5-2.恋バナ
とっても足が重いけど、今回はそのまま帰るわけにはいかない。
渋々、人の少ない道を歩き、我輩さまの部屋に向かう。
扉を開ける前に一度ため息をし、重たい扉を開いた。
「思ったより早かったな」
少し意外そうな顔をした我輩さまは、いつものように真っ黒な椅子に腰掛け、分厚い本を読んでいたようだ。
ぷーさんは天井付近をぷかぷか漂っていて、私に気付いて下りてきた。
「む……? 小娘、こちらに来い」
「嫌です」
「……何故だ」
既にもう違和感を感じているんだ。近寄ったら即座にばれる。
仕事がなければこのまま帰って、茜先輩の言うようにクラスメイトに恋バナをしてもらうんだ。
「今日はやることありますか? 無ければ用事があるので帰りたいです」
「…………聞こえんな」
「はい?」
「そんな距離では何を言っているのか、よく聞き取れん。
こちらに来て、はっきり言うのだ」
不満気な表情だから、聞こえていて言っているんだろう。
ならばこっちにだって言いようはある。
「宿題残っているんで帰ります」
「休みの最初に終わらせたと言ったではないか」
「聞こえてるじゃないですか」
「何のことだかな」
「今日は私、汗臭いのであまり近寄りたくないんです」
「そんなものはこちらが判断する。来い」
「嫌です、帰ります。ご飯も一人で食べてください」
それだけ言って扉を開けようとすると、なぜか開かない。
鍵は開いているし、ついさっき入ってきたのに……。
気配をたどると薄墨色の魔力が渦巻いていて、我輩さまが扉を押えているのだろう。
そう気付いた時、既に遅かった。
大きく真っ黒な影が背後から覆いかぶさり、片腕で身体を絡め取られる。
「こんなに白空の魔力を漂わせて、一体何をしてきた?」
「な、何もしてないです」
「ふむ……ここか」
印の場所は魔力が濃い。我輩さまなら一瞬で分かってしまうのだろう。
何も言えずに固まっていると、片手で器用にリボンを外してしまった。
「あ、あのっ!」
「黙れ。抵抗するな」
ぶわりと立ち上る魔力の量は尋常ではなく、感情が昂ぶっているのが分かる。
怒ってる。やっぱりすっごく、怒ってる。
一番上まで留めたボタンを難なく外し、三つ目が外れた所でそれは見えたらしい。
「……我輩の所有物に印をつけるなどいい度胸だ。何をしてくれようか」
「あの、これはその、お洒落とかそういうのでして……」
「見えぬ場所に付けるのがか?」
「見えないお洒落という風習があるので……」
「ほう? ではこの上から我輩が陣を敷いてやろうか。
何がよい?
他の色の魔力を持つ者を全て弾く呪いか? それとも我輩の命令を全て聞くようになる呪いもあるぞ」
まずい。本当にまずい。
我輩さま、本当に怒ってる。
こんなに怒ってるのを見るのはいつぶりだろう?
確か、補助役になる前の、女生徒の時くらいか。
いや、キャンプの時もそうだったし、結構怒ってる?
そんなことを思い出すより、今この状況をどうするかが重要なのに、まったく頭が働いてくれない。
「汗臭いなどと嘘をつきおって……小娘の匂いはいつもと変わらぬ、よいものだ」
「や……」
嘘じゃない。今日は普通に暑くて、いくら冷房が効いてても汗をかく場面は多かった。
だからそんな……髪に顔なんて埋めないで欲しい。深呼吸なんてしないで欲しい。
「そんなに急ぐ用があるのか? それとも、我輩と居たくないとでも言うのか?」
そうです、なんて言ったらどうなってしまうだろう……。
どう切り抜ければいい? どう切り抜けられる?
