いつ何時始まるか分からぬからな」
女中さんを呼び出して、案内に従ってお風呂を済ませる。
脱衣所にはビニールのかかった制服が置いてあって、それ以外見当たらないから着ることにした。
真新しいというか新品そのもので、灰色のリボンもきちんと付いている。
糊のきいたブラウスは少し変な感じがして、ピンと張ったリボンも慣れない。
けど鏡で確認してみると、とてもしっかり着れているようだ。
多分、これから行く場所には見栄も必要なんだと思う。
ちゃんとした格好で、しっかりした態度で、弱みを見せたりしないようにしなきゃいけない。
私がそうだと、我輩さまの弱みになってしまいそうだから。
生きてる中で一番時間をかけて鏡を見つめ、納得してから部屋に戻った。
「早かったな。直に揃うそうだ」
椅子に座って本を開いていた我輩さまは、私に気付いてぱたんと閉じる。
表紙を見るとそれは子供向けの物語で、使い込まれたような風体だった。
「今日は、スーツじゃないんですか?」
立ち上がった我輩さまは、私と同じく制服だ。
ただ、いつもの真っ黒なローブは見当たらない。
黒の入ったネクタイをきれいな形で結んで、ボタンも上まで閉じている。
「制服の気分なのだ」
長い前髪は、顔が全て見えるように整えられていた。
真っ白な肌のきれいな顔が、少し笑っている。
緊張や焦りが無いのは、場所か場数の問題なのだろうか。
差し出された手は温かく、少しの震えも無い。
「大丈夫だ。お前は、居てくれればよい」
「……迷惑かけないよう気をつけます」
戦地に挑む気持ちで、なのにとても落ち着く体温を感じて。
そんな矛盾した状態で、引かれるままに歩き始めた。
真っ黒の床をコツコツ進み、一際大きな扉の中へ入った。
黒い床、黒い壁、黒い天井。
黒い椅子、黒いテーブル、黒いクロス。
黒い服、黒い靴、黒い小物。
狂信的に黒ばかりだ。
灰色と黒の制服に白いシャツの私たちは、色味として浮いている。
長方形の大きなテーブルを縦に置き、その周りに並んだ椅子は既にほとんど埋まっている。
いくつかの椅子の斜め後ろには小さな椅子が置かれ、そこにも人が座っていた。
「……座りなさい」
扉から一番遠い、長方形の短い辺。
黒いスーツの男性が、静かに声をかけた。
最奥ということは、あの人が黒峰の当主で……我輩さまのお父さんだろうか。
斜め後ろに見える、シンプルな黒いワンピースの女性がお母さんなのかもしれない。
上下関係しか感じられない空気のせいで、場所でしか予想できないけど。
「……行くぞ」
隣で小さく呟く。
さすがに手は離したけど、身体の距離は近い。
そして私を挟むようにプラズマさんが浮かんでいる。
両脇を固められているのは、守られているのだろう。
一つ空いた席は、奥から二番目の場所だった。その斜め後ろの席を指され、静かに座る。
「これより、会議を始める」
最奥の男の人が、静かに始めた。
すると下手に居た人が立ち上がり、その人が進行をするようだ。
始まりの定型句を並べた後、すぐにそれは始まった。
「先日起こった件について、御報告します」
学園内での我輩さまの婚約の話。
私の誘拐の話。
我輩さまが呪文を使った話。
端的に読み上げられ、聞く人々は頷いたり唸ったりしている。
「……以上が、報告になります」
手元の紙を閉じ、座る。
室内の視線は最奥に集まり、口が開かれるのを待った。
「当主! 若殿の行動は余りあるっ!!!」
それを破って怒鳴り声を上げたのは、正面に座っていた男だった。
浅黒い肌の身体を黒いスーツに押し込めた大層ふくよかな男を、我輩さまは叔母婿と呼んでいたか。
けれど近くに女性の姿は無い。
「……婿殿の意見を聞こう」
最奥の男……黒峰家当主が静かに促すと、叔母婿は勢いよく立ち上がり捲くし立てる。
「色すら持たない部外者の女を手元に置き、嗜める身内に秘術を使うなど、言語道断だっ!
