二人の休日
執筆者:ういいち◆ウラン◆百合宮桜◆ういいち
◆買い出し◆
「買い出し、ですか?」
「はい。お願いします」
そこはアストライアの調理室、高級ホテルの厨房さながらに広く多機能なキッチンルーム。現在、この場所では二人の女性が向かい合っていた。
一人は白髪メイドのリリナ・レイツェン。何時もどおりの無表情で、態度のみは慇懃に、対面の相手へ応じている。一分の隙もない佇まいは、メイドというより寧ろ戦士のそれだ。
もう一方は、ウェーブのかかった金髪をポニーテールに結わう二十歳前後の女性。白い三角巾と、花柄のエプロンをつけている。近くのテーブルにはボウルが置かれ、中に卵と牛乳を溶かした小麦粉が入っていた。彼女の手に泡立て器が握られていることから、丁度なにかの料理中だったのだろう。
「当艦は今しばらくこの街に停泊しています。その間に、不足している物資を調達してきて欲しいのです」
リリナは真っ直ぐに相手を見て、抑揚のない声で告げる。
「えっと、あの……でも、私……」
「本来ならば私が行きたいところですが、ノイウェル様が風邪をひかれて寝込んでおります。御看病して差し上げねばなりませんので」
女性の言葉を遮って、リリナは淡々と続けた。その怜悧な容貌と起伏のない声調には、相手へ有無を言わさぬ迫力がある。
揺らぐ事のない視線を突き込まれ、女性は何も言えなくなってしまう。静かだが強硬な態度へのたじろぎと、人の助けになりたいという思い。その二つが彼女の心を決めさせつつあった。
「御一人で行かれるのが不安なようでしたら、誰かに付き添いを頼まれるのがよろしいでしょう。今時分ならば、霧川様が御暇かと思いますが」
それだけ言うとリリナは行儀良く一礼し、整然と踵を返した。
「それではエレーナ様、宜しく御願い致します」
後はもう振り返らず、相手の返事さえ聞かずにキビキビとした動作で歩き去ってしまう。言い知れぬ気迫を宿した後姿に、エプロン姿の女性――エレーナはとうとう声を掛けることが出来なかった。
遠退く背中をただ呆然と眺めやり、彼女の姿が調理室から消えると同時に、全身から急激に力が抜けていく。我知らず気を張って、無用に緊張していたらしい。
「良い方なのに。私ったら、駄目ですね」
物憂い気な顔で一つ溜息を吐いて、エレーナは頭に巻いた三角巾を取り払った。
皆のおやつに焼こうと思っていたホットケーキは、暫く業務用巨大冷蔵庫の中に入れておかねばならないだろう。
乾燥地帯が大部分を占める南大陸マーサレス。荒野と砂漠が席巻する厳しい大地であるが、大陸北方部には緑地を比較的残した場所もある。そうした土地柄から人が集まるのは当然であり、結果として生まれたのが都市カセドアだった。
広大な荒れ地へ踏み入る前に、旅の準備を整えようとする人々で賑わう砂漠の入り口。人と物との流れが盛んな商業都市だ。
適度な活気と喧騒を抱える街は、容赦のない日光に照り付けられる。強い熱気を含んだ斜陽が焙る夕刻まじか、様々な品の入った大きな紙袋を抱え、ゆったりと歩く男女が一組存在した。ジーンズにワイシャツ姿というラフな格好をした蒼髪の青年と、柔らかくも鮮やかな色彩のワンピースを着た金髪女性という、年若い二人である。
