第四話 Maedchen 4
秋の空が、ひとり段ボール箱を抱えて歩く青年を見下ろしている。
「誰にもばれていないようですね」
ヘルマンはぼそりと箱につぶやいた。
彼は警察の集まっている先ほどの道から、大きく迂回した。とはいえ、司令部まではそう遠くない。つまり、箱の底が抜ける心配をするのもそう長くないということだ。
しかし、ずっとヘルマンを変態呼ばわりして触れられることを拒んだ少女が、視界が奪われる段ボール箱に怒らなかったのは不思議だった。ようやく少女もヘルマンを信じる気になったのか。いや、この堅物の少女なら、誰にも姿を見られない手段だから仕方がないと割り切ったのだろう。
「いや、こんな怪しい男なんて、すぐにばれてしまいそうですのに」
「…………」
少女は相変わらず答えない。実は中にいないのでは、と不安に駆られたヘルマンは思わず箱を左右に揺さぶった。すると、抗議のうなり声が返ってくる。
「やめろ。考え事をしている」
ヘルマンはくすりと笑った。背伸びして街路樹の真っ赤な葉を取り、箱の中に滑り込ませる。
「紅葉を楽しめないなんて」
「……楽しむ暇なんてない」
週末なのに、少女は仕事をするというのか。疑問を持ったところで答えは得られないと割り切っているヘルマンの視界に、赤銅色のレンガの壁が見え始めた。
第一装甲師団司令部。中では、父の友人が参謀長をしているそうだ。戦争は終わったものの、向こうの治安維持のために師団も兵力を派遣しているという。
ヘルマンは門の前に立つ立哨に挨拶をした。立哨は彼を見る前に、段ボール箱を見て眉根を寄せた。アサルトライフルの銃口が向けられる。
「何者だ。要件は何だ」
口にする言葉はマニュアル通りであるものの、明らかに警戒している。爆発物にでも見えるのだろうか。すると、箱の中から少女が白い手を出した。
「私だ。参謀長を呼べ」
「はっ」
立哨は突然に態度を変え、ライフルを下ろした。くるりと踵を返して内線をつなげる。
「有名人なんですね」
一介の士官候補生は知らないが、第一装甲師団司令部の人間は知っているということか。ヘルマンは思考をめぐらせたが、どうせ少女とはもう縁が切れるのだからとあきらめた。
「…………」
ヘルマンは立哨が入るように促したのを見て、門の内側に段ボール箱を置いた。グレーの制服を着た将校が急ぎ足でやってくる。少女は立ち上がると、彼女はヘルマンの胸ほどの高さから顔を上げた。
「……他言無用だぞ」
「わかってますよ」
少女の表情は相変わらず硬いものの、視線は揺れていた。さらさらと髪が風に吹かれ、その瞳が隠される。
「外出も控えた方がいい。ハノーファーも最近は物騒だ」
「そのようですね」
少女は振り切るようにヘルマンから顔をそらすと、近づいてきた将校に立派な敬礼をした。訓練された無駄のない動き。彼女はまぎれもない軍人だった。
答礼する壮年の将校。彼は深い安堵を、しわの刻まれた顔に浮かべていた。
見覚えのある穏やかな顔。ヘルマンの父の友人だった。つまりは、師団司令部の参謀長だ。
「ああ、リッター中佐。無事だったのだね!」
「詳しいことは後でお話しします」
ちらりとヘルマンを見る。ヘルマンは思わず周りを見回して、参謀長は少女を「中佐」と呼んだということに気付いた。
「中佐……?」
「気にするな」
「君かね、中佐を助けてくれたのは」
参謀長は笑顔で礼を言った。
「よかったではないかね、リッター中佐。助けてくれたのが優秀な士官候補生で」
「そのようですね」
参謀長から渡されたグレーのジャケットを着た彼女は、先ほどよりずっと大人びて見えた。鋭利な視線を少し丸めて、ヘルマンを見上げる。
「世話になったな。これからも勉学に励むといい」
「はい。ありがとうございます」