頭を働かせたいのに、頭がまったく働かない。
腕が絡まるお腹が、吐息のかかるうなじが、ぴたりと合わさる背中が、指先が触れそうな胸元が、熱くて熱くて、苦しい。
我輩さまの体温が高いんじゃなくて、私の体温が一気に跳ね上がってて。
だって、こんなの、へんだ。
鼓動が速くて、呼吸も速くて、熱くて、苦しくて。
なのに、嫌だって思いが、ほとんど感じられない。
こんなに変なのに、こんなにおかしいのに、嫌じゃないなんて。
「――――返事はどうした?」
耳元で低く囁かれると、息が通った場所さえも熱くなっていく。
我輩さまはなんでこんなことをするのか。
我輩さまはこんなことをして平気なのか。
どうして? なんで? わからない。わからない。
我輩さまの指は、ついに私の胸元に触れた。茜先輩の、羽の形の印に。
すると突然、そこから魔力があふれ出した。
『――――』
「わっ……!?」
「む……」
薄暗い部屋に広がる魔力と同時に、パシリと真っ白な光が放たれた。
フラッシュのように強い光に我輩さまの力が緩み、その拍子に扉を開け放った。
「ご、ごめんなさい! 帰ります! さよなら!!」
「待て、小娘!」
「ぷーさんが大丈夫か、みてあげてくださいっ!!」
廊下を全力で走りながら叫んだ言葉に、我輩さまもはっとした様子で部屋の中へ戻っていった。
きっとあれが、茜先輩の印の効果だ。
発動の条件は……いくつか思い当たるけど、これだと言いきれるものはない。
あとでメールで聞くことにして、今は何より逃げるべきだ。
こんな状態で我輩さまの近くに居たら、どうなってしまうか分からない。
この不調の原因が分かるまで、会わないほうがいいのかもしれない。
今日は人の有無なんて考えず、最短距離で外に出て、食堂の中へ駆け込んだ。
我輩さまはぷーさんを看て、身支度をして、運動が苦手だから歩いて、という段階を踏むだろうからまだ追いつかれないだろう。
一番手前のテーブルにクラスメイトが居るのを見つけ、急いでその人ごみに入り込んだ。
「ど、どうしたの?」
「なにかあった?」
説明のしようがない上、今は息がまったく整わず、呼吸をするだけで精一杯だ。
私が息を切らすなんて体育の時間くらいだから、クラスメイトにとっては異常事態なのだろう。
心配してくれている様子が申し訳ないけど、もう少しだけ待って欲しい。
差し出された冷たいお茶を飲み、ようやく吐息以外が出せるようになってから、椅子に深くもたれ掛った。
「ごめん、ちょっと……色々あった」
「弥代子、今日は黒の級長のとこだったんじゃなかった?」
「早く終わったの? 一緒にご飯食べようよ」
ここで食べ始めてしまえば、人の多いこの場所でどうこうされることもないだろう。
そう考えてご飯を取りに行こうとすると、背後に何かの気配を感じた。
正面に座るクラスメイトはぽかんと私の後ろを見上げていて、漂う魔力も含めてそれが何か分かってしまった。
おかしい。時間はまだまだ余裕なはずなのに。
「いい度胸をしているな、小娘よ」
低い低い、薄墨色の魔力のこもった言葉。
それだけで周りのクラスメイトは身をすくめ、他のテーブルからは何事かと視線を感じる。
「我輩に逆らうとどうなるか、その身に教えてやろう。来るがよい」
そう言うと、脇の下に腕を突っ込み、そのまま力任せに引っ張り上げられた。
椅子が倒れる盛大な音に食堂中の視線が集まり、なのにそんなの気にしないで私を担ぎ上げる。
「ちょ、待ってください!」
「我輩に命令すると言うか?」
「ち、違います。お願いです!」
「聞かん。大人しくしておれ」
片腕で軽々と担ぎ上げ、そのまますたすたと別室へと運ばれてしまう。
我輩さまがこんなに力があるはず無い。ということは、肉体操作をしているんだ。
三日間筋肉痛になるから、そうそう使わないと言っていたのに。
「自分で歩いて行きますから、下ろしてください!」
「信用できんな」
そのまま魔力で扉を開け、背後のざわめきを締め出すかのように扉を閉めた。
静かな部屋の中を歩き、背もたれに黒い布のかけられた椅子の上へどすんと落とされる。
「……痛いです」
「自業自得だ」
私の文句をさらっと受け流し、正面の席に座る。
今は幸いにも人が居なかったようだ。あの醜態を級長に見られるのは……正直、避けたい。
すぐさま給仕の人がご飯を運んできてくれたけど、私としては一刻も早くここから脱出したい。
だからといってご飯を食べないわけにもいかないので、さっさと食べてしまうことにしよう。