「それにしても凄い量だなぁ。リリナさんは人使いが荒いよ」
呆れとも苦笑ともつかない顔で、霧川禾槻が溜め息を吐いた。口調は軽く、文句のほどには不快さを感じさせない。
「申し訳ありません。私の頼まれ事なのに、わざわざ付き合わせてしまって」
青年の隣でエレーナが申し訳なさそうに頭を下げた。真っ直ぐに伸ばされた長い金髪が、動きに合わせて後ろ背で流れていく。
「ああ、いいんだよ。僕は丁度暇だったし、買い物も楽しかったからね」
禾槻はにこやかに笑いながら、空いた左手を小さく振った。女性的な麗貌が優しく微笑むと、エレーナも安堵を浮かべてはにかみ返す。
傾きつつある宙天の輝きに背を射されながら、二人は親しげに言葉を交わし歩いていく。どちらの顔にも気安さが浮かび、緊張とは無縁の和やかな空気が漂っている。仲睦まじ気に肩を並べて、拠点であ
るアストライアを目指し進んだ。
◆調理室での先輩後輩◆
アストライア医療班、というか私ことラグナと先輩は、調理室に来ていた。
何でも子供艦長が風邪をひいたらしく、あの冷血ショタコンメイドがお粥を作れと命令を下してきたのである。
んなもん自分で作れという話なのだが、文字通り付きっきりで看病したいらしく、お粥を作る時間も離れるわけにはいかないとか何とか。
私とて不満がないこともないのだが、強くでることはできない。居候に発言権がないのは世界共通だ。
そんなわけで、ご都合主義よろしくお粥を作ってとどけ、今からその後片づけをするところである。
終わった。片づけが、である。
いや、ご都合主義さまさまだね。
「あー、駄目ね、これ」
先輩は ホットケーキの元 を 見つけた!
「全っ然駄目。そもそも、砂糖が小麦粉より少ない時点で話にならないわ」
先輩の料理はおいしい。
その腕前は調理班でさえ舌を巻くほどだ。
しかし、先輩は料理でここまで一方的な批判はしない。
いや、そもそもアストライアの調理班にそんな料理下手な奴などいないのだ。
現に、よく調理班の方々と料理を褒め称え合っている姿を見かける。
だがしかし、お菓子となると話は別になる。
先輩は自称お菓子作りが趣味で、他の料理はその過程で学んだ技術を応用しただけの副産物にすぎない、とか。
そう、だから、あまりお菓子作りに精通しているとは言い難い私ですら「それはどうなんでしょーか?」などと言いたくなるような先程のコメントも、きっと私の予想のつかない遥か高みにいるからこその、まさにお菓子作りの神のような一言なのだろう。
「まぁ、もったいないし、少し手を加えればなんとか……」
というか、私は未だに先輩の手作りお菓子を食べたことはない。
何故か、先輩の料理を食べようとすると、私はいつもいつの間にか寝ているのだ。
確かに先輩に勧められてお菓子を手に取ったところまでの記憶はあるのだが、気がつくと病棟煉のベットで寝ているのである。
まぁ、私が病棟煉のベットで居眠りすることなど珍しくもない。
以前、お菓子を食べた形跡のある霧川に感想を聞いてみたら、虚ろな目で四肢を痙攣させ、「……エクレア……ェクレア……」などと生気のない声で呟いていた。
……そんなにおいしいのだろうか?
