1-1.落し物
それは廊下に落ちていた。
階段の近くの、一年生の端っこの教室の前に。
掃除の時間から帰りの会が終わるまでのごく短時間に出現したそれは、ご機嫌で教室を出たクラスメイトたちを恐怖のどん底に叩き落した、らしい。
「お、おい……これって、死んでるのか?」
「動物?」
「いや、魔獣でしょう?」
「じゃあ死んでるのっておかしくない?」
広い円の中心。
薄汚れつつも元は白かった廊下の上にあるのは、真っ黒な毛皮だった。
なんでそんな反応なのか分からないけど、みんなには恐怖に値する物体らしい。
「どうしたの、それ」
円の外から聞いてみると、ぱっと振り返ったクラスメイトたちがぐいぐいと中心まで引き込んできた。
近くで見たそれは、艶やかな長毛がくったりと撫で付けられ、なぜか時たま紫色の光の線がピリピリと走り、その度に周りがビクつく。
電気なのか魔力なのかは判断しがたいけど、一つだけ分かったことはある。
「……動物の死体ではないよ?」
「弥代子が言うなら間違いないわね! よかったぁ……」
「それはよかったけど、じゃあそれって何なんだよ?」
私の能力を知るクラスメイトは意見をそのまま受け取ってくれたけど、この続きを言うかは躊躇う。
こんなに怖がってるけど、実際そこまで恐れる物じゃないから、その落差で気を落としそうだから。
「……そういえば、黒の級長の魔獣に似てないか? 黒くて紫のビリビリって」
「級長の魔獣がなんでこんな所に? 普通主人の側を離れないし、こんなに弱ることなんてありえないよ」
「でも似てるだろ?」
勇気を出してまじまじと眺めるクラスメイトの言葉に、私の頭の中にもおぼろげに姿が浮かんできた。
黒の級長……はよく知らないけど、確か上の学年の人が何かの魔獣を従えてた気がする。
どんなのかは覚えてないけど、みんながそう言うなら黒の級長の物ってことか。
「届けてあげれば?」
ごく当たり前のことを言ったつもりだったけど、無言で目を剥かれた。
なんでも、怖くて触りたくも無いらしい。
私にはそれの正体が分かったからそこまで怖がるものじゃないけど、みんなにとってはまだまだ得体の知れない物らしい。
「……職員室に届けてくる」
一歩近寄ると周りからわっと歓声が上がり、隣の教室から出てきた生徒が何事かと驚き、私たちのクラスだと分かると不機嫌そうに去って行った。
紫の光の正体が不安だったけど、電気だとしても静電気だし、魔力なら特に問題ない。
手の平で触るとふわっとした感触と一緒にほんのちょっと、ぴりっとした。
この程度ならどうってことない。
意識的に手の感覚を鈍くしてつまみ上げると、思った以上に軽くて温かい毛皮だった。
何かの動物の毛皮。
それがあんなに怖がっていた物の正体だって分かったら、女子はまだしも男子の沽券に関わりそうだったから言わないでおいた。
クラスメイトの声援を背に、黒い毛皮を手に、面倒な気分を胸に抱えて職員室へと向かった。
人口に対し、僅かな割合ながら魔力を持つ人間が存在している。
それは数十年か、数百年か、それとももっと前からかは分からないけど、確かに存在してきたらしい。
その僅かの人間を公的に管理し始めたのは、たった数十年前からだった。
私が通う学校、国立魔力指導学園、略して魔導学園は小高い山の上にある。
半強制的に魔力を持つ子供を集め、強制的に完全寮生活を強いている。
最初はなんだそれはって思ったけど、自分の魔力を完全に制御できない人間が、魔力を持たない一般人と同じ環境で過ごせるはずがないって説明をされて納得した。
言ってみれば、何も知らない子供が弾が詰まった拳銃をぶら下げてるようなものだと。
故意でも事故でも、他人を傷つけるかもしれないし、使い方を誤って暴発するかもしれない。
そうならないように、義務教育が終わってから一所に集められ、三年間同じ属性の魔力持ちと一緒に生活して、制御を学ぶのが目的だそうで。
