【第五回】ウサギ、ホテル、プチトマト
人類に残された居住区域はもはや、そこしか残っていなかった。
ホテル。
一歩でも外に踏み出せば、そこは凶暴な進化を遂げた肉食ウサギたちの闊歩する地獄だ。なぜかウサギたちはホテルの建物には攻撃してこないので、人間たちは半ば、ホテルに閉じこめられているような状態だ。人間たちは地上に孤立したその建物の中で、狭いスペースでも栽培可能なプチトマトをひたすら育てながら一日を生きている。以前は豪華絢爛を極めたというこのプリンスホテルのロビーも今ではプチトマトのプランターに埋め尽くされた異空間と化している。毎日、いつこのガラス張りの扉を突き破ってあの凶暴な獣がやってくるかわからない恐怖と隣り合わせになりながら、私たちはプランターに水を注いでいる。電気とガスは止まっているのに、水道だけはなぜか依然として動いている。もしかすると今日もどこかの浄水場やダムで誰かがウサギと戦っているのかもしれない。そう思うとありがたいという気持ちでいっぱいになる。こうしてプチトマトを食べられるのも水が回ってきているおかげなのだから。
そして、感謝する理由はもう一つある。今の私たちはプチトマト中心の食生活によってプチトマトの能力を得つつあるのだ。今でも、屋上付近のフロアやプレイルームなどでは、能力の研究と練習が盛んに行われているのだ。かく言う私もさっきのさっきまでプレイルームでレーザービームの練習ノルマを消化するのに一生懸命だった。今ホテルの中は、ウサギに対抗するために残った人間たちの戦力を強化している動きのまっただ中なのだ。
汗を拭きながらプランターに挟まれた廊下を移動していたら、後ろから先輩がやってきた。
「ようアキヤマ。調子はどうだよ」
「ぼちぼちです。先輩はどうです?」
「おう俺か? 俺はな、最近やけに調子がいいんだよな、これが。いいトマトにありつけてるのかもしれないな」
「ああ、なるほど。先輩は最近、プチトマト育てるのやたら上達してますもんね」
「だろ?」
先輩は得意げに眉毛をつり上げながら、再利用しまくってボロボロになったペットボトルで水を飲んでいる。今の世の中、スポーツドリンクなんて便利なものはないし、塩や砂糖は高級品だ。場所が沿岸部だから、地下を掘り進む作業によって塩は確保されたが、砂糖にはどうしても限度がある。ウサギと戦いながら地上を歩いてホテルとホテルとを転々としているというキャラバンがたまにここにも寄って砂糖を売ってくれはするが、やはり相当な値がする。最近は塩を作れるようになったからそれなりの取引ができているようになったものだけど、一時期は本当につらかったものだ。
「昔はさ」
「昔ですか?」
「おう、昔だ。ウサギが凶暴になる前だ」
「ああ、ずいぶん前ですね。私も物心つかないくらいじゃないですかね」
「いやいや、それはオーバーだろ、十歳ぐらいにはなってただろ?」
「そうですね。確かにそんなだったかも。たぶん小学校三年生とかだから、八歳九歳ぐらいじゃないですかね」
家族と離ればなれになったころだから、たぶんそのくらいだ。たまに振り返るから、どのぐらいの時期だったかは割とはっきりと覚えている。パーキングエリア襲撃事件で離ればなれになったんだ。トイレ休憩を取っていた家族は散り散りになって、私は近くにいた大人に頑丈そうな特急バスに非難させられて、そうして家族と離れることになったのだ。何かを持っているわけではないから顔を思い出すこともぼんやりとしかできないが、生きているのだろうか。でもそれももう、五年以上前の話だ。九歳とかだった私もここ何年かで周りと同じように成長期を迎えて、別人のように育ってしまった。性格もだいぶ変わっただろう。だから、もしもどこかで会ったとしてももうお互いに自分の家族だと気づくことはないのだろう。
「そんな昔か。もう五年以上前だな。そう、あの時代は、ウサギのことをどうやって数えてたか、おまえ知ってるか?」
先輩の唐突な質問に不意をつかれてどもる。ウサギの数え方。今は一頭二頭とか一体二体なんて数えているけれど、問題になるということは、それとは違うのだろう。一応、小さいころに元々のウサギの姿を見たことはある。今のウサギは小さいものでも体長一メートルはあるけむくじゃらで鋭い歯と怪力の顎、それから強靱な四肢を持つ猛獣だが、昔はたしか……そう、絵本にも載っていた、たしか、小さければ手のひらの上に乗るような小動物だったはずだ。今の常識から考えるとウサギが手のひらサイズと端本当に奇妙な話だけど。
「え、えっと……一匹二匹とかですか?」
「そうとも言ったな。だが、正しくは一羽二羽と数えたらしいぞ。なんか、一羽二羽って、聞いててかわいらしいよな」
「ですね。一羽二羽ですか。知らなかったです」
「でも今では一体二体とか一頭二頭、まるで猛獣だ。実際、猛獣なんだがさ、昔のウサギは本当にかわいかったんだぞ、知ってるか?」
「知ってますよ。絵本とかを読んで育つぐらいの環境にはいましたからね」
「……そうだな、昔だもんな」
先輩は何かを思い出すように手のひらを眺めて、握り、開きしていた。
「……そ、その、がんばろうな」
先輩は分かれ道の前でそう言った。
がんばろう。そうだ、私たちは今、プチトマトによる進化を遂げて、赤い熱線を出す者や、赤い光をまとって戦う者が現れて反撃の準備に打ち込んでいる。プレイルームでノルマを消化するというような私の姿勢はあまりよくないものだった。少なくとも、この縦長の建物の中で一生プチトマトを育てて食べるだけの生活に甘んじていたいとは思わない。じゃあどうしたいのかと言われれば、自由に野山を駆け回ってみたい。それなら、がんばるしかないのだろう。
「はい」
私はできるだけしっかりと頷いた。