そのような女は黒峰に近づけてはいかん! そして若殿の短慮も罰するべきだ!」
距離は離れているはずなのに、こちらまで唾が飛んでくる。
顔面を真っ赤にして、怒りを露わにしているのだろう。
その様子はただ怒り狂っている人間にしか見えないけど。
「……十夜」
「……はい、父上」
我輩さまのことを、そう呼ぶ人に初めて会った。
親子であるはずなのに、そこには親しみのようなものは一切無い。
「婿殿の話に、意見は無いか」
興奮している叔母婿を視界から外し、静かに話しかけてきた。
その視界には私も入っているようで、それだけで緊張する。
秘術、と言ったか。
聞き取れない呪文は、やっぱり特別なものだったようだ。
「……短慮は、認めます」
「それ以外は、どうだ」
顔が見えないから表情が分からない。
後悔しているのか、それとも怒りを表しているのか。
身体から滲む魔力は、凪いでいるけど。
「あの暴挙は、嗜めるの域を超えている。
叔母婿の弁を使うなら、部外者を攫い監禁し、拷問に順ずる行為をしたことも罰するべきだ」
「あれは若殿の為を思っての事だと何度言えば分かるのだ!?」
「誰がそのようなことを頼んだ。
観察処分の女を預けたにもかかわらず、それと一緒に愚行に及ぶなど話にもならん。
貴様も誰ぞかに監視されたほうがよいのではないか」
「なんだとっ!?」
「――――黙りなさい」
二人が言い合いを始めると、当主がピンと張った声で止めた。
それは抗いようのない存在感を持っていて、二人はもちろん、周りの人間も口を閉ざした。
そしてそれを確認してから、ゆっくり口を開く。
「十夜の秘術の行使と、婿殿の部外者の誘拐。双方、許されざる行為だ。
互いに互いを責め立てたいだろうが、それを禁止する。
そして他の者は、この件で双方を糾弾することを禁止する」
我輩さまは叔母婿のやったことを責めたいし、向こうもそうだろう。
それを禁止する。つまり、喧嘩両成敗。そして周りは口を出すな、だろうか。
「これは、黒峰家当主の決定だ」
そして、異論は認めない。
もはやこれは民主主義ではない、絶対王政だ。
当主の言葉が絶対。逆らえば……どうなるのか。
「その娘への賠償は、本家で受け持つ。会議が終わった後、担当の者を寄越す。
次に、婚約についてだ。報告を」
私を見ることはなく、周りを見る。
私の意見なんか気にしていない。
たった数分で、あの件は片付けられてしまった。
そのことに我輩さまが苛立っているのが分かる。
当主ももちろん気付いて、ひたと目を合わせて黙らせた。
「若様に婚約者がいらっしゃらないのは事実であり、ただの噂と判断します。
意図的に流した者が居るかは調査中です」
「ただの噂ではない!
白空と赤山が繋がったのに、いつまでも身を固めない若殿に、相応しい人間を与えようとしているのだ!」
……まただ。
正面の叔母婿はまたしても唾を飛ばし、当主と我輩さまに怒鳴っている。
独断で噂を流したと主張してしまっているのは、いいのだろうか。
そして当主の威圧に何も思わないのは、肝が据わっているのか頭が足りていないのか。
短い腕でテーブルを叩き、立ち上がった。
「灰里をつれて来いっ!」
はいり。前も言っていた。正妻とか言ってたか。
いくつかの魔力が飛び回り、すぐに外から足音が聞こえてきた。
女中さんが開けた扉の奥から、女の子が歩いてくる。
真っ黒で繊細な、凝った作りのワンピースを着て。
長い長い、灰色の髪を背中に流して。
真っ白と言うより、青白い肌を明かりに照らして。
薄い唇を真一文字に引き結んで、真っ黒な瞳で、ただひたすらに前を見ている。
黒いレンガの部屋で出会った女の子。
見た目は何も変わらない。……変わらないのは見た目だけ。
「これはなかなか……」
「見事なものだ」
「どれだけの血を引いているのか」
周りの大人が口々に賞賛する、その魔力。
膨大な、黒々とした、どろどろとした、ぐずぐずとした。
たくさんの種類の魔力を集めて合わせてぐちゃぐちゃにかき混ぜたような、むせ返るような魔力。
前に見た時は、ほとんど感じなかったのに。
押さえつけでもしていたのだろうか。こんな量を、隠すことなんてできるのだろうか。
「これは儂の娘、灰里だ!
