Part 1
「ロニー・ディンツ」
朝靄漂う街、レンガ造りのアーチ橋の下で、
名前を呼ばれた男は振り返り、カンテラの光を掲げた。
「誰だ?」
「ロニー・ディンツに相違ないな?」
ロニーと呼ばれた男は、闇にたたずむ人影を睨みつけた。
彼の真の名前を知る者は、この街でもごく少数に限られており、
それを軽々しく口外する行為は、その者にとって致命的な意味を持つ。
「私はロバートだ。ロバート・マクラウド」
「それは、この街の中での名前だろう、マクラウド巡査部長」
その者の声は冷静で、精悍さとすこしの幼さが垣間見える。
「おかしなことを言う」
ロバートと名乗った彼は呆れたように笑いながらも、
「どこでその名前を知った?」
と、不審な男の顔を暴こうと、少しだけ歩み寄った。
彼に戦慄が走った。
灯りに照らされた男は、古めかしい奇妙な格好をしていた。
顔の下半分は黒のスカーフで覆われ、表情はうかがえなかった。
しかし、そんなことはもはや巡査部長にとってどうでも良かった。
男の身に纏っているダークグレーの軍服に、彼の視線は釘付けになった。
「それをどこで──」
「自身の所属すら忘れたか、ロニー曹長?」
「く、貴様ッ!」
腰の警棒を引き抜いた瞬間、ロニーは男を見失っていた。
すでに彼は身を低くして地を駆け、眼前に迫っていたのだ。
手からカンテラが落ちる。ガチャンと音を立てて地面に小さな炎が踊った。
ロニーは後ずさった。刃が胸をかすめた。
左手は橋、右手には川が流れている。後ろへ逃げるか、応戦するしかない。
だが、ロニーの顔には早くも絶望の色が見え始めていた。
足もとは朝露に濡れる石畳。荒ぶる相手に対し、こちらは踏ん張りが効かない。
悪足掻きに繰り出し、押さえ込まれ、掌底を浴びた右足が砕け散る。
彼の右足は義足だった。
アアッ、と情けない声を上げて倒れたロニーの、なんと哀れな姿だろう。
戦意を喪失した彼は、脂汗を浮かべて、尻尾の切れたトカゲのように石畳を這う。
「た、助けて、誰か、助けて…」
悲痛な声は、いまだ眠りにつく街角に虚しく響き渡った。
ロニーはひるがえって、無情な目でこちらを見下ろす男に、
「待った。やめてくれ。まずは話し合おう」と、涙ぐんだ声を投げた。
「なにか私に対して遺恨があるようなら、この街には裁判所がある。それで…」
男は仰向けの彼に強引に馬乗りになった。
「おい、聞いてるのか。訴えを起こせば、裁判で然るべき判決が──」
男は、目視で冷静に心臓の位置を推し測り、
命乞いの声に耳を貸す素振りもみせず、ナイフの刃を挿入した。
「待て、待て待て、あ、がっ……」
凶刃を受けたロニーは眼を見開き、胸を小刻みに震わせた。
更に男は、左手をナイフの柄に添えて、体重を乗せて刃を押し込む。
「カッ!」と、ロニーの喉が空気を渇望するように唸りをあげた。
逆流した生き血が口から溢れ出し、急速にロニーの抵抗は弱まった。
ロニーは絶命した。
男はナイフを引き抜いた。
真っ黒な血が顎を伝い、紅い小川となって、隣の清流に合流した。
男はロニーの首元を探り、ネックレスを見つけると、
それを力任せにもぎ取り、風のように薄闇へと消えてしまった。
遠く山の際から、朝陽が頭を見せている。
音を立てないよう、そっと扉を開けて外に出た少女は、
彼女が使うには大きすぎる籠を抱えて、朝の景色を見渡した。
朝の冷気を鼻から勢いよく吸い込み、寝起きの自分を覚醒させ、
ハァ、と大きく息を吐くと、息の形に大きく白煙が舞った。
それは、最近の彼女の密かな楽しみであった。
道を歩きながら「おはよう」と途中にある家畜小屋へ声を掛けると、
柵の二段目から子山羊たちが顔を出して、メェと鳴いて応えた。
向かう先には一戸建てがあり、少女は裏手に回ると勝手口の扉を叩いた。
壁から伸びたL字の煙突からは蒸気が昇り、なにやら良い香りがする。
扉が開き、小太りの女性がひょっこり顔を覗かせた。
「あら、リリィちゃん、おはよう」
「おはようございます、ジェファーおばさん」
中年の女、ジェファーは快活な笑みで返した。
リリィは、寝所としての離れの小屋と、食事を分けてもらう代わりに、
