決戦、破壊の君主と冒険者(前編)
執筆者:ういいち
◆前編◆
古代の研究施設を奥へと進む冒険者一行。彼等が長い通路を抜けた時、唐突に広大な空間へと辿り着いた。
それまであった閉塞感が失われ、代わりに屋内とは思えない解放感が押し寄せてくる。仰ぎ見れば天井は高く遠い。奥行きも両壁との距離も、通ってきた通路と一線を画す。かなり大規模なホールだった。
構成している物質は、現在一般的に使われているものとは異なるようだ。鉄に似た光沢を持つが、それよりも鈍く冷たい印象がある。3000年の長き時間が経過しているとは思えない、新品同様の姿。太古の技術力がどれほど凄まじかったかを教えてくる。
駆け込んできた9人は、だだっ広い領域を中程まで進み、思わず脚を止めた。驚嘆と共に周囲を見回す。
「此処はいったい、何のための場所なんだ?」
到底届きそうにない彼方の頭上を見て、レリオは不思議そうに首を傾げた。それへ後続のアウロが私見を述べる。
「これだけ大きいと倉庫か、でなきゃ実験場なのかもねぇ」
「それにしちゃ、随分とまぁ小奇麗なこった。責任者はよほどの綺麗好きとみえる」
防毒面から軽口を叩くスキンク。
「……霧川と気が合うかも」
それを引継ぎ応じるラグナは、前に立つ禾槻を見た。
「会えるものなら、僕も是非お話がしたいけどね」
話を振られた側は肩をすくめ、苦笑しながら頬を掻く。その様子を近くで見ながら、エレーナは優しく微笑んでいた。
「でもどんな方なんでしょうね。ちょっと興味があります」
「私も同感です。これだけの技術水準を誇っているなど、驚きを禁じえません」
エレーナに賛意を示し、セルシアは溜息を吐く。驚きと尊敬が混在する表情は、此処にいる一同に共通するものだ。一部、マスクの所為で顔が分からない者も居るが。
「ふぅむ。やはり古代の文明は奥が深いな。これだから冒険は止められぬのだ」
嬉しいそうに床板を触りながら、ノイウェルははしゃいだ声を上げる。この遺跡に踏み入ってからというもの、彼の心は躍りっぱなしである。
「皆様、御気を付け下さい。何か来ます」
リリナの放った怜悧な声が、全員の意識を瞬間的に引き締めた。常に低く冷たく安定した精神状態を保つ艦長付きメイドの声が、この時は平時にない緊張を宿している。それが伝わり、各自は武器を手に戦闘隊形を形作った。
セルシアとリリナが最前衛に立ち、その後ろに禾槻、更に下がってレリオとアウロが位置し、ノイウェル、スキンク、ラグナ、エレーナの四人が後衛部隊だ。
各員が自分の得物による間合いを考慮し、敵襲に備えて布陣を敷いた時。突然、全員の見遣る前方空間へ巨大な物体が落下してきた。
硬い床板に叩き付けるが如く着地し、発生した衝撃で空間全体を揺動させる。床も壁も全てが震え、其処に立つ冒険者一行を同じく襲った。危うく倒れそうになるのを寸でで堪えた面々が、今一度正面空間を見る。九つの視線が等しく集う場所には、山城と見紛うほどの巨体が黒々と聳えていた。
それは金色の剛毛で覆われた巨躯の野獣。全長にして5mへ達そうかという、禍々しい獣の王だ。
厚い毛皮の下では膨れ上がった筋肉が犇き、鋼に似た光沢と物々しさを放射する。四肢は樹齢を重ねた大木と見紛うほど逞しく、前後肢の先からは鋭利な爪が伸びていた。野太い首の周囲に黄金の鬣が揺れ、長く太い尾がしなやかなに鋼板を叩く。
ギラつく牙を覗かせた口部は深く裂け、並びの良い牙列が鈍く光った。両眼は燃え盛る炎と同じ真紅。高みから冒険者一行を見下ろしている。
巨大な魔獣の頭部は虎とも獅子ともつかない。だが牙を剥いて唸る面貌には狂猛さと荒々しさが滲み出て、現存する生物を平伏させる風格を感じさせた。歴戦の猛者たる威風と、無敗の戦士たる矜持を併せ持つ、恐ろしくも雄々しい王獣の顔である。
「猛犬のお出ましだ」
自身を数倍する巨獣を見上げ、スキンクは軽やかに口笛を吹いた。あまりの迫力に、脅えるよりまず先に感嘆してしまう。