当主の妹、黒峰家の希少な女の腹から生まれた、純血の娘だ!」
ああ、気持ち悪い。
ただでさえ黒い魔力に満ち満ちて息苦しかった上に、嫌な魔力にあてられたようだ。
叔母婿のがなり立てる声もうるさいし、どよめく周りの大人もうるさいし、女の子から響く声もうるさい。
…………女の子から、響く声?
「妹の子は、身体が弱く長く入院していると聞いた」
「成長してようやく身体が出来たのだ!
若殿も純血であるから、正しく黒峰の次代に相応しい子が成せる!」
「若くして世を去った妹は、それを望んだのか」
「もちろんだ!」
「…………では、考慮に入れよう」
叔母さんは、亡くなっていたのか……。残った婿がこんな状態なんて、ひどいものだ。
気持ち悪いうるさい気持ち悪い。
大人の怒鳴り声のせいで、女の子の声が聞こえないじゃないか。
ぐちゃぐちゃの魔力が邪魔をする。
こんなものを、こんな汚い魔力を、見事というか。多ければいいのだろうか。
そしてそれより手前の、私の目の前の魔力が、一気に立ち上った。
「ふざけるなっ!!!」
膝の上で縮こまっていたプラズマさんが、びくりと跳ね上がった。
ざわついた部屋は一気に静まり、全ての視線がこちらに向く。
それは全部、我輩さまに突き刺さっている。
不躾な好奇の視線。呆れた侮蔑の視線。不愉快な、視線。
「何が婚約だ、何が純血だ。
我輩は、この者以外を隣に置くつもりは無い。
もう、うんざりだ……そんなにも黒峰の血と地位が大事ならば、欲しい者にくれてやる!
他者を貶め、害し、意思すら潰し、その上にある地位など誰が欲するか!」
吐き出すような叫びは、本意なのだろうか。
違う。本意ではあるけど、全てではないはずだ。
だって、見えるから。我輩さまのことが、見えるから。
「ぷー、もうよい。毛皮を脱げ」
「――――!」
「偽る必要など、もう無い」
「…………」
ピリピリ、パリパリ。
それだけで意思疎通が済んだらしい。
しばらく躊躇った後、私の手に身体を引っ掛け、すぽんと脱ぐ。
部屋の中でだけ許された行動は、今まで衆人環視の中でされることはなかった。
「なんだ、その色はっ!?」
灰桃色の、もこもこ。
ぷかぷかと我輩さまの横に並び、不安げに肩に擦り寄る。
「これが我輩の、魔獣の姿だ。漆黒などただの偽りよ。
貴様らの望む色を、黒峰に相応しいと言われる色を、ただ見せてやっていただけだ」
怒声罵声が溢れ返る。
それを無表情に受け、聞き流す。
せいせいしたとでも言いたいのか。
これで当主を継がなくてよくなったとでも思っているのか。
違う。これは我輩さまの本意じゃない。
だって、本意なら、私の目に映るのは何だ。
気持ち悪い、苦しい、頭が痛い、目が痛い、身体が熱い、目が熱い。
視界が霞み、その中心に何かが映る。
何だろう? よく見えない。
「十夜が辞退するとしたら、他に誰がなる?」
当主の言葉に、そこかしこから声が上がる。
息子を、甥を、孫を、弟を、自分を。
みんなみんな、そんなに欲しいのか。
「わがはいさま……」
霞む視界の周囲だけを頼りに、手を伸ばす。
騒がしい中でも私の声に気付いてくれたようで、その手を握ってくれた。
伝えなきゃ。言わなきゃ。止めなきゃ。
「私の為に、我輩さまの生き方を変えないでください」
「……何故、そう言う」
「だって……」
我輩さまは、今まで、当主になるために、辛いことも、苦しいことも、耐えてきたんでしょう?