「ラグナっ、できたわよ!」
早っ。
「はい、ホットケーキ」
「……どうもです」
先輩から渡された丸型のパン生地。
綺麗に焦げていて、なおかつ焦げすぎなところは猫の額ほどもない。
甘い、いい匂いがする。嗅いでいるだけで幸せになりそうな匂いだ。
「…………」
いただきまgぼlsfjhのsgばえ@vpbrhv@ ebいhgbんwいヴんh08dそvhんw0おvqなs9おkgぶrp@hw9prjbrwrq0[:g5va9p0s, br0 y5aes。
「ラグナ? あちゃー、またかー。よろこんでもらえるのは嬉しいんだけど、毎度気絶されると感想が聞けないっていうか、先輩の料理おいしいですえいやそんなー(照)私結婚するなら先輩みたいな人がいいですえそそんなラグナ先輩ラグナ先輩うふふふふふふ……………………」
結局、今日も先輩お手製のお菓子は食べられなかった。
私が起きた時には買い出しに行ってた霧川と調理班の女が戻ってて、ホットケーキはもう残っていなかったのである。
私はその後、はらいせに屍のような表情をしていた二人を適度にからかっておいた。
◆家事、そして……◆
買い物から戻ってきた二人には更なる仕事が待っていたが、その前に試練が待っていた。買い物に行く前に作っておいたホットケーキのもとが先輩ことリーナの手により恐るべきものに変えられていたのだった。
それを彼女の後輩であるラグナの度重なる気絶と長年の勘で察していたエレーナは見た目はマトモそうなリーナのお菓子を食べる前にある提案をした。
「禾槻さん、これをどうぞ」
「何、これ?」
不思議そうに禾槻は見る。一見すると蜜のようなものだが違う気もする。
「一族に伝わる甘い蜜です、パンのようなあまり味のしないものにつけて食べるのでホットケーキにも良く合いますよ」
「へ~ありがとう。使わせてもらうよ」
爽やかな笑顔で禾槻は言う。本来、この蜜は現在でいう胃薬である。騙すのはエレーナとて心苦しいが世の中にはそうも言ってられない局面もあるのだ。そしてエレーナの機転によって二人の胃袋は事なきを得たのである。味は……エレーナ曰わく健康的だったらしい。
二人は非常に絵になる様子でホットケーキを完食した後、更なる仕事ーー即ち家事に取りかかった。
なぜならここには家事をするべき人間がいない。いや、いることにはいるのだがかのメイドは冷血ショタコンの異名を艦内に轟かせるだけあって、文字通り少年のそばを片時も離れようとしないのだ。
更なる不幸は大人気ない三十路の変人貴族やら長生きなクセして無愛想で身勝手な少女やら趣味は掃除らしいが掃除より酒に飲まれて床を汚すことの多いダメ人間やらがいるのもこの原因の一つである。
そして何よりもこの二人がなんだかんだと言いながらも面倒見がよく、世話焼きなのが彼らの労働状況を悪化させていると言える。 そういうわけで二人は買い物という重労働の直後であるにもかかわらず、家事という重労働の追い討ちをかけられているのであった。全くをもって、情けも何もない話である。
「僕は掃除をするからエレーナさんはいつも通り……」
「はい、お洗濯とお夕飯の支度ですね」
わかってますよ、と言わんばかりの笑顔である。それじゃあと分かれる息のぴったりさは熟年夫婦と言っても過言ではない。
二人が掃除や炊事を終わらせ、さらには片付けと明日の朝ご飯の下拵えまで終えた頃には日は暮れ、辺りは闇に包まれていた。これは別に特殊なわけではない。二人がすべての労働を終え、一息つこうとすると変人研究者以外は皆、床についてしまうのである。
如何に彼らの労働状況が過酷なものかがわかる良い事例であるが、彼らにとってはこれが「普通」らしい。よって改善などは無理である。
エレーナは自室で星を眺めていた。彼女はこうして静かに何もせずに星を眺めるのが大好きだ。