そんな私が振り分けられたのが、一年無B組。
一つ漢字が挟まるだけで呼びづらいことこの上ない。
意味は、一年生、無属性、B組。
隣のクラスはA組で、能力の優劣で分けられてる。
つまり私のクラスは無属性の魔力持ちの中でも下位ランクに相当して、A組の人からはおちこぼれ扱いを受けている。
私程度の魔力でも、千里眼とか過去視や未来視とかあればまた違うんだろうけど、そういうのはあくまで歴史上に数える程度しか居ない存在らしいから考えてもしょうがない。
そもそも、無属性自体が魔法の中でも下位で、その更に下位ってのは本当の意味の下の下。
だから教室は端っこで暗いし、当番制の廊下掃除は適当で薄汚れてるし、全属性と無のA組からは蔑まれてる。
だからこそ、クラスメイトの仲はすこぶるいいのかもしれないけど。
そんな私たちのクラスの前に、黒の級長の落し物だなんておかしな話だ。
火の赤、水の青、木の緑、土の茶、光の白、闇の黒。あと無属性。
こんなに多くの属性というかクラスがあって、AとBがあって、えーっと……十四組。
それなのになぜあえて、下の下の教室の前で落し物をしたんだろう。
階段は三箇所もあるし、近くに特別教室があるわけでもない。
裏庭は日陰で陰鬱な雰囲気だから人が近寄ることもないし……黒って闇だからそういう場所が好きだったり?
……そんなまさか。
放課後とはいえまだまだ日の沈まない校内を歩いていると、遠くから男子生徒が歩いてきた。
目に力を入れて制服を見ると、黒の組の人だった。
魔導学園といいつつ、制服は濃い灰色のブレザーに黒のスラックスとスカートという普通っぷり。
男子はネクタイ、女子はリボンの挿し色でクラスが分かるようになってる。
無は無。ベースの灰色一色。
その人は落ち着かない足音を鳴らし、視線を足元でそわそわと動かし、ほんのり汗をかいていた。
その様子は、確実に探し物をしている人だ。
私との距離は全力ダッシュしても十秒はかかるだろう距離だから、方向転換するなら今のうちかもしれない。
でも、あの人の探し物がこれだったら、わざわざやたら遠い職員室まで行かないで済むかもしれない。
そんな葛藤をしていると、はたと顔を上げた男子生徒とばちっと目が合ってしまった。
黒の組らしく、真っ黒な髪に真っ黒な目。あ、違う。ちょっと紫。
確か、強い魔素は瞳に映りやすいとか聞いたことがあるから、それなのかもしれない。
闇属性の魔素は、紫色なのだろうか。
そしてその目は私の手元を見て固定された。
探し物はこれだったらしい。
「………………貴様、それをどこで拾った」
早足でずいっと近寄り、顎を突き出して見下ろしてきた。
身長がそもそも段違いなのに、更に見下ろされるともはや顎しか見えない。
口調と相まってとてつもなく偉い人に思えてくるのが不思議だ。
「教室の前です」
「どこの組だ」
「一年無のBです」
あの態度は私が下位クラスだからって訳じゃなかったらしい。
標準であれって結構すごいと思う。真似出来ないししたくないし周りにあまり居て欲しくない。
「何故それを持っている」
「クラスメイトが黒の級長……さんの魔獣に似ていると言うので、職員室に届けようかと」
「他人の魔獣に触れるなど、正気の沙汰ではないな」
鼻で笑われた。
確かに、他人の魔獣は魔力の相性や強弱によって反発したり攻撃されたりするらしい。
本当に魔獣だったら私だって触らず先生を呼んだ。
「魔獣じゃないので触りました」
「……じゃあそれは何だと言うのだ」
「黒い動物の毛皮です」
「…………」
黙ってるけど、この人は結局黒の級長なのかそうでないのか。
そうならさっさと渡したいし、そうでないならさっさと届けに行きたい。
突き出していた顎を戻したかと思うと、今度は眉間に皺を寄せて睨んできた。怖い。
「……どうしてそう思う」