靄の中に、何かが映る。
それは小さな子供で、ぐすぐすと泣いている。
『もう嫌だ』
終わり無くやらされることを前に。
『もう逃げたい』
たくさんの大人を前に。
『やらなきゃいけない。当主になるのだから』
全てを背負って。
小さな背中にのしかかる重責をひたすらに受け止めて、幼さを考慮しない要求にひたすらに応えて、相応しくあるように、認められるように。
ずっとずっと、耐えてきた。
「こんなに努力したのに、私の為に無駄にしないで」
気持ち悪い、苦しい、頭が痛い、目が痛い、身体が熱い、目が熱い。
情報がぎゅうぎゅうに押し込まれる。
たくさん、たくさん、我輩さまの気持ちが、経験が、記憶が、視界を埋め尽くす。
「……何か、見えているのか?」
「多分、我輩さまの……記憶、でしょうか。
声とか、気持ちとか、いっぱい……」
怖い。
なんでこんなものが見えるのか。
なんでこんなことが出来るのか。
怖い、怖い、怖い。
我輩さまが席を立ち、私の前に膝をついた。
周囲はまだ主張の喧騒に溢れ、私たちを注視している人間は居ない。
両手で手を握られ、ぷーさんも擦り寄ってきているのに、その温かさが遠い。
「落ち着け。魔力が乱れている」
「私にそんな、乱れるほどの魔力は、無いです」
「増しているのだ」
魔力が、増してる?
逃げ出したいくらいの情報に襲われる中、僅かに残った思考で自分の身体を探る。
ぐるぐる、ぐるぐる、魔力が巡ってる。
薄墨色ではない、妙に揺らいだもの。
バッジの中にしか見えなかった、私の魔力。
血液中の魔素がどんどん魔力を放出し、それが血管を通って全身に広がっていく。
増えて、増えて、増え続ける。
量で言えば、我輩さまのほうがよっぽど多い。
ただ、今まで僅かしか持っていなかった身体には多すぎる。
押えきれない量は身体を中から圧迫して、弾けてしまいそうだ。
見える、聞こえる。見えないものが、聞こえないものが。
身体も頭も、抱え切れない質量に、壊れてしまいそうだ。
目からぼろぼろと涙がこぼれた。
なのにそれは視界を洗い流すことなく、靄の中に鮮明に光景を映し続ける。
全身の魔力が目に集中しているようだ。集まるほどに靄は濃くなり、大きくなる。
「ぷー、弥代子の魔力を吸え、急げ!」
「ぷっ!」
小声で急いて言うと、ぷーさんは顔面に体当たりしてきた。
触れた瞬間からすっと魔力が抜けていき、まず痛みが消える。
視界の靄は少し薄くなり、身体を圧迫する魔力はゆっくりと減り、ぎりぎり抱えられる量にまで落ち着いた。
普段から我輩さまの魔力を吸収しているぷーさんにとっては、私程度の魔力はなんてことないのかもしれない。
「ぷ……?」
「……ありがとうございます、大丈夫です」
問いかけるような声に答えると、肌を伝って膝まで下り、私の手に触れる。
さっきとは違い、増える速度と同じ速度で魔力を吸い、今の量を保ってくれているようだ。
とても器用なことをしてくれる。
「何が起こった」
我輩さまはずっと私の手を握っていて、ようやくその温かさを感じ取る余裕が出来た。
いや、今は私のほうが体温が高いらしい。
「視界に、靄が……その中に色んな物が見えました。
さっきの部屋とか、黒い部屋とか、知らない人とか……。
でも、大丈夫です。少し薄れたので」
「……本当に、大丈夫なのだな?」
「はい。ただ、ぷーさんにこのまま魔力を吸ってもらいたいです。
なんか……増え続けてます」
膝の上のぷーさんは絶えず吸い続けてくれて、どうにか正気になれたようだ。
その間にも続いていた論争は当主の一声で止められ、再び張り詰めた空気を取り戻した。
「候補に推す人物を、前に。十夜、お前もだ」