コンコンとノック音がした。
「開いてますよ」
穏やかな声でエレーナは言う。
「突然、ごめんね。もう寝るとこ?」
入ってきたのは禾槻だった。
「いえ……星を見ていましたの」
うっとりとした声で言う、エレーナ。
「思い出があるの?」
「そう……ですね。ルイさんのお話をしたでしょう。彼が好きだったんです」
「……ごめんね」
「話題をふったのは私ですから。それより私に用事があったのではないのですか?」
「そうだね、そうだった。長くなるからホットミルクでもどう?」
「ありがとうございます」
ふわりと微笑むエレーナ。禾槻が毎日家事という名の重労働をしているのはこの笑顔のためでもあった。彼女のお礼が欲しくないと言ったら嘘になる。禾槻は頬が少し熱を持つのを感じる。こんな時ばかりは顔色がわかりにくい褐色の肌に感謝した。
「今から話すことは内緒にしといてね?」
唇に人差し指をあてながら、禾槻は言う。エレーナは静かに頷いた。
◆知られざる悩み◆
エレーナの部屋に招き入れられた禾槻はカップを手に、家主から勧められた丸椅子へ腰掛ける。エレーナは対面に位置付くベッドの縁へ腰を下ろし、渡されたカップを両手で包み込んだ。
「エレーナさんに、昔のことを聞かせてもらったからね。僕も話しておかないと不公平かと思って」
「そんな……気にする必要ありませんのに」
「いいや、僕が話したいんだ。きみに聞いて欲しい」
面と向かい合い、禾槻は微笑んだ。その中に真剣な決意を感じ、エレーナも頷き返す。
「とはいえ、あまり面白い話じゃないんだけどね」
苦笑して禾槻はカップを口へ運んだ。一口だけ中身を飲み、ゆっくりと息を吐く。
「僕は母さんを探して旅していたって、前に少し話したよね」
「はい」
「僕が母さんと離れ離れになったのは、まだ7歳の頃なんだよ」
カップの中の水面を覗き、禾槻はどこか遠い目をする。幼き日の記憶を反芻するように、朱瞳は細められていた。
「どうしてですか? まだ小さい頃じゃないですか」
「僕達は奴隷だったからね。奴隷はね、なんの権利も与えられない人の形をした家畜なんだ。だから僕達の意思とは関係なく、金銭で売り買いされる」
悲痛な顔でカップを握り締めるエレーナへ、禾槻は力なく笑い掛けた。変え難い現実を受け入れた諦観の面持ちで。
「母さんには新しい買い手が見付かったんだよ。それで僕達は引き離された」
「それ以来、お母様を捜してらっしゃるのですか」
「うん」
エレーナが送る労わりの眼差しに、禾槻はそっと頷いた。もう一度カップを口元へ持っていくと、満たされたミルクで喉と唇を湿らせる。
「あの頃の僕にとって、母さんは唯一の味方であり、世界の全てだったんだ。居なくなった時は、それこそ世界が終わるような気分になった」
「どんな方だったのですか?」
「そうだなぁ。綺麗で優しくて温かくて、何時も不遇な扱いを受けてたけど前向きだったよ。何も怨まず許す心を持てと教えられた」
「素敵なお母様だったのですね」
母親について語る禾槻の言葉に、エレーナは柔らかく微笑んだ。青年が紡ぐ一語一語に強い親愛の情と、普段以上に優しげな響きを感じたからだ。彼の母へ向ける想いの質が、充然に伝わってくる。
「そうだね。食べ物もろくに与えられなくて、何時も襤褸切れ同然の服を着て、朝から晩まで働かされて。そんな辛い奴隷生活に耐えられたのも、母さんが居たからだよ」
「だからこそ、どうしても会いたかったのですね」
「うん。幸いにしてと言うべきか、母さんと離れて少ししてから特異能力に目覚めてね。僕を繋ぎ止めていた枷を焼き切り、飼い主だった商人の家を焼いて逃げ出したんだ。それからはずっと、当てもなく世界を彷徨ってきた」
昔語りをする禾槻の表情は、懐かしさと苦味の双方が混ざり合った複雑なものだ。幼少期の過酷な体験が心を焼くのか、時折面上へ苦渋が過ぎる。
