第六話 Leutnant 2
「アイゼンシュタット君?」
参謀長の呼びかけに、ヘルマンは返事するのが精いっぱいだった。
「少し、頭を冷やすかね? 外の空気を吸ってくるといい。今は紅葉がきれいだよ」
「……お気遣い、ありがとうございます」
彼の言葉に甘えて、執務室を後にしたヘルマン。ゆっくりとドアを閉めると、その口からため息がこぼれ出した。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。彼は自分に問うた。
一体自分が何をしたというのだ。夢さえも打ち破られてしまうなんて、一体何が起きたんだ。
そう絶望の淵に立つ彼の脳裏に、ちらりと黒髪が翻った。黒い拳銃から吐き出された、金色の薬莢。目の裏に残る鮮血の赤。
まさか、自分の過ちは彼女を助けたことだというのか。機密に触れてしまったために、もはや軍大学には置いておけないと判断されたのか。そうなれば、――彼女を助けなければよかったのに。
ぐるぐると回りながら奥底を目指すように、考えるほどに深みに落ちる自分に気付き、ヘルマンは失望した。
助けなければ、少女はどうなった? 道徳心の欠片もない自分の発想に、ヘルマンは再びため息をついた。
「……アイゼンシュタット」
一歩も動かず、壁にもたれていた彼に、通りすがりの将校が声をかけた。ヘルマンはぼんやりとしたまま、顔を上げる。
靴墨をきれいにすり込んだ小さなローファー。目を見張るようなミニスカートと、膝上丈のソックスの間の真っ白な肌がまぶしい。
グレーの上着の、左胸に輝く色とりどりの略綬。名札に記された名前に、ヘルマンの心はぐさりと突き刺された。
「敬礼は。私は中佐だぞ」
少年のような声で注意されたものの、ヘルマンはすばやく反応することができなかった。ゆっくりと右手を上げて敬礼の姿勢を取ると、小さな将校は見事な答礼を返した。
「リッター中佐……?」
「こんなところで何をしているんだ。ちょっと来い」
彼女はちらりとヘルマンを見上げ、踵を返した。その表情に何かを見つけて、彼は反抗することもできなくなった。黙って、さくさく歩いていく彼女についていく。
少女は大股で廊下を進みながら、淡々と話し始めた。
「ヘルマン・アイゼンシュタット、21歳。つい今朝までは士官候補生であり、主席の成績を収めていた。ただし、もはやお前は士官候補生ではなく、少尉だ」
「ど、どういうことです?」
少女はどんどん歩いていく。ヘルマンの声など無視したらしい。
「何年か、士官への道を飛ばしてしまった。しかしそれも仕方がないことだ。教育不足のお前は普通の少尉よりも劣るが、そんなことは構わない。今から実践的に、何もかも学んでいくといい」
冷たい風に、ヘルマンは首を縮めた。彩られた葉が舞い、乾いた音を立てる。少女はまだまだ歩いていく。
紅葉は全盛期だった。落ち始めた葉で、庭の地面がずっとモザイク模様に彩られている。赤や黄の風景に、少女の無色彩な姿は異質に映った。
言いたいことも、言わなくていいことも喉元にせり上がって、ヘルマンは息苦しくなる。
「……怒ってるのか?」
唐突に立ち止まった少女が見上げる。彼女の視線は、ずっとやわらかかった。何も映していなかったはずの顔には、同情のようで、心配のようなあいまいな何かが、再び現れていた。
ごくりとヘルマンは言葉を飲み下した。ひどく苦い味だった。
「怒って……どうなるというんです」
目をそらした彼女は、座れとヘルマンにベンチを指差してみせた。
遠慮する彼を引っ張って座らせると、少女は彼の目の前で仁王立ちになった。風がその黒髪を巻き上げる。あどけなくあいまいな感情が、彼女の顔から消えた。
「私は、ヒルデガルト・リッター中佐だ。フェーゲライン出身の、戦闘特化型人造人間だ。つまり、私は狭義のフェーゲライン人だということ、そう思ってくれて構わない」
「…………」
つまりは、人間以外であるということだ。広義のフェーゲライン人とは、そのままフェーゲラインに住む者のことである。しかし、ドイツ人はしばしばこの言葉を、人間以外の神秘的な存在という意味で使う。
ヘルマンは何も言わなかった。非日常に振り回され続けた彼には、そう驚くようなことでもなかった。