「……辞退すると言いました。婚約などする気は無いし、黒峰の慣例には従えない」
「まだ認めていない。従いなさい」
見下ろす視線は異論を認めない。
候補者がぞろぞろと動く中、我輩さまも渋々と立ち上がり、手を離す。
体温の残る手で涙を拭いぷーさんを抱えている間に、部屋の壁に沿って数名が並んだ。
年齢は様々、容姿も様々、様子も様々。ただ、全員が男。
男系の家系と言うのは本当らしい。
順に名乗り、時たま意気込みを語り自己を主張する。
進んで名乗り出た人も居れば、身内に押し出された人も居るようだ。
我輩さまは名乗りも語りもせず、ただ不満気に、そして心配そうにこちらを見ている。
淡く広がる靄はうっすらと何かを映し続け、見ようとすればそれは濃くなる。
これは、なんなんだろうか。
これは、このままなのだろうか。
過去が見えるなんて、五感操作なんてものじゃない。
それともこれは過去じゃなく、想像?
だけど知らない場所や話まで、想像できるもの?
「―――――。」
「―――――。」
「―――――。」
何かの主張や意見や反論が響き渡る。
その声と魔力に反応しているのか、靄はまたしても濃くなっていく。
目まぐるしく変わる光景は、視界の中に居る人物ばかりだ。
さっきの我輩さまみたいに小さかったりせず、今のそのままの姿。
違う場所で、違う人と、違う表情で存在している。
ああ、苛々する。
分からないは怖いけど、分からないは辛い。
一人が推され、排され。そしてまた別の一人に代わる。
いかに自分が相応しいかを高らかに主張してるけど、そんなにすごい人物なのだろうか。
我輩さまが今まで築いてきたものを、越えられるほどにすごいのだろうか。
人生の全てを捧げてきた我輩さまに、足るのだろうか。
靄の中には様々な物が映る。それを見れば、そんなこと、思えるはず無いじゃないか。
多分我輩さまは、私と居る為にああ言った。
家にうんざりしたというのもあるだろうけど、家に認められない私を隣に置く為に、当主の座を辞退しようとしてる。
そんなの、嫌だ。そんなの、許せない。
我輩さまの人生を、私の為に変えてしまうなんて、駄目だ。
我輩さまの人生は、我輩さまが決めなきゃ。
私はこのままじゃ、ただの枷だ。
そんな自分で、我輩さまの隣になんて、居れるはずがない。
矛盾してるのは分かってる。
でも、駄目なんだ。
残り僅かの学園生活を、我輩さまの隣で過ごす為には、このままでいいはずがない。
目に力を入れれば、靄が濃くなる。
五感操作と同じと思え。魔力が満ちて、かつ落ち着いてる今ならば出来る。
ちゃんと、出来るはずだから。
「その人は、駄目です」
騒がしい中で言った言葉は、思いの外響いたらしい。
たくさんの唖然とした視線を向けられる中、当主がこちらを向いた。
「……理由は」
当主が聞いたなら、他も聞くしかない。
唖然から侮蔑へ変わる視線が刺さる中、続ける。
「黒峰家の資産を横領しています。
証拠は帳簿です。その人の部屋の、クローゼットの鞄の底に入ってます。
不安で持ち歩いているんでしょうが、なら徹底するべきじゃないですか」
声高に主張していた中年男性の顔色がさっと変わった。
それを確認した人間がどこかに魔力を飛ばすと、すぐにばたばたと足音が近付いてくる。
入ってきた人間の手には黒いファイル。数名で確認すると、怒声が響き渡った。
当たっていたらしい。さて、次。
「隣の人は、親から継いだ事業が上手くいっていないらしいです。
そろそろばれるとは思っているみたいですが、言うなら早いほうがいいですよ」
不安そうに立っていた青年はすぐに青ざめ、親らしき人物からどういうことかと問い詰められる。