「どうしてって……」
目で見て、毛皮みたいだと思った。
耳で聞いて、鼓動が聞こえないと思った。
鼻で嗅いで、動物の死体ではないと思った。
肌で触って、毛皮だと分かった。
それをそのまま伝えると、眉間の皺はそのままだったけど睨むのはやめてくれた。
この様子だと、この毛皮の正体を知られたくなかったらしい。
もう知っちゃったからどうにもできないけど。
「……そうか、無の肉体操作か」
納得したようにぽつりと呟かれ、剣呑な空気が和らぐのを感じる。
無属性は、火だとか水だとかみたいに何かを操ることは出来ない。
唯一できるのは、自分の肉体に関することのみ。
脚を速くするとか力を強くするとか、汎用性の高いものが多い。
そしてそれを会得している人は多く、そもそも、他の属性の人だってある程度は出来る。
だからこそ下位。誰でも出来るから下位。
その中でも私は、五感操作が得意。
目、耳、鼻、口、肌。
学園内での需要は限りなく低い。
「貴様以外にそう思った者はいるか」
「見ていた人は、動物の死体か誰かの魔獣かと言ってました」
「ならば……貴様が口を割らねばこれが漏れることは無いな?」
「そうだと思います」
口を割るって言っても、こんなこと誰かに言ったところでなんにもならないだろうし、私が興味ない。
漏れて困るような物ならもっとちゃんと管理すればいいのに。
「……貴様に呪いをかけよう。このことを口にすれば心の臓が止まるとな」
額に指を置かれ、離される。
同時に私の手の中から毛皮を奪い、そのまま去って行った。
「……呪い?」
置かれた指からは何の魔力も感じず、全身の感覚を探っても異常なし。
「はったりか」
そう判断し、何はともあれ目的は果たしたのだからと寮の自室に向かった。
肩身の狭い下位クラスは食堂の使い方に気を遣わなきゃいけないから、さっさと帰るに限る。
そんなことがあった数日後。
またしても、ご機嫌で教室を出たクラスメイトたちを恐怖のどん底に叩き落した。
「弥代子ーっ! また居るっ!」
男女問わずキャーキャー言いながら廊下に押し出されると、そこにはいつぞやの毛皮が落ちていた。
今日も相変わらず紫色の光がパリパリしてる。
あの一件のあと、偶然にも黒の級長とその魔獣にお目にかかる機会があった。
こないだとは違い真っ黒なローブを羽織って、顔が半分しか見えないのにやはり偉そうな様子で、その肩の辺りに黒色の球体がぷかぷか浮かんでいた。
長い毛をゆらりゆらりと逆立て、紫色の光をバリバリ漂わせていた。
何でも、名称はプラズマと言うらしい。
魔力が強いとか各属性の本家とか、そういう人は自力だったり他力だったりで魔獣を得る。
核となる魔石と、肉となる魔力さえあれば作り出せるらしいけど、その両方を持てるのは稀有らしい。
魔獣は自分の魔力の貯蔵庫であることが多く、人によってはファッション感覚だったりするとか。
一般庶民の私には縁が無い存在だ。
そんな魔獣と似た毛皮は何を意味するのか。
深入りするととんでもなく面倒なことになりそうだから考えないようにする。
こうしていても仕方がないし、渋々毛皮を摘まみ上げ、今度は黒の級長の作業部屋なる場所へ向かった。
友達との会話の中で知ったところによると、各属性の級長……三年生のA組のトップは、校舎内に部屋を支給されているらしい。
級長は実はなかなか仕事が多く、集中して作業をするのと捕まえやすくする為だとか。
放課後はそこに居ることがほとんどで、関係者や取り巻きが出入しているらしい。
そんな中に行くのは億劫だから、様子を見て微妙だったら近くに投げ捨てておこうと思う。
できるだけ人の少ない廊下を選んで進み、ようやく見つけた黒の級長の部屋。
幸いなことに見た目に人の気配は無く、音も特に聞こえない。
最悪、本人が居ない可能性もあるけど、それならそれで室内に投げ捨てる。