「お前は、生粋のハノーファー市民のようだな。では、この街が抱える、他の街との相違点とは何だ?」
「……フェーゲラインでしょう」
「その通りだ。優秀なお前にはつまらない質問だったな。して、この街にはフェーゲラインへつながる唯一の国境、『白い門』がある。そのため、この街はドイツ警察、フェーゲライン第4軍憲兵3課が二重で治安維持にあたっている。ゆえにこの街には、今までテロリズムがなかったのだ」
フェーゲラインの憲兵。白い門に近づくと、至る所に憲兵の黒いパトカーや、ライフルを持った憲兵がいるのがわかる。白い門をその目で見ることができるのは、フェーゲラインに許されたドイツの権力者くらいのものだ。
ヒルデガルトは、リアクションの薄いヘルマンには構わず、次々と話を進めていった。
「しかし、この街の犯罪に目を光らせているのは、警察組織だけではないんだな。何だかわかるか?」
「……軍があなたを隠そうとしているのはわかりますよ」
「その通りだ。連邦軍は、私を隠そうとしているわけだな。このあいだも、お前が目撃したあの事件は報道されなかった」
彼女は真剣なまなざしだった。いまだ沈痛な表情を消せないでいるヘルマンを、じっと見つめる。
そっけない風が2人の間を吹き抜けていった。
ヒルデガルトは威圧的な姿勢を緩め、ヘルマンの隣に腰かけた。木のベンチが軋んだ。
「怒らないでくれ、少尉。お前の仕事は、参謀より、もしかすると連邦軍総監よりすごいかもしれない」
ヒルデガルトはぶらぶらと足をゆすって、落ち葉を蹴飛ばした。キイキイとベンチが鳴き、彼女の黒髪がさらさらと揺れる。
何だというんだ。ヘルマンはそっと空を見上げた。秋の空はどこまでも薄く、表情のないヒルデガルトに似ていた。そう思って目をそらすように視線を落とす。
吐息がため息となって消えた。
「友人がいなかった、と聞いた」
淡々とした彼女の声を、ヘルマンは流すように聞いた。そんなことまで調べたのか、と思う心は秋の空のように希薄だ。
「でも、何か必死で頑張っていたとか」
勝手に何でも調べればいい。
「そんな顔しないでくれ。私はどうすればいいんだ」
冷たいものがヘルマンの手に触れた。彼は、ヒルデガルトの手だと気付く。彼女はヘルマンの手を握って、静かに言葉を紡いでいく。
「私にはよくわからないが、怒る理由はわかる。でも、何を言っても無駄なばかりか、お前を追い詰めてるような気がする」
「…………」
ヘルマンは居心地が悪くなった。
「どうして、私は怒っていると思うんです?」
「……私に腹を立てているのではと」
消え入りそうな声でつぶやいた彼女に、ヘルマンはため息をこらえた。
「なぜ、あなたに対して怒らなければならないんでしょう。そもそも、怒っているわけではありませんよ」
ヒルデガルトは沈黙する。
「先ほど言ったように、怒ったところで何かいいことがあるわけでもありませんし。……怒っているわけではないんです」
言葉を切った彼に、沈黙が誘い出した絶望が巻き付いていく。怒る気力があれば、こんな気持ちを抱かずに済む。そうぼんやりとヘルマンは思った。
彼の手を握り続けるヒルデガルトの手が、かすかに震えた。
「私のようなものには、人の気持ちなどわからない。数少ない私にわからないことだ。私を困らせてくれるなよ……」
彼女の声は、少しだけ寂しそうに響いていた。彼女なりの感情表現なのかもしれない。あの日、別れるときと同じだった。
尻すぼみに消えていった彼女の言葉を聞いて、彼は口を開くほかないと感じた。小さな少女に、また振り回されているらしい。
「話の続きを聞かせてくださいよ。参謀よりすごい仕事なんでしょう?」
「……まあ。管理職ではないが、世界を変えられる」
「ダイナミックですね」
ヘルマンは弱々しく微笑んで、彼女の話に耳を傾けた。
その気になったらしい彼に少し安心したのか、ヒルデガルトは再び話し始めた。
風がやんで、鳥のさえずりがうっそうとした司令部の庭に響いた。
こんにちは、湯呑みです。
ちょっとお待たせしましたね。
ところで、今回のタイトルLeutnantは少尉を意味します。将校の入り口ですね。
ドイツの軍大学は最短で3年制のようですが、21歳で少尉なんてなれないと思います。あと、中佐も驚くほど無理ですね。
駄文失礼しました……。では、次話もよろしくお願いします。