他の面子にしても同様である。かつてない巨体と威容に呆然と見入るノイウェルを始め、生唾を飲む禾槻と、開けた口を閉め忘れているレリオ。エレーナは口に手を当てて絶句し、口端を吊り興味深げな目で見遣るのはアウロ。リリナは緊張に若干髪を逆立てつつ、セルシアは我知らず拳を握り、ただラグナだけが普段の佇まいを維持していた。
各々が突然の乱入者によって思考を削いだのは、一秒にも満たない僅かな間だった。半瞬後には意識を組み替え、行動を起こすべく肉体へ電気信号的指示を飛ばす。無意識下の活動指針に反射の域で体が動いた時、一同へ年季と鋭さを伴った声が飛んだ。
「横へ跳びな!」
アウロの発した厳声には逆らい難い強制力があり、考えるよりも先に全員が従っていた。リリナ、禾槻、ノイウェル、レリオは左へ、セルシア、アウロ、スキンク、エレーナ、ラグナは右へ。9人が同時に左右へと弾ける様に跳ね広がった。
次の瞬間、金色の獅子王が巨顎を上下へ押し開き、口腔に眩い光が集い輝く。その光源に作用された世界が真昼以上に明るく染まった直後、怪物の口部から黄金の光線が勢い良く放たれた。
人一人を飲み込んで尚余りあるだろう巨大な光の帯が、洪水さながらに迸り、一直線に駆け抜けていく。膨大な熱量と光量を有す極大の閃光は、触れた鋼板を瞬時に抉り消滅させ、冒険者達が先刻立っていた場所を正面から通り抜ける。
凄まじいエネルギーの余波を周囲に撒き散らしたまま、轟き唸る大光線は尋常ならざる速度で直走った。一同が通ってきた通路へ躍り出て、止まる事無く彼方へと突き進む。巨大な光は施設の床や壁を焼き払い霧消させながら、依然として勢いを劣ろわせない。
左右両側から眩いばかりの光芒を見届ける面々は、その暴力的な出力と威力に圧倒されていた。瞼を閉じても透過してくる程の輝きに顔を照らされて、誰もが魔獣の先手に言葉を失っている。各人の想像を遥かに超える大砲撃を最初に撃たれ、今まで相手してきた魔物との格の違いを見せ付けられた。ある意味で、出鼻を挫かれたともいえる。
「おいおい、冗談だろ」
眼前の光景を信じ難いという面持ちで、レリオは誰にともなく呟いた。
「あんなのを受けたら」
「……治療する体の方がなくなる」
半ば唖然とするエレーナの震えた言葉を、ラグナは目を細めて締める。
「恐ろしい魔力を感じるぞ。あれは魔導砲だ!」
「あんな規模の砲は見た事がないよ」
興奮気味に声を荒げるノイウェルに首肯で応え、禾槻は僅かに身震いした。
彼の言葉が轟音に掻き消されて届かない中、セルシアは自分達を導いた老女の機転に賞賛を送る。
「アウロさんのお陰で、助かりましたね」
「大したことじゃないさ。ちょいと風の流れが妙だったから、警戒したまでだよ」
大気中に漂う魔力の動きは閉鎖空間内で大量に行われると、空気そのものを微量ながら撹拌させる。常人には理解し難いささやかなものであるが、片翼の感知力が群を抜いて高いアウロだからこそ看破出来た。この状況で魔力の変動が意味することは、十中八九敵勢の攻撃手段であろう。それを素早く見抜いての号令であった。
しかし初撃を躱したとて、安心している余裕はない。大威力の一撃を放った後に、巨大獅子も次行動をみせる。
発射された主砲は異形が口部を閉ざすと共に、何事もなく立ち消えた。光線の通り道は硬材が悉く食い破られ、綺麗に接触面のみが失われている。後には微かな魔力の残滓が漂うだけだ。
獅子の砲止に合わせ、それぞれが緊張と警戒を改めて帯びる。後方支援組は次の一手に備えて護りを固め、前衛組は攻撃の為の間合いを計った。
敵が動く。それは全員の反応速度を僅かに上回っていた。獅子は素早く体向を捻り、左側へ退避したメンバーへ赤眼を射込む。それを四人が認識するよりも早く、野獣の頭部は横薙ぎに払われ、先頭に立つ禾槻の体へと直撃した。
見上げる程の巨体からは想像出来ない、俊敏で軽快な動作である。猫科の生物同様にしなやかで、バネの利いた動きは一切の無駄がない。禾槻も咄嗟にガードを試みるが、完全な守りが組まれる前に獅子の横面は全身へ激突し、頭部の振り抜きに任せて吹き飛ばされた。青年の細い体は冗談のように空中を滑り、何mも遠方に放られて床面へ叩きつけられる。