真っ黒な扉をノックし、返事を待った。
やたら詰まった音がしたから、防音仕様なのかもしれない。
かといってチャイムがあるわけでも覗き窓があるわけでもない。
そうなると、勝手に開けるしか方法は残っていない。
「失礼します」
想像以上に重い扉を手前に引っ張り、出来た隙間に身体を滑り込ませる。
静かに扉が閉まったかと思うと、部屋の中は真っ暗闇だった。
自分の爪先どころか指先すら見えない暗闇。
視力をいくら強化したところで高が知れてるから、素直に目が慣れるのを待とうとじっとしていると、ぼぅっと蝋燭が灯った。
手前から左右均等に順々に。
ぼぅ、ぼぅ、と小さな音を立てながら広がる蝋燭の明かりの先には、真っ黒な机に向かう真っ黒なローブを被った真っ黒な瞳の人物が居た。
「貴様、誰の許可を得て入ってきた」
椅子に座ったまま下から睨み上げられ、強い圧迫感を感じつつも数歩近付いた。
魔力の実技の時間に着るローブをすっぽり被ったその人は、顔と手の白さが際立つ。
「ノックをしても返事がありませんでした」
「この部屋は音が入らぬようにしている」
「では、どうやって入るんですか?」
「念話だ」
「念話?」
聞き覚えの無い言葉だ。
念話……念じて話す、か?
「他色は念話を使わないのか」
「はい、初めて聞きました」
他のクラスは習ってるのか、それとも黒のクラスだけのものなのか。
後者だったら、どうやって入室許可をもらってるんだろう。
「この部屋に入れるのは、念話を修め、こちらが決めた人間のみとしている。
得体の知れぬ人間を、黒の領域に踏み込ませない為にな」
「私、入りましたけど」
「貴様のような入りかたをする輩が居るとはな……。
この学園の生徒ならば、黒の恐ろしさを知っている筈なのだが」
「ごめんなさい、知りませんでした」
無のBは校内の噂に疎い。
中と縦の繋がりは強いけど、みんながみんな、横の繋がりが皆無なんだから当たり前のこと。
校則ならば知ってるけど、暗黙の了解みたいな事柄は一切入ってこない。
「…………ならば仕方ない。
我輩に何の用だ? 興味心で来たのならば、覚悟は出来ているだろうな」
……我輩。
…………わがはい?
今時なんという一人称。
ただ、黒とか闇とか級長とか、そういう前情報があるとなぜか不思議としっくりくる。
「落し物です」
腕を伸ばして真っ黒な机の上に真っ黒な毛皮を乗せた。
黒の上の黒とか、部屋の真っ暗闇のせいでもはや何が何だか分からない。
時たま光る紫色でどうにか存在を確認できるか。
「――――っ、貴様、これを何処で!」
「教室の前です」
「……まさか」
「一年無のBです」
それにしても、何で二回も同じ場所で落としたんだろう?
前回と同じく私のクラスの前を通ったのか、それとも通ってないけど落としたのか。
疲れたようなため息をつく様子を見るとなんだか後者のような気がしてきた。
「……貴様、この事は」
「誰かに言うつもりはありません」
級長なんて立場の人を敵に回したくない。
味方にもしたくないけど。
だから深入りしないし、興味も持たない。
安全第一。
「では、失礼します」
蝋燭程度の明かりでも多分分かるだろうから、一応お辞儀をして扉へ向いた。
実際、扉から歩いた距離は十歩にも満たないから取っ手はすぐに届く。
この重たい扉を押し開けて、そろそろ日が沈み始める時間になってるだろうから、さっさと寮に帰ろう。
「――――待て! 出るな! ぷー!」
ぷー?
細く薄く光が入ったところで振り返ると、さっきまで居なかった得体の知れない物体と、それを追いかける黒の級長と、遅れるように黒いローブとが視界に入り……
「ぷぷぷーっ!!」
「っぶ!?」
その、得体の知れない物体が顔面にぶつかってきたかと思うと、その後ろの全部が迫ってきた。
つまり……黒の級長がそのまま突っ込んできて、私は後ろから床に打ち付けられた。