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【第四回】飛行機、イワシ、地下室


 突き抜けるように真っ青な夏の空を、雲の尾を引いて白い飛行機が斜めに横切ってゆく。半地下の仕事場の上には小さな窓があって、その窓からボーッとしながらそれを目で追っていると、飛行機は次第に小さくなり、雲も端から消えてゆき、そのうち何も残らなくなる。どこか遠くへ行って、最後には薄れて消えてしまう。

 こうして何をするでもなく飛行機の横切る空を眺めているといつも、遠い夏を思い出す。夏休みに訪れた父の実家の縁側で、雲は水でできているんだよなんて教えてくれた物知りの叔母。

 傍らにあったチラシを手に取り、その裏側に落書きしながら彼女のことを思い出す。

 うちの母が教師の仕事とそれの部活の顧問をやっていてほとんど家にいなかったことと、叔母が何かわけがあって未婚だったことがあったからか、父の実家に帰ると、私はよく叔母に面倒を見てもらっていた。父が昔なじみの友人たちと飲みに行っている夜、庭の瓶を眺めていると、叔母は冷やしたすいかを切って持ってきてくれた。懐かしい。

 実家は叔母の一人暮らしで、祖父母はすでに他界していた。そういうわけだから、叔母の元へ帰省する時は大抵母が部活の合宿に行っていて、お盆の間に母の実家に帰省するのがうちの慣習になっていた。父は割と歳を取ってから母を嫁にもらっていたから私は一人っ子で、祖父母は生きていれば九十歳前後になっていただろうという歳の差。父と叔母も歳が離れていて、五つか六つは離れていたと思う。祖母は出産が思うように行かない体質だったらしいから、父を出産したのもその時代の人には珍しく三十近い歳だったそうだ。叔母は祖母の体質の遺伝かなにかわからないが、子供を産めない体だそうで、そういう理由から、その時代やコミュニティの考えもあるだろうけれど、結婚する機会を逃した。私の記憶にある夏の叔母は三十代半ばで、子供も伴侶もいない田舎での一人暮らしをしていた叔母は私をかわいがってくれた。元々外で遊ぶような子供でなかった私は田舎へ行くにも虫かごの一つも持たずに帰省していたから、一日中、らくがき帳にかじりついたり、家の中を探検したりして過ごしていたが、それに飽きると叔母の背を追いかけていた。歳に負けず美しい人だったように記憶している。懐かしい。

 ふと落書きから目をあげて窓を見ると、飛行機も飛行機雲も跡形もなく消えていた。そんなものだ。回想するうちに思いの外時間が経っていたのか、それとも雲が消えるのが早かったのか。……それはわからない。落書きに没頭していた。空は相変わらず真っ青でそれはいつもと変わらない。

「……なんか食べるかな」

 この小さな窓以外には窓がなく、テレビもラジオも置いていないこの地下室で作業をしていると完全に時間の感覚がなくなる。今が何時かなんて、机の引き出しに入っている懐中時計をわざわざ確認しないとわからないし、日付は新聞で確認する。……新聞を地上のポストまで取りに行かないとそれもわからないが。

 絶えず細かく震えている小さな冷蔵庫を開けると、賞味期限の切れた牛乳と、ラップをかけたイワシの切り身が入っていた。いつから入っているのかもわからない。醤油もチューブの生姜もないから食べる気も起きない。ご飯は後でいいか。というか、このイワシも食べない方がいいだろう。食っておなかを壊しても看病してくれる人は私の周りにはいない。この狭い地下室で何日も寝込むのはイヤだ。

 ……そういえば、叔母とこんなやりとりをしたななんて思い出す。これもまた夏のことで、夕方だっただろうか、明かりのついていない部屋、台所の横に長い窓、回る換気扇のプロペラ、お釜や鍋の蒸気が揺れていた。その眩しいオレンジ色の逆光の中で叔母が夕飯を作っていて、包丁のとんとんという音がして、私は彼女の足下からそれを眺めていた。当時の私はたぶん、小学校二年生ぐらいだったように思う。

「おばちゃんおばちゃん」

「なあに?」

「今日のおゆうはんなあに?」

「イワシだよ」

「さっき買ってきたお魚?」

「そうだよ。お刺身だよ」

「やった!」

「イワシは足がはやいからね、今日中に食べるんだよ」

「……足?」

 それを聞いた私は台所を離れると、らくがき帳を手にとって、魚の体から人間の脚が生えた疾走する謎の怪物を書き上げた。

 食卓でその絵を見せたところ、叔母は笑って、

「あのね、足がはやいって言うのはね、食べ物がだめになりやすいって意味でも使うのよ」

 と教えてくれた。叔母はこういう機会を逃さずに私に知識を与えてくれる人だった。飛行機雲のことにしても、足が早いという言葉にしても、私の気づきや興味を大切にしてくれていた。愛に急がず、そして優しい人だった。叔母から教わった話を使ってたとえれば、魚をくれる人ではなく、一緒に魚をつってくれる人だった。

「そーなんだ」

 そして私は削り立てで尖った鉛筆の細かい文字で、絵の横に小さくそのことを書き込んだ。改めて見返すと、絵はかなりシュールで稚拙なものだったが、叔母はそれを大切そうに大きなクッキーの缶にしまって保管してくれた。

「おばちゃんはあなたの絵、すきだよ」

 絵がうまいねではなくあなたの絵が好きだと言われる方が、書くのが好きな者にとって幸せなことであることを、叔母が理解していたのかどうかはわからないが、叔母はいつも私にそう言ってくれた。懐かしい話だ。

 そして私はそんな叔母の言葉に引きずられてか、大人になった今でもこうして細々と絵を書いている。日光の届かない仕事場は絵の変色を防いでくれる、それも叔母が教えてくれたことだ。私はこの変化の少ない地下室で生きてゆくことに決めたことになる。見上げるとやはり飛行機雲は消えていた。においを嗅いでみるとイワシは傷んでいた。叔母はもういない。私もいつか死んでしまう。私には子供はもちろん伴侶もいない。私は彼女のように、誰かに消えたことを意識してもらえる人間になれるだろうか。

「……スーパーでも行くかな」

 生姜とイワシを買ってこよう。そして傷まないうちに食べるのだ。私は叔母を描いた落書きをマスキングテープで壁に貼ると、財布を掴んで仕事場を後にした。


おわり


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