Part 6
リリィは机の上のある、金属で出来た長方形の物体を手に取った。
細長いそれは縦に二つに分かれて、内側に収められていた刃が現れた。
その年季の入ったバタフライナイフは、ルーディ・リンツの所持品で、
あの夜、アランが去り際に彼の亡骸から掠め取ったものだ。
ロニー・ディンツの首飾りから掴めたのはルーディの居場所だけで、
それもかなりの偶然だった。
数年前、警察として缶詰街に派遣されていたロニーは
そこで偶然、街で幅を効かせるルーディと顔を合わたものの、
お互いの立場もあってか、以降、接触することも言葉を交わすことも無かった。
ルーディを始末することに成功したが、次に繋がる物を入手しない限りは、
二人の旅の目的地も変わってくるし、永遠に手詰まりとなる可能性だってある。
「じゃあ、始めるけど、後のことはよろしくね?」
ああ。と、窓際にたたずむアランは返事した。
細切れの雲が無数の影を落とす緑の農地で、
ジェファーが畑仕事をしているのが見えた。
双子の子ども達もまた、彼女に付き従って何かしている。
リリィは採れたての卵を扱うように、ナイフを両掌で包んだ。
閉じられた瞼の裏に、一瞬、稲妻が過ぎったと思うと、
やがて暗闇が晴れて、景色が広がり、彼女の意識はその世界に入っていた。
それはナイフの記憶であり、ルーディの過去でもあった。
自分がそれを手の中に包み込んだ瞬間から、リリィは時間を遡る。
缶詰街を後にするアランの姿。
娼婦らしき女性。
夜の路地にうずくまる男たちと、ルーディの亡骸。
ナイフを持って首筋に襲いかかるのは、暗殺者としての兄だった。
断末魔の瞬間を目の当たりにして、リリィは耳を塞いだ。
惨憺たる時間を逆行した。彼女は帝国崩壊の場面を垣間見た。
噴煙に塞がれた空から、無数の火の玉が降り注いだ。
すり鉢状に削られた大地。そこには大陸を統べる帝都があった。
ルーディは呆然と荒涼とした大地を眺めていた。
彼の周囲には仲間がいた。若きロニーや、その他の男たちが。
そして、リリィとアランの親となる、二人の男女も。
男たちは黒い軍服を纏い、黒い鉄の首輪を嵌めていた。
傷付き、疲弊した様子の彼らは一言も発することなく、
巨大な文明と体制の崩壊を目の当たりにしていた。
場面が転換し、勝手知ったる民家が視界に入る。
『あっ』と、リリィは声を上げた。
それは彼女の生まれ育ち、家族と過ごした家だった。
数年足らずの記憶でもリリィは克明に覚えている。
眠れなかったあの夜、彼女は蹄鉄の音を聞いていた。
馬に乗った男たち。地平線に揺れる、七つの松明の灯。
彼らの首には、黒い鉄の首輪があった。
『ダメッ』
彼女の制止の声は届くはずもなく、馬は民家へと駆け出した。
追いかけようとするリリィだが、不意に彼女の背中を強い衝撃が襲った。
リリィは現実に引き戻された。
アランが背中を平手で強く叩いたのだ。
彼は呆然とするリリィの顔を覗き込んで、
「何回か揺すったんだけどな」
「どうしたの?」
「尾けられてたみたいなんだ」
「誰に?」
アランは既に荷物を纏めたようで部屋の中はスッキリしていた。
「わからない。でも明らかに普通じゃない」
「そんな」と呟いて、リリィは立ち上がり窓から慎重に外を伺った。
「何処にいるの?」
「裏でぶっ倒れてるよ」
「えっ、もう片付けたってこと?」
「言ったじゃないか。“尾けられてた”って」
アランはリリィに彼女の荷物鞄を投げ、自身もトランクケースを担いだ。
「行こう」
「ジェファーさん達へ、挨拶も無しに?」
「時間がない」
「でも……」
リリィの手を強引に取り、アランは小屋を飛び出した。
扉のすぐ横にはスキンヘッドの男が仰向けで倒れていた。
「死んでるの?」リリィが小声で聞くとアランは首を横に振った。
彼女は、男の照り光る頭部に触れた。
「あと三、いえ、四人」
アランは腰のベルトに提げているナイフの、鞘の留め金を外した。
「高い山…山脈、雪が降ってる…港町ね…」
「さぁ、ここを離れよう」
道に出ると、二人は遠くに見慣れぬ大人たちを見た。
いずれもゴロツキといった風貌で、農夫たちに何かを尋ねている。
「街道は無理かもな」
アランは舌打ちして言った。
「こっちに……」
リリィが手招きする。
二人は畑の中へ入って行った。
大人より背の高い茎と大きな葉がカーテンとなり、二人の姿はすっぽりと隠れた。
途中、アランが葉っぱの間から顔だけ出して後方を覗くと、
自分達の使っていた小屋に、二人の男達が入っていくのが見えた。
「やはり追っ手か」
「どうしたの?」
「小屋に入って行った。間違いなく俺たちを探してる」
鞄を抱きかかえたリリィが息をのむ音が聞こえた。
ここで事を起こすのはまずい。
いまは真昼で、四人を相手するには明るすぎる。
リリィは記憶を読み取る以外には至って普通の少女だし、
彼女を庇いながらの戦闘なんて万に一つも勝ち目がない。
ジェファーなら……あるいは協力してくれるかも知れないが、
あのような善良な人々に、自分達の旅の目的を知られることをアランは恐れた。
すれ違った農夫が畑を突っ切ろうとする兄妹を見て、
「こらこら、入ってきちゃダメだ」と、怒鳴った。
急速に迫って来る足音を察知して、アランは走った。
彼の前を行くリリィは、振り返ろうとして、背中を突き飛ばされた。
同時に、視界が大きく開けた。
二人の両脇に天高く伸びていた緑の茎たちが、水平に斬り落とされたのだ。
無精髭を生やした小太りの男が、草刈り用の大鎌を両手で構えて現れた。
アランがナイフを抜く。
「兄さん!」
「走れ!」
アランは小さく声を張る。
男は鎌を二度、三度と左右に薙ぎ、周囲の茎が宙を舞った。
しかし、両手で扱う大鎌は間合いこそ広いが、機動力はナイフに分があった。
アランは鎌の軌道より更に低く、トカゲのように地に伏して刃をくぐり、
四本の手足でもって跳躍してナイフの刃を男の二重アゴの隙間に滑り込ませた。
グォンと、ウシガエルのように低い唸り声を上げ、
男は喉から鮮血を噴き出し、周辺の葉に赤黒い斑点を撒き散らした。
崩れ落ちる男をよそに、アランはリリィを追った。
畑と牛舎を突っ切って、柵を飛び越えて農場を出た。
日が暮れる頃には、二人はまったく別の、見知らぬ場所にいた。
「どうする、これから?」
すっかり息の上がったリリィは、兄の顔を見上げた。
「……隠れよう。まずはそれからだ」