「……早食いは行儀が悪いぞ」
今日は久々の授業で疲れていることを想定されていたのか、人気のある目玉焼きハンバーグだ。
作りたてとろとろの目玉焼きは、外で出される冷えかけたピンク色の黄身のものと違うし、デミグラスソースはとてもいい匂いを漂わせているから、本当なら味わって食べたい。
けど、今日はそれが許されない。
なんてタイミングだったんだろう、運が悪いとしか思えない。
箸で切るとじわりと透明な肉汁があふれ出し、惜しいと思いつつ大きいまま口に押し込む。
あっつい、火傷しそうだ。
でもその熱さより、我輩さまと居る時の正体不明の熱さのほうがよっぽど厄介だ。
ハンバーグと、ご飯と、目玉焼きと、サラダと、お味噌汁と。
口に押し込んで飲み下すのを続けていると、すぐに終わりがみえてきた。
対する我輩さまはまだ箸を付けた程度だから、これなら追いつかれることも無いだろう。
若干の余裕を感じてお茶に手を伸ばすと、背後の扉が開いた。
「おいおいー、外の騒ぎってなんなんだよぉ」
「黒の二人がやらかしたって話だけど、何したの?」
赤と青の級長だ。その後ろには、青の補助役の清水さんも居る。
興味津々な様子で横に立たれた我輩さまは、喉をぐっと詰まらせた。
その隙に食事を終わらせてしまわないと。
「黒峰がぁ、音無さんをさらったって話だけどぉ……そうなのぉ?」
「さらってなどおらぬわ!」
「音無さんは納得してないって顔だね」
青川さんは私のほうも見ていたらしい。お皿に残った物をばくばくと食べ進め、箸を置いて立ち上がる。
「ごちそうさまでした、帰ります!」
「我輩は許しておらぬ」
「プライベートな時間を侵さないでください。あと、先輩から伝言があります」
茜先輩、とは言えないから言葉を強調して言うと、その意味は伝わったらしい。
苦虫を噛み潰したような表情をしたので、さっさと言ってしまうことにした。
「清水さんに一般常識を教えてもらいなさい、だそうです。失礼します」
返事は待たない。我輩さまだって私の返事なんて待ってくれなかったんだから。
きょとんとした級長たちをそのままに扉を開けると、すぐ目の前に人の姿があった。
女子生徒の制服の胸元から顔を見上げると、一瞬びっくりしてすぐに無表情になり、その上で口元に薄い薄い笑みを浮かべた茜先輩だった。
「危ないから、気をつけなさい」
「はい、すみませんでした」
通り過ぎてすぐに扉を閉めてくれたのは、私が逃げ出す隙を与えてくれたのだろう。
でもあの笑みは……なんだったんだろう。
寮に戻ると、クラスメイトがわっと押し寄せてきて説明を求められた。
といっても、私に言えることは少ない。
怒らせてしまい呼び出された、とだけ言うと、少し残念そうにされてしまった。
「黒の級長って、結構力あるんだねー」
肉体強化だけど。筋肉痛を約束された。
「マイク越しじゃない声ってあんな感じなんだねー」
低いけど。不機嫌丸出しすぎる低さだけど。
「でも、相変わらずローブなんだねー」
今日は食堂でもフードを取ることはなかった。
早食いがどうこう言ってたけど、我輩さまだって駄目だったんじゃないか。
ひとしきり話が済んだところで、私は思い切って言ってみた。
「みんなの……恋バナを、聞かせて欲しいんだけど」
一瞬の唖然とした沈黙を経て、さっきとは比べものにならないくらいわっと騒がれた。
空気を揺らすほどの歓声に驚いていると、みんなは口々に言ってくる。
弥代子が恋バナに興味を示すなんてとか、大人の階段だとか、ついに春が来たとか。
してくれるのかくれないのか、駄目なら駄目で諦めようと思っていたら、手に手を取って一つの部屋に押し込まれた。
それからある人は部屋からお菓子を持ってきて、またある人は飲み物を調達してきて、さらにある人は購買でファミリーパックのアイスを買ってきた。
「恋バナって、こんな準備がいるの?」
「いるよーいるいるー! 夜通し語ろうよー!」
明日も通常授業なのに、大丈夫なのか。あくまで比喩だと思いたい。
恋バナ、というのがどういったものだかまだいまいち分からないので、最初は聞くに徹した。
「先輩がね、カッコイイの!」
「クラスの○○君、よくない?」
「××先生だって素敵!」
そんな話を聞いていると、恋バナというのは芸能人を崇めるような、ファン心理を語り合うものに思えてきた。
これが茜先輩が求めた物だったのだろうか。私にはミーハーな思考が必要だとでも?
