第三話 Maedchen 3
ヘルマンは自分のベッドに横たえた少女を再び観察した。小さな体は軽く、しなやかだった。真っ白な肌につややかな黒髪。しかし骨格はヨーロッパ人にも見える。言葉に訛りは聞き取られなかったため、彼女がどこから来たのかは全くわからない。
手を伸ばし、乱れた髪を直す。
少女は目が覚めるほどに美しかった。しかし、それに可愛さのようなものは見当たらない。眠りこける顔も、あまり穏やかには見えない。少女の顔も、やはり笑ったりするために美しいのではないらしい。どちらかというと、周囲を威圧し、簡単には触れられないようにするためのようだ。
スカートのポケットに押し込まれたマガジンと拳銃。それ以外の持ち物はないようだったが、それだけでも十分に少女の職業を割り出すことができた。
水色のカッターシャツも、黒ネクタイも見覚えがあった。そもそも、エポレットがついたカッターシャツなど、あまりないものだ。シャツの前あわせが紳士物であることは気になるが、盗品と疑おうにも、少女の服はきちんと採寸され、少女のためにデザインされたものに見える。
制式拳銃、H&K P8。制服。
――これが俗にいうコスプレの素晴らしい出来のものでなければ、彼女はドイツ連邦陸軍の軍人ということになる。
まさか、とヘルマンは眉をひそめた。
軍用拳銃のP8は少女の手には少し大きめだ。そもそも、こんな少女が軍人になれるはずがない。
彼の頭の中で様々な要素が矛盾してぶつかり合った。
ズボンのポケットから取り出したP8の重みは、確かに現実的だ。セーフティをかけたものの、それさえ解除して引き金を引いてしまえば、本物の銃弾が前方の物を穿つために放たれる。
しかし、この少女のほとんどは非現実的なのだ。
ふいに、衣擦れの音でヘルマンは我に返った。顔を上げた彼を、少女の恐ろしい形相が迎える。ヘルマンはそっと笑みを浮かべてみた。
「帰る! 帰るから放せ、変態め」
ぎこちなく手足を動かして、絡まる掛布団から逃れようとする少女。ヘルマンは肩をすくめた。
「何もしてませんよ。どこに帰るつもりなんです?」
少女は掛布団から逃れると、ベッドから抜け出した。しかし床に足をつけるも、ふにゃりとよろめいて膝をついた。
「ほら、もう少し休んでいってくださいよ。そんな状態で、どうやって追っ手に見つからずに帰るんです?」
「…………」
横顔がほんの少し思いつめたものに見えた。
沈黙を塗り替えるように、パトカーのサイレンが鳴り響く。
ヘルマンの笑みは固まった。それを見て、少女は落ち着き払った声で言った。
「……大丈夫だ。もし警察が来ても、お前は事情徴収などされずに済む」
「そ、そうでしょうか?」
「私がそうだと言うんだ」
少女はヘルマンに抱えられてベッドに戻される。少女は高圧的極まりない。ヘルマンは理解できないまま、言い返すのもあきらめた。
何かが彼女を沈黙させたのだろう。少女はもう抵抗もせず、白い顔に何の感情も表さなくなった。考え事でもしているのだろうか。そんな少女に、ヘルマンはそっと声をかけた。
「差し支えなければ、送ってあげますよ」
「第一装甲師団に」
「そうですか。司令部に送ればいいんですね。あと2時間ほどで兄が帰ってきてしまいますので、あと1時間休んでください」
彼はそう言って、少女をそっとしておこうと口を閉ざした。
少女はうつむいたままピクリとも表情を動かさない。その中には、混沌のような思考が渦巻いているのだろうとヘルマンは察した。
「神秘それとも科学を憎むか」
ぽつりとこぼされた言葉を、ヘルマンは問いかけだと捉えて返す。
「どちらも憎んでませんよ」
「それはなぜ」
「憎んだって仕方ないじゃありませんか。科学が多くの人を殺したとしても、神秘だって何も助けてくれなかった。……というのは屁理屈で、本当は科学が発展してくれた方が便利です。時代の恩恵を捨てることなどできませんよ」
「なるほど」
少女は、ちらりとベッドの上の拳銃を見た。しかし、そのまなざしはどこか意味深だ。
「お前はまるで軍人のような考え方をするんだな」
「え? あ……はい。そうですね」
ミニ軍人に軍人呼ばわりされるほどヘルマンは出しゃばっていない。落ち着きなくうなずいて、しかし首を振った。少女はそれを見て、目を丸くする。
「そうなのか?」