ごめんなさいごめんなさいと謝り倒し、最終的には土下座までしてる。
さすがの様子に親も手を差し伸べ、揃って席に戻った。
これも当たっていた。はい、次。
「時計の下の人は、魔獣を持ってますね。
とても綺麗な鳥ですね。孔雀みたいに、いっぱいの色で」
ぐっと息を詰め、うな垂れる。
家の檻に閉じ込めて、毎日悲しそうに見つめるくらいなら、出してあげればいいのに。
自由を求めて、飛んでもいいじゃないか。
「端の人は……お付き合いしてる人が居るようです。
とても好き合っているので……本人が望まないのなら、無理強いはしないであげてほしいです」
困った顔をしていた青年は、ふうと息を吐く。
苦笑を浮かべて席に戻り、肩の荷が下りたとでも言いたそうな表情だ。
好きな人が居るならば、好きな人の隣に居れたほうが、きっと幸せだ。
さて次は、と思っていたら、残った人が一斉にばたばたと席に戻ってしまった。
ほら、みんな、後ろめたいことが無いわけじゃないんじゃないか。
怒声罵声は消え、侮蔑の視線は畏怖の視線に変わった。
遠くから、化け物と罵る声が聞こえる。誰が化け物だ。どっちが化け物だ。
残るは一人立っている、叔母婿だ。
わなわなと身体を震わせ、怒りで顔を真っ赤にしてる。
この人ほど、暴かれちゃいけないことを持ってる人は居ないのに。
ばれないと思ってるのか。
驚いていて心配している我輩さまに一度だけ顔を向け、大丈夫と訴える。
腕に抱えたままのぷーさんからも、伝わっているのだろう。
不安げなままだけど、小さく頷いた。
叔母婿と、その後ろに控える女の子。
昨日と違って、膨大で、ぐちゃぐちゃな魔力を持っている。
ずっとずっと聞こえる声は、女の子から響いてる。
口を開かず、表情も出さず、何も訴えていないけど、響いてる。
悲痛な声。
泣きじゃくる声。
怒りのこもった声。
必死に縋る声。
よく見れば、分かるじゃないか。
灰色の髪も、真っ黒な目も、不自然な魔力も。
靄の中を見なくても分かる。
靄の中を見るとなお分かる。
暴いてしまえ。こんな、理不尽な事実なんて。
「この女の子は、灰里さんじゃありません」
私の一言に、静まり返っていた部屋にどよめきが広がる。
叔母婿は顔を更に真っ赤にし、何事か怒鳴っている。聞こえないし、聞きたくないけど。
冷静に五感を使えば、すぐに分かることだった。
ツンとする臭いは染髪剤で、黒々した円はコンタクトレンズだ。
「胸のネックレス。そこに付いてる石が、魔力の元です。
その子の身体から流れてるものじゃないです」
ぐちゃぐちゃな魔力だって、膨大な量で曖昧になっているけど、きちんと辿ればある場所に辿り付く。
本人のものじゃなく、何人もの魔力を込めたのだろう。だからあんなに汚いんだ。
「多分、呪いがかかってます。喋らせないとか、表情を消すとか、そういう。
解いてあげてください」
喋れないのも、意思表示が出来ないのも、元からじゃない。
どろどろと濁った魔力が、女の子の首に纏わり付いているからだ。
私の言葉に動いてくれた人に、叔母婿は短い腕を振り回して威嚇する。
その反応に思うところがあったのか、他にも動いてくれる人が出て、やんわりと距離を離された。
無表情な女の子に伸びる黒い手たちは、ネックレスを外し、喉の呪いを消し去った。
「…………っ」
パチリと瞬きをし、パクパクと口を動かすと、ぼろりと涙を流した。
きっと喋りたいんだろう。何かを必死に訴えてる。
私にはその何かが見えたから、ちゃんと、伝えよう。
「その子の母親が、監禁されています」
靄の中に映ったのは、私が捕らえられていた部屋によく似ていた。
だからきっと、この近くにあるんだろう。