少女の口元がわずかに緩められたように見えた。
ヘルマンは敬礼して、段ボール箱を抱えて帰った。早く帰って、兄に悟られないように片付けを済ませておかなければならなかった。
「駅前にな、武装警官がいっぱいいたぜ。それで、近くのおばさんに聞いたんだけどさぁ」
兄、ハインリヒが皿を洗うヘルマンに言った。
「何です?」
「近所で銃撃戦があったそうだな。お前は聞かなかったのか?」
「ええ……。ドンパチやってたようですよ」
ヘルマンの手が一瞬止まった。流れる冷たい水に、なぜか真っ赤な血が重なった。
「へえ。で、聞いたところ男が6人くらい殺されてたんだってよ。でもよ、もっと変なのは、それがニュースになってねえってことだぜ」
「警察もいっぱい来ていたのに」
だよな、とハインリヒは肩をすくめた。
あれまで派手に撃っていたのに、なぜニュースにならないのか。6人も死人が出れば、いくらなんでもニュースになるだろう。
「怪我した女の子が追っかけられてたって話を聞いたけど、その女の子も見つかってねえし、逃げたらしい血痕もどこにも見当たらねえんだと。どこら辺までがデマかわかんねえけど、警察が捜査してたのに、新聞にもニュースにも出てこないんだぜ。クサくねえか?」
ハインリヒは机の上に頬杖をついて、真剣な表情で考えている。
ヘルマンは平静を装った。血痕が見当たらない理由は、傷が回復したときに血が消えたのと同じ。
少女は警察も救急車も呼んでほしくなく、司令部に箱詰めにされて帰った。実は、少女は市民の目を避けていたのではないだろうか。
「怪しいですね。何か隠したいことでもあったんでしょうか」
「緘口令……かな。でも、何が隠したいんだろうな」
緘口令を敷いたのは軍だ。ヘルマンはそう確信した。参謀長のあの安堵の表情から、軍は少女が銃撃戦に巻き込まれたことを知っていた、とうかがえる。
そして、隠したいものはあの少女そのものだ。あの少女は隅から隅までトクベツだった。あの容姿で、大人びて鋭利な口ぶり。中佐という階級。一介の立哨にも知られている存在。何より、電気で傷を回復させてしまう力。
「お前も気をつけろよ。ああ、この平和なハノーファーにもついにテロリストかぁ……。俺がそこらへんで仕事してるのを見ても、巻き込まれねえうちに逃げてくれよ」
ハインリヒは短く刈った金髪を撫でた。
「わかってますよ。兄さんも身体には気を付けて」
「おう。死なねえように頑張るぜ」
ヘルマンの中で、歯車が音を立てて噛み合った。滑らかに動き始め、巨大な何かを稼働させる。
――もう少女とは会うはずもないのに。
首を振った彼に、ふいにハインリヒがのんきに言った。
「そういえばさあ、お前、何かいいことでもあったのか?」
「はい?」
「しらばっくれんなよ。今日はずいぶんと穏やかな顔だぜ? 彼女でもできたんだろ」
にんまりと笑う兄に、ヘルマンは肩をすくめてみせる。
「まさかね。どう頑張っても彼女なんてできませんよ。そんなにいつもと違います?」
「クセえな。彼女は『作らない』んじゃなかったっけ。そもそも、お前はいつも、ストレスためたサラリーマンみたいな顔してるんだぜ?」
「ひどい例えです」
会話をぶつ切りにして、ヘルマンは皿を片付ける。
兄はさすがに鋭い。だが、知られるわけにはいかない。報告したくて仕方ないようなことでも、これは小さな上官への誓いなのだ。
一介の兵士は真実など知らなくていい。ただ、自分は善いことをしたのだという実感だけ、胸に抱いておけばそれでいいのだ。
こんにちは、湯呑みです。
とりあえず一段落。Maedchenはここまでです。
ふう……。まったりと(内容はハードだけれど)書いていきます。
感想、ご意見などあれば何でも送ってくだされば、昇天するほど創作意欲が上がります。お待ちしています。