小間使いとなって日々の仕事の手伝いを請け負っていた。
食事の支度と片付けは勿論のこと、畑の手入れから家畜の世話まで、
知らないことは教えを乞い、頼まれれば何でもやった。
リリィはまだ幼さを感じるものの、持ち前の機転と器用さで用事をこなし、
それを見ていたジェファーは、働き者の彼女をすっかり気に入っていた。
「お兄さんは、まだ寝てる?」
「ええ、昨日も遅くまで働いてたから」
「大変ねぇ」
リリィは籠を置くと、すぐに水桶を持って外に出た。
手押しポンプの井戸から水を汲んで戻り、そこで雑巾を絞ると、
家の東西にはしる廊下を、端から端まで拭き始めた。
当初こそ手伝いを遠慮していたジェファーだが、
食い下がるリリィに根負けした今は、彼女の好きなようにさせている。
廊下が終わると食堂、居間、階段、玄関を拭き、
何度も雑巾をくぐらせた水桶は灰色に淀んでいた。
「ウチのおチビ達にも、あなたを見習わせないとね」
ジェファーは、水を捨てて戻って来たリリィに言った。
「今日こそ、一緒に朝食をどう?」
リリィは気まずそうに笑いながら、両手で持った桶を床に置いて、
「御免なさい。これ以上、お世話になるのは…」
「お兄さんが?」
リリィは、ぎこちなく頷いた。
そっかそっか。と、ジェファーも理解を示した。
「ごめんなさい。せっかくのお誘いを、いつも断ってばかりで…」
「そんなことない。リリィちゃんには助かってるよ」
ジェファーはリリィの持ってきた籠にパンと豆のスープ煮、
朝食に作ったゆで玉子、それと手のひら大の紙包を渡した。
「これは?」
「ベーコンよ。私が燻したの」
リリィは包みを少しだけ解いて中身を覗いた。
黒胡椒をまぶした、艶々として香ばしい、脂身の多い豚肉だ。
「わぁ、すごい。ありがとう」
「さっきのは気にしないで、リリィ。そりゃ一緒に食べられたら最高だけど」
「うん」
微笑むリリィに、ジェファーは悪戯な笑みを浮かべて、
「それに、その気になればコッチから小屋に行くことだって出来るし」
「ふふ、それなら兄さんも文句なしね」
寒気がして、彼は思わず身をよじった。
そして自分がひどく汗をかいていることに気付いて、彼は飛び起きた。
敷いていたシーツは、見事に自分の形に色が変わっていて、
薄い寝間着は素肌にペットリ張り付くほど寝汗にまみれていた。
扉が開いた。妹のリリィだった。
「あ、起きてたのね」
「ちょうどいま起きたところ」
アランは汗を吸った寝間着を、洗濯用の籠に投げ入れた。
「すごい汗。大丈夫?」
ああ。と返事して、彼は身体の汗を拭った。
「今日は俺が洗濯するよ」
首から肩、背中にかけて、汗に濡れる筋肉が朝日に光った。
筋骨隆々と呼ぶには、中肉中背の彼だと細身すぎて迫力に欠けるが、
ひたすらに無駄を削いだ鋼の肉体は、一見して害がないようで、
その実、冷徹で実戦的、肉食獣のような野心をはらんでいる。
「また、増えてるね」
リリィが、アランの片方の脇腹に大きな痣を見つけた。
彼は新しいシャツに袖を通しながらそれを見て、
「どうりで痛いわけだ」
「なにしたの?」
「蹴られたんだ」
リリィは呆れて、
「気をつけてよね。不死身じゃないんだから」
「わかってるって」
アランは古椅子に掛けていた軍服を広げ、丁寧に折り畳む。
胸ポケットに膨らみを感じて、彼は手を突っ込んだ。
「そうだ。ここに入れといたのか…」
目の前の机に無遠慮に投げ置いたのは、年代物の首飾りであった。
「ロニー・ディンツは死んだよ」
その報を聞いたリリィは、喜びでも悲しむでもなく、ただ頷いて、
お疲れさま。とだけ兄に言った。
朝食の最中、アランは持ち帰った首飾りをリリィに見せた。
それは真鍮のロケットペンダントで、リリィが中身を開くと、
微笑みを浮かべる若い女の写真が入っていた。
「この女性は?」
アランは牛乳を吸ったパンを口に入れながら、横から写真を覗き込む。
「いや、わからない」
「奥さんかな?」彼女は首を傾げた。
「それにしては若過ぎる」
「もう」リリィは唇を尖らせて彼を少しだけ睨むと、
「じゃあ、やるから」
と言い残して、首飾りを両方の手の平で包み、目を閉じた。