その様子を目の当たりにして、エレーナは悲しげに目を伏せた。気心の知れた友人の痛ましい過去に、胸の締め付けられるような思いがする。それなのに何もしてやれない自分の無力さへ、堪え難い歯痒さが募っていく。
「でも、お母様は見付けられたのでしょう? 以前の話でも、捜していたという過去形でしたから」
「うん、まあ。何処に居るかは分かったよ。母さんの事をよく知る人から話を聞けてね。直接は会ってないけど、元気にしてるみたいだから、それでいいんだ」
カップの中を見詰めて、禾槻は寂しそうに微笑を刷く。それは本当に消え入りそうな、儚い笑顔だった。
「何処にいらっしゃるか分かっているのに、会いに行かれないんですか?」
「うん」
「どうして……」
「母さんは僕と離れてから新しい人生を手に入れたみたいなんだ。その生活は穏やかで、安定したものだった。少なくとも奴隷時代に比べれば、ずっと幸福な日々を送れている。母さんが幸せになれたのは、凄く嬉しいよ。なんていうのか、とても安心した」
禾槻はそこで言葉を切り、天井を仰いだ。それから口を閉ざしてしまう。エレーナも黙したまま、青年の発言を待った。部屋の中には沈黙が訪れ、二人の周囲に奇妙な緊張を齎す。
たっぷり十秒ほどの間を空けて、禾槻はゆっくり視線を落としエレーナをへ向けた。揺らぎなく注がれる朱瞳には、覚悟と悔恨が等分に滲む。
「だからこそ、僕は会うべきじゃないと思う」
「どうしてそう思われるのですか? お母様はきっと、霧川さんに御会いしたいと思っている筈ですよ」
「僕の父は誰か分からないんだ。母さんは奴隷として色んな人の手を渡っていたからね。女奴隷がどんな目に遭わされるか、想像出来るだろ? つまり僕はさ、母さんにとって人生の汚点みたいなモノなんだよ。振り返りたくない過去そのものなんじゃないかと思う」
真剣な口調で禾槻は告白する。今まで誰にも晒した事のない、心奥に秘めた不安と痛みを。
「母さんに会いたい一心で僕は生きてきた。でも、いざ会えるとなって気付いたんだ。僕が会いに行ったら、きっと母さんの幸せを壊してしまう。僕という存在は、嫌でも昔を思い出させる悪夢の結晶だ。奴隷時代の暗い過去を拭い去って、光の射す生活を営む母さんに、僕は会っちゃいけないんだよ。今まで散々辛い目を見てきて、ようやく幸せを手に出来たんだ。そこへ行く資格が、僕にはない」
嘆きと諦めの混濁した顔で、禾槻は重々しく息を吐いた。それは強固な決意の表れであったが、同時に自分自身へ言い聞かせているようでもある。己の選択に少なからぬ迷いを抱いている事は、彼が覗かせる複雑な表情から充分すぎるほど知れる。
「どうして、そんな事を言うんですか」
エレーナの呟きが、空白の大気に弾けた。小さいものの幾多の感情が込もる声だ。カップを握る手が小刻みに震えている。俯き加減の顔は、血が滲むような心痛を浮かべていた。哀しみと、彼女が滅多にみせることのない怒りによって。
「大切な肉親の方へ会うのに、決まりなんてあるわけがないじゃないですか!」
「エレーナ、さん?」
「ずっと離れていた親子が再会するのはいけないことなんですか? 会っていいのかどうか、資格があるとかないとか、そんなの誰にも決められるわけないじゃないですか!」
かつてない程の剣幕でエレーナが叫ぶ。鬼々迫るとも表現出来る顔付きで声を張り上げながら、彼女は泣いていた。緑の瞳から零れ落ちる透明な雫が、幾つも連なり白い頬を滑っていく。禾槻は驚きに目を瞠り、そんなエレーナを唖然と見ていた。
普段から淑やかで穏やかな彼女は、殆ど感情を乱すことがない。今回のように声を荒げた事は、禾槻が知る限り一度もなかった。優しく朗らかな姿に隠れてあまり見られないが、彼女には誰にも負けない芯の強さがある。それが今、明瞭に表立っている。