そのことを伝えると、指示を受けた数名がどこかへ走っていった。
女の子を隠すように濃くなる靄は、たくさんの光景を映し出す。
黒い学生鞄。紺色のバッグ。ピンク色の絨毯。木目の勉強机。
教科書、参考書、受験票。どこかの公立学校だろうか、見慣れない名前だ。
義務教育が終わりかけているらしい。
そんな子が受験するならば、決まっていることがある。
「この子は魔力を持たない人です。そうですよね、あかりさん」
「…………っ!」
鞄についていた可愛らしいキーホルダーに書かれていた名前は、この子の名前で合っていたらしい。
声を出せない代わりに、何度も何度も首を縦に振った。
「言いがかりだ! それは正真正銘、わしの娘だ!!」
「娘なのは確かです。でも母親は、当主の妹ではないです」
「そんな証拠がどこにあるっ!? 当主、こんな言葉を信じてはいけないっ!」
女の子……あかりさんは私の元に駆け寄り、隠れるように縋りつく。
その様子を見た大人たちも、さすがに思うところがあったらしい。
いぶかしむような視線が集中し、それに対してまた声を荒げた。
「こんな、どこの誰とも分からない子供の言葉を、信じるのかっ!?
わしは当主の妹の夫だ! どちらが正しいと言うんだ!」
「我輩は、貴様など信じぬ」
静かに近くに来ていた我輩さまが私の肩に手を置くと、ずいぶん力が入っていたのに気付く。
ああ、くらくらする。
靄が薄れるように気を散らすと、どうにか視界を取り戻せた。
きちんと座っていたはずの大人たちが、ばらばらになっている。
確認を取る者や咎める者、牽制する者や身構える者。
そんな中で唯一姿勢を保っていた当主は、こちらを向いて静かに口を開いた。
「姪が、どうなっているか分かりますか」
なぜそんなことを聞くのかという声は、無視するらしい。
そのままじっと私に視線を向け、待っている。
もう一度、見なきゃ。くらくらするけど、見なきゃ。
叔母婿を見て、靄を濃くして、光景を探って……。
これはどこだろう。
緑っぽい床と壁に囲まれた、広い部屋。
たくさんの機械が並んでいて、たくさんの人が動いている。
機械から伸びるチューブは、赤だったり透明だったり。
それが繋がった先には、人間が横たわっていた。
青白い肌、灰色の髪、掠れるような魔力。
真横に置かれた機械は、定期的に小さな電子音を鳴らしている。
これは、見たことがある。心音を図る機械だ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
ゆっくり長く間を空けて、その合間にシューシューと空気が擦れる音もする。
口元に固定された半透明の器具は、呼吸を助けているのだろうか。
ピッ、ピッ、ピ……ピ――――。
電子音が途切れ、今度は止まらなくなった。
周りの人間が慌しく動き、何かの処置をすると再び音は始まる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
ぎりぎりの均衡を保っているのかもしれない。
場所。この場所を知らないと。
周りの人間の胸元に、病院名らしき単語を見つけたところで頭がズキリと軋んだ。
「…………っ」
靄を見すぎたのかもしれない。
ざあっと消え、目の前には心配そうに見つめる我輩さまの顔があった。
ああ、これだけで安心する私は、もうどうしようもないのかもしれない。
分かったことを言えるだけ言うと、目の前の我輩さまに向かって崩れ落ちた。
私は何度、意識を失えば気が済むんだろう。
恐怖し狂ったような叫び声も、罵り貶めあう怒鳴り声も、全部全部、遠くなる。
唯一感じられるのは、我輩さまの温かさだけだった。