「いや、私はしがない士官候補生です」
「なるほど。どうりで冷静に対処できるわけだ」
ヘルマンは恐縮した。
そうして淡々と言葉を紡ぐ少女を見ていると、ヘルマンは変な気分になった。少女は凛として機知に富み、まったく幼さを感じさせない。かなり童顔で背が低いだけで、本当は立派な大人なのではないだろうか。
彼が年齢を訊くべきかそわそわしているところへ、少女は再び質問をベッドの上に落とした。
「お前は科学絶対主義者か」
「違うと思います。科学と神秘は共存できると、淡い希望を抱いていますね」
「どうだろうか」
その声が不安そうに響いたのに、ヘルマンは思わず少女を見つめた。
消えていく傷、走った電流。科学ではきっと証明できないだろう現象だった。やはり少女は、神秘的な存在なのだろうか。
少女の不安を解消したかったのに、ヘルマンは安易に答えを返せずにいる。
過去何千年か、人々はときに神秘を信奉し、科学を排斥した。しかし、今から何百年かは科学を崇拝し、神秘をあの白い門の奥に追いやってしまった。世界が双方を平等に包み込んでいるとしても、人間は変われないのだ。
「でも、本当に共存できるかできないかは、誰にもわからないんじゃありませんか? 今の人々はみな、偶像崇拝者ですよ。誰も科学がもたらしてくれる未来の姿を知らないし、誰も本物の神秘を理解していない。でも、だからこそ不安ですよね……」
何か言うべきとして放った言葉は、あいまいな尻すぼみとなってしまう。しかし、少女は転がってしまった彼の言葉のボールを拾い上げた。
「お前の同僚も、そんなふうに考えているのか?」
ヘルマンは肩をすくめる。
「さて。みんなリアリストですからね。私のことを夢でも見てるみたいな奴だと笑いますよ」
「お前は、リアリストじゃないのか?」
「リアリストのつもりなんですけどね……」
彼は苦笑したが、少女は真剣に受け止めたらしい。少女の無表情は何ものにも染まらない、どこまでも素朴で透明なものに見えた。
唐突に、彼女は思考をやめて顔を上げた。部屋の中を見回して、机の上の写真立てに目を止める。グレーの軍服に身を包んだ父親、穏やかに笑う亜麻色の髪の母親、金髪の少年2人。切り取られた4人の笑顔は、ヘルマンにはどこか果てしなく遠い過去のものに感じられた。
「両親は家にいないのか」
少女の問いに、ヘルマンはいつも使ってきた言葉を再び胸の内に浮かべた。
「……戦争で死にました。今は兄と私だけで住んでいるんです」
「戦争か」
少女の透明なまなざしからは、何も捉えられない。
2026年に始まったヨーロッパと中東諸国との戦争では、ヨーロッパはミサイルの被害を多く被った。日本と違って核ミサイルは迎撃できたものの、多すぎるミサイルは防げなかったのだ。多くのミサイルによる空襲は無差別攻撃で、疎開中の多くの民間人の命が奪われた。ヘルマンの母はそのうちの一人で、第一装甲師団の隷下部隊に所属していた戦車兵の父は、砂漠の戦場で戦死した。
「絶望していないのか」
少女の問いは、ヘルマンの奥底を探ろうとするものだった。防げなかった第三次世界大戦の勃発で、人々は絶望した。だからこそ、科学の進歩を捨てて懐古主義に浸り始めたのだ。争いを助長する科学の真逆である神秘に、人々はすがりついた。
「絶望しているかもしれません。でも、懐古主義には同調できません。過去を神化したところで、前には進めませんよ。これは一時的な社会現象のようですが、あまり賛成できません」
すがるものなど何もない。ならば……。
それは、残された兄弟の決断だった。
「…………」
少女は彼の心境を代弁するように沈黙し、時計を見上げた。
「そろそろ帰りますか? 兄さんが帰ってきてしまいますね」
ヘルマンは立ちあがって部屋の外に出た。しばらくして、段ボール箱を抱えて帰ってくる。
「うちに車はないんです。これで我慢してください」
「……私は荷物か」
少女は愚痴を一つだけこぼしたが、それ以上は何も言わなかった。瞳の奥に渦巻く思考の気配は、消えていない。
こんにちは、湯呑みです。
今回は少し長かったかもしれませんね。こんな時に不謹慎な戦争話ですが、フィクションです。大丈夫です。
更新のたびに読んでくださる方がいるようで、その存在に心躍っています。
……これからもがんばります。