首をかしげていると今度は、それぞれの恋愛経験の話へ移り変わる。
学園に入る前だから、今と年齢は大差ないはずだ。
なのに……
「どこまで経験ある?」
「えー、B?」
「Bって結局なんだっけ?」
「わたしの学校はハグだったかなー」
「あたしはキスー」
ハグ? キス? それにアルファベット?
一体何の話をしているんだろう。
「卒業式の日にさぁ……しちゃった」
「ええええええええ!?」
しちゃったって、何を?
卒業式でするようなことなんて、頭に浮かばない。
「わー、大人だー、大人様だー」
「相手、どんな人? 何歳? どこでしちゃった?」
「えっと、クラスの男子でー……向こうの家で」
「きゃああああああ!!」
クラスメイトの男子生徒と、相手の家で何かするのか?
勉強? 卒業式にまで? そもそもしちゃった、の前につながる言葉が分からない。
「ごめん、何を話しているかがまったく分からない……」
「弥代子は初心だもんねー」
「キスとか、抱きしめあうとか、そういうの経験ない?」
キス……無い。茜先輩のはカウントしないでいいって言われたから。
抱きしめあう……抱きしめあう?
「抱きしめあうって、どういうの?」
「ぎゅーだよ、ぎゅー! ほらこーやって!」
隣に居た女子が突然背中に腕を回し、引き寄せるように力をこめた。
勢いで前のめりになってしまうと、目の前に柔らかい胸があった。
「えっと……これは、その」
「男子としたのずい分前だー、ハグしたーい」
これはなんというか……気まずい。
似た経験なら……ある。
「抱きしめあうと……どんな感じになる?」
「え? そうだなー、それが男子だったら、どっきどきだよね!」
「かぁーって体温上がるの分かるもん。息するのも苦しくて。でもすっごく気持ちいい」
「安心感? でも恥ずかしいし? ぐっちゃぐちゃな感じだけど、幸せーって感じ!」
どきどき……かぁーっと……ぐっちゃぐちゃ……
支離滅裂にすら聞こえそうな言葉の羅列なのに、理解できてしまう私が居る。
鼓動が速くて、呼吸も速くて、熱くて、苦しくて。
分からなくて、でも嫌じゃなくて。
つまり……?
「そう感じるのは、変なの?」
「変じゃないっしょ、普通だよ」
「むしろ当たり前? だって好きな人だよ?」
すきなひと?
好きな相手?
好意を持っている人物?
「好きな人って……」
「愛しちゃってる人だよー! 愛されちゃいたいなー!
恋して恋されて、命短し恋せよ乙女、だっけ?」
好き? 愛? 恋? なに?
どういうことだ?
我輩さまが私にする行為は、世間一般では抱きしめ、る?
そして私は抱きしめられ、る。
その上で感じる鼓動や息苦しさの原因は……好意?
我輩さまに好意があるかと聞かれれば、あると答える。
でもそれが愛かと聞かれたら、きっと首を傾げるだろう。
愛って、なんだ。恋って、なんだ。
私にそんなものを感じる機能は、多分、無い。
「あれ、弥代子? おーい、大丈夫?」
「う……頭の中、こんがらがって」
愛、恋、好意、好き。
同じような言葉だと思っていたのに、実際はそうではなかったらしい。
理解できない意味を込められた言葉が頭を巡り、結局そのまま頭から通り過ぎる。
無理だ、分からない。
口元に当てられたアイスを口に入れると、甘くて冷たくて美味しい。
甘いから美味しい? 冷たいから美味しい?
でも砂糖だけじゃ美味しくないし、氷だけでも美味しくない。
「弥代子が恋かぁ……クラスの男子で泣くのが数人思い当たるな」
「どんまい!」
私は、我輩さまに、恋してる?
「…………無理だ。諦めよう」
分かるわけがない。
ただでさえ感情が希薄な私が、未経験の感情にすぐに答えを見つけられるとは思えない。
今の話で私の頭の中は情報過多だ。考えるには難しい。
一晩寝て、それから考えよう。
お礼を言って少し他の話をして、自分の部屋に戻ったのは消灯時間ぎりぎりだった。
明日の予習ができてないけど、宿題の答えあわせが多いだろうから大丈夫と思っておこう。