Part 3
十五年ほど前、ルーディ・ヨーゼフは荒野の向こうからやって来た。
浮浪者の風貌をした彼は一匹狼で、他人を信じようとしなかった。
当時、缶詰街では各地から紛争を逃れてきた難民が大挙して押し寄せて、
肥大化した貧民地区では若者が民族ごとに徒党を組み、衝突を繰り返していた。
行き過ぎた喧嘩はときに無関係の人々を巻き込み、死者も出た。
ルーディは、半年と経たずに彼らを乗っ取り、吸収し、手中に収めてしまった。
彼にとって、それはそう難しいことではなかった。
頭目とはいえ所詮は不良、軍人上がりのルーディは無敵だった。
頭目を潰された若者たちは、拠り所を求めるかのように彼に従順になった。
ルーディは当初こそ賞賛されたが、結局、彼は救世主ではなかった。
不良たちを従えた彼は暴虐の限りを尽くし、恐怖で街を支配した。
命こそ奪わなかったが、それ以外のことはやりたい放題だった。
物盗りや無銭飲食、恫喝に暴行、抵抗する者にはその場で私刑を加えた。
缶詰街にも選挙で選ばれた保安官こそいたものの、いずれも服従を強いられた。
なによりルーディの息のかかった少年少女は街のあらゆる場所に潜んでおり、
本人はおろか、家族や知人友人すらも脅迫の対象としていたのである。
唯一の回避法は、彼らと関わりを持たないことである。
顔や名前、家、仕事場、家族の顔を絶対に覚えられないこと。
ルーディ・ヨーゼフの名を口にすることさえも、度々はばかられた。
太陽が沈んだ頃、缶詰街の中では電灯に明かりが灯った。
とある一軒の酒場が、下卑た歓声と怒号に溢れていた。
紫煙の充満する空間で、腰の曲がった初老の店主が接客に追われていた。
店を占拠しているのは、悪名高きルーディ率いるゴロツキ集団であった。
彼ら以外に客は居らず、みな思い思いの場所で酒盛りをしている。
男たちの傍らには半裸の女が複数人いて、一様に浮かない顔をしていた。
どれも日銭欲しさに危ない橋を渡ろうとする夜鷹、売春婦たちである。
ルーディは店の奥、一段高いVIP席の黒革のソファにふんぞり返り、
若い女を隣に置いて、空の酒瓶の並ぶテーブルに軍靴の踵を乗せている。
彼は右手を女の胸元に滑り込ませて中身を弄りながら、
左手で酒瓶のくびれた場所を握り、時折、アルコールを流し込んでいる。
その動作は、味わうというより、補給という言葉のほうが相応しい。
「試してみろ」
唐突に、ルーディは呟いた。
「えっ」
「気になるんだろ」
女は目の前のテーブルにある、小箱に収まった、細長の巻き物を見た。
青々しさを残した葉が数枚重ねて巻かれているそれは、
噛みタバコに似た嗜好品だが、その効力は絶大であった。
女は喉を鳴らした。
「経験あるのか」
「一度だけ…」
女がうつむきがちに言うと、ルーディは鼻で笑った。
彼女は彼の右手が胸から離れないようにしながら、その草巻きに手を伸ばした。
その時、気弱そうな店主が、両手を擦り合わせながら歩み寄ってきた。
「あのぅ、ルーディさま……」
ルーディは返事も、視線すら動かすことなく、人形のように酒を煽った。
「相席を希望する方がおられまして…」
「だからなんだよ」
「あの、それで、その方というのがですね…」
「随分な荒れようね」
店内に響いた女の声。
入り口に立つ彼女に、その場の全員の視線が集まった。
ユニ・ブルーメであった。
店内の乱痴気騒ぎが、彼女が現れた一瞬、教会のように静まった。
その黄金比たるプロポーションには、聖母のような神々しささえあった。
ユニは、そこにいる男たちを値踏みするように、
視線を上下に動かしながらピンヒールを鳴らして店の中を進んだ。
「噂で聞くほど、悪くないじゃないの」
男も、女さえも、誰ひとりとして微動だにしない。することなど出来なかった。
彼女の髪が揺れるたびに、後方にはコロンの香りが広がる。
タールやニコチンを物ともせず、雌雄隔てなく鼻腔を魅了されてしまう。
それは、質の良い香水がそうさせているのではなく、
彼女自身から発せられる、フェロモンなる物資の働きに相違なかった。
そして、更に男たちを驚かせたのは、
ユニの後に続いて、娼婦の一団が続々と店内にやってきたことである。
「おいおい、何だ何だ」」
若い男たちは突然のことに困惑しながら、口もとの緩みが治らない。
「誰が注文しやがった!」
「ちょっと、今夜はココで呑むつもりだったのに!」
ユニは店の中央で周囲を見回しながら、溜め息混じりに言った。
彼女の連れてきた女達もまた、クスクスと笑い声を上げた。
「アンタ達の貸し切りだなんて聞いてないわよォ」
「別に貸し切っちゃいねぇよ」
ソファに座ったまま、ルーディは言った。
「仲良く飲もうじゃねえか」
彼の右手は、女の胸から離れていた。
女はルーディを一瞥すると、草巻きをひとつ掴んで、足早に去った。
他の売春婦たちもまた、はした金を掴まされて早々に追い払われた。
街灯に立つ彼女達は、正式な店をもつユニ達には敵わなかった。
両者には明確な上下関係があり、両者ともそれを認知していたから、