「せっかく会える人が居るのに、それなのに会わないなんて……そんなの、駄目ですよ。どんなに会いたくても、もう二度と会えない人だっているんです。チャンスがあるなら、会わなくちゃ……でないと、きっと後悔します」
嗚咽混じりにしゃくり上げ、エレーナは呻く。涙の溜った視界は酷く霞んでいたが、それへ構わず禾槻をじっと見詰め続けた。彼もまた視線を逸らしはしない。
「霧川さんには会いたい人が居て、しかも望めば会えるのでしょう? だったら悩むより何より、まずは会いに行かないと。幸せかどうかなんて、そんなの直接聞かなくちゃ分からないですよ」
多少低まった鼻声でエレーナは続けた。とても強い願いの宿された言葉が、真っ直ぐに禾槻へと届けられる。
3000年の遠い昔、最愛の家族と仲間を失った彼女の訴えは、あまりに重く痛ましい切実さを持っていた。恐ろしい孤独への哀しみと絶望。埋め難い喪失感と空虚さ。それらを誰よりも長く抱き、嘆き苦しみ続けてきたエレーナの真摯な願いは、高名な賢者の説法よりも胸へ打ち響く。迷い揺れる青年の心を烈しく刺激し、大きな衝撃を与えるほどに。
「エレーナさん、ごめん。きみを泣かせたかったわけじゃないんだ」
すまなそうに謝罪を口にし、禾槻は椅子から立ち上がった。そのまま数歩前へ進んで手を伸ばす。羽織の袖から出た褐色の腕と細い指が、依然として涙を湛えるエレーナの瞳へと向かう。彼女の目尻に浮かんだ涙の粒を、伸ばされた指が優しく拭った。
「でも、ありがとう。きみの言うとおりだね」
雫が払われ開けた視界に、穏やかに微笑む禾槻の顔が現れる。憑き物が落ちたような爽やかな笑みに、エレーナはそっと息を飲んだ。込み上げていた感情の奔流が、少しずつ落ち着いていく。
「まさかエレーナさんに怒られるとは思わなかったよ。ごめん。きみだって、辛いのにね。僕が間違ってた。きみのお陰で目が覚めたよ」
「あの、私の方こそ、霧川さんの気持ちも知らないで……言いたいことだけ言ってしまって、ごめんなさい」
徐々に冷静さを取り戻していく中で、エレーナは深々と頭を下げた。心の猛りに任せて言い放った科白を一つ一つ思い出しては、その度に恥と申し訳なさで赤面していく。
そんな彼女へ笑い掛け、禾槻は頭を左右へ振った。晴れ晴れとした彼の面立ちに、不快さや苛立ちは皆無である。面上へ満ちるのは、自分の迷いを断ち切って前を向けさせてくれたエレーナへの、尽きることない感謝の念だ。
「なんだか二人して謝ってて、変な感じだね」
「ふふふ、そうですね」
顔を見合わせて、禾槻とエレーナは同時に吹き出す。先刻までの張り詰めた空気は、今や完全に霧消していた。
「とにかく、決心がついたよ。やっぱりエレーナさんに話して良かった」
「私はただ言いたい放題言ってしまっただけですが。でも、どうなさるか決められたのならよかったです」
「うん。それで、ちょっと御願いがあるんだけど。いいかな?」
にこやかに頷いた後、禾槻は少しばかり真剣な顔に戻ってエレーナを見た。禾槻の真面目な口ぶりに、エレーナも居住いを正す。
「はい。なんでしょうか」
「実は、母さんに会いに行く時なんだけど。一緒に来て欲しいんだ」
「えっと、それは私が、ですか?」
思わぬ申し出にエレーナは驚き、目を瞬かせる。どういう事なのか、正確に理解が出来ない。
「うん。御願い出来ないかな」
「どうして私なんですか?」
「母さんに会いに行く決心はついたんだけど、情けないことにまだちょっと不安でね。エレーナさんが一緒に来てくれたら、心強いんだ。それに、大切な友達として紹介もしたいし」
照れ臭そうに頬を掻いて、禾槻は子供めいた笑みを覗かす。快活な雰囲気にはもう、暗さや気負いはまったくなかった。