女達は不平不満を漏らすことはなく、ユニも彼女らを追いはしなかった。
店内は文字通り、酒池肉林の様相を呈した。
ユニの連れてきた女達はいずれも目を見張るほどの美女であった。
彼女達は正しく腕利きの娼婦で、雄の理性を揺さぶる魔性の術を持っていた。
背中と側面の大きく開いたドレス姿の娼婦達が、滑らかにくねり、
上等なロングスカートの隙間から健康的な太ももを覗かせるたびに、
男達は取り憑かれたように熱狂し、人から獣へと変貌するのだった。
「どいつもこいつも、羨ましいね」
ルーディは酒宴を眺めながら言った。隣にはユニが寄り添う。
「あなたは参加しないの?」
「お前こそどうなんだ」
「報酬次第に決まってるでしょう」
ユニはワイングラスに口をつけた。
彼女の嚥下する喉の動きを、ルーディは横目で見ていた。
白磁のような肌は艶めかしく照りひかり、激しく官能的であった。
酒をあおって朦朧としていたルーディに、その誘惑は耐え難かった。
「それに、騒がしいのは好きじゃないの」
「だったら、場所を変えるか?」
ユニは彼と一瞬だけ視線を交わした。
ルーディは、その日、酒場に来て初めて席を立った。
二人は薄暗い路地を進んだ。
近道をしようと言って、ユニはルーディの手を引いて細道に入った。
遠くの表通りの街灯がわずかに届くのみで、あとは土地勘だけが頼りだった。
「もうここらで良いじゃないか」
「もう。慌てないで」
配管の畝り生える壁を両脇に見ながら何度も左右に曲がる。
ユニの手に力がこもった。彼との待ち合わせ場所まであと少し……。
蒸気を抜け、閑静な居住区が眼前に広がる。
二人は歓楽街の端まで来ていた。
「ほらほら、もう良いだろう」
耐えかねたルーディはユニの背中に覆い被さった。
「あん、もう」
抱きかかえられた彼女はキャッキャと笑った。
ルーディの節くれだった指が、ユニの胸元にスルスルと分け入る。
布の上から、腰や尻を、指先を這い回る。
「綺麗な肌だ。どこにも縫い目がない」
彼は感嘆の吐息をユニの首筋に吹きかけながら、
「どこもイジってないなんて、今どき珍しいじゃないか」
と、彼女の細い顎に手を添えて顔を引き寄せた。
「何を企んでいるか言え」
「…なんですって?」
それまでの彼とは打って変わり、ユニは思わず背筋を凍らせた。
下衆な男とは数多く顔を合わせてきたが、彼は格が違う。
目はトロンと沈み、一見して慈愛に満ちた表情にみえるが、
それは支配して蹂躙するものに対する、偏屈な愛情に他ならない。
暗闇から若い男達が一人、二人と出てきて、ユニは囲まれた。
「俺を誘ったつもりだろうが、その手には乗らん」
「…騒がしいのは嫌って、さっき言ったでしょ…」
バチンッ、と平手打ちの音が響いた。ユニがルーディの足下に崩れる。
「この売女め、チヤホヤされて調子に乗ってやがる」
ルーディを含めた四人の男が、へたり込む彼女を見下ろしていた。
───彼の言っていた通りだった。やはりこの男は抜け目ない。
自身の周りには常に用心棒を置き、二人きりになるつもりなど毛頭無いのだ。
「お前、この街で自分だけは上等だと思ってんだろうがな」
ルーディは、煙草に火を付けながら、
「所詮、ただの穴ボコなんだぜ。その役目も今日で終わりだがな」
「私に何かあったら、この街は必ずアンタを許さないよ」
「ホホっ、そりゃ楽しみだ」
降りかかる嘲笑が大きくなり、男達の輪が狭まってくる。
すでに男の中にはズボンを下ろしている者もいる。
荒い息遣いが迫ってきて、やがてそれは、つんざくような悲鳴へと変わった。
───来た!
遠くに響く喧騒。金属の衝突音。虚しい断末魔。
ユニは耳を塞いだ。
早く終わってくれと切に願った。
どれほどの時間が経ったのか、辺りはしんと静まり返り、
やがて肩を軽く叩かれて、ユニは恐る恐る顔を上げた。
周囲には重なって横たわり、ピクリとも動かない男たち、
そして鮮血の中に倒れるルーディが、天を仰いで固まっていた。
「終わった…?」
「ああ」
アランは血に塗れたナイフを布きれで拭い、鞘に収めた。
「大丈夫か?」
ユニの頬は赤く腫れ、叩かれたほうの鼻から血が出ていた。
彼女は少しだけ口を動かして、すぐに首を振った。
立ち上がり、口の中をモゴモゴと何度か動かしたかと思うと、
ベッ、と赤黒い唾を壁際に吐き捨てた。
「まったく。痕が残ると仕事にならないじゃない」
アランは、そっと手巾を差し出した。
ユニは、ありがとうと小さく言って、鼻の下を拭った。
麻で出来た白のハンカチは、仄かに石鹸の香りがした。
「貴方は?なんともないのね?」
「いや、死ぬほど痛い」アランは震えていた。
「アイツら鉄筋なんて振り回すんだ。左腕が痺れて仕方ないよ」
そう言って彼は、地面に伏せる男たちを見た。
「じゃ、急いで手当てしましょう」
ユニは呆れたように笑った。
「娼館に行けば、薬も道具も揃ってる」
「酒場の連中は?」
「あんなガキどもが相手なら、夜明け前には帰って来るわよ」