その衝撃は凄まじいものだった。近くに居たノイウェルはインパクトの瞬間、圧迫された肉の下で骨が軋み、砕ける音を確かに聞いた。
「禾槻ッ!」
「霧川さん!」
ノイウェルとエレーナの悲痛な叫びが重なる。
それと時を同じく、右手退避勢の一人アウロは、静かに狙撃銃のスコープを覗いていた。
怪物が禾槻達を向いたことで、期せずして背面側を取る位置付けとなった。自ら無防備な背を向けた異形の迂闊さを胸中で指摘し、アウロは正確に狙いを定める。所要時間はゼロコンマの世界。押さえたのは右後肢大腿部。怪物の機動力を削ぎ、体勢を崩す目算から引き金を絞る。
息をするのと同じレベルで馴染んだ銃撃の感触が腕へと響き、音もなく銃弾は解き放たれた。虚空を突き抜ける一弾は滑らかに飛翔し、目標を違えず獅子の後肢へと減り込んでいく。強力な硬弾は毛皮を押し開いて外皮を貫き、筋肉の壁を穿って体組織内奥へと侵入する。そのまま立ち塞がる全ての障害を破壊して、侵入口の真反対から外界へと躍り出た。
魔獣の巨躯を支える大きな四肢は、彼女にとって外す事の方が難しい的である。アウロは見事に目的を達成したのだ。
だが、怪物に怯んだ様子はない。銃弾が貫通したというのに雄叫びも上げず、微動だにせず、力の減衰さえ感じさせない。その代わりとでもいうように長く撓る尾が振るわされ、横合いから豪速で狙撃者へと襲い掛かった。
「こいつは!」
舌打ち混じりに床を蹴り、アウロは咄嗟に回避行動へ移る。けれど間に合わない。敵の方が速度も攻撃範囲も上だった。逃げ切れぬまま尾撃を見舞われ、老女の体は強烈な一打を叩き込まれる。体内で弾けた衝撃と痛覚に意識を焼かれながら、数度回転して床面へと落下した。
その最中、目まぐるしく変わる視界の端にアウロは見た。今出来たばかりの銃傷が、信じ難い速度で塞がっていく光景を。
狙撃手を打ち倒しそれでも尚、巨獣の尾は止まらない。進路を違えず床上を盛大に走り、エレーナとラグナ目掛けて猛進する。迫り来る金の大波に眼を見開くエレーナ。ラグナは彼女の手を引いて逃れようと一歩を踏んだ。
そこへセルシアが駆け込む。彼女は二人の前に走り出て、仁王立ちになると両腕を正面へと突き出した。厚い篭手に護られた二本の腕が、恐ろしい速度で接近してきた尾撃を受け止める。両腕にかつてない圧力がぶつかり、勢いのまま彼女の脚は鋼板を滑っていく。靴底と床との摩擦で火花が散り、抵抗しつつも後退は止まらない。
「おおおぉぉぉッ!」
腰を落とし、足を踏ん張り、両腕へ渾身の力を込め、セルシアが吼える。気合の怒号を響かせて全力の抗いを成し、機械の体をフル稼働させ果敢に挑んだ。
その結果、巨尾に進まされる彼女の動きは徐々に少なくなっていく。魔獣の尾に接した掌からは白煙が昇り、少しの間を置いて完全に停止する。常人を凌ぐバスターアーマーの膂力が、王獣の猛撃を凌いだのだ。
「二人共、今のうちに離れてください!」
金毛に覆われた眼前の尾を睨んだまま、セルシアが背後の少女等へと声を張る。退避を求められたラグナとエレーナは素直に頷き、急ぎ尾撃の進路から離れていった。
二人の退去を背中越しの気配で察し、それが感じられなくなったところで、セルシアは大きく息を吐く。安堵の吐息ではなく、集中の呼気。次に右の拳を握り、上体を幾許か捻転させた。腰溜めに宿された力は一瞬だが最大。一拍の間をあけ、力任せの右ストレートが打ち出される。
篭手に固められた拳打は対面の獣尾を直撃し、爆発的な衝撃を爆ぜさせ押し返した。
一方魔獣の頭部側では、リリナが指に挟んだナイフ四本を、腕の振りに合わせて同時投擲する。放たれた特殊鋼製の強化ナイフは弾丸と見紛う速度で敵へ向かい、開かれた赤い眼へあやまたず命中した。四本全てが鋭い切っ先を真紅の眼球へと突き込ませ、粘度の高い水晶体を切り裂いて深々と沈み込む。
並みの生物なら絶叫を上げて悶えるほどの激痛が生じた筈だが、魔獣はまたしても何の反応も返さなかった。まるで痛みを感じていないかのように、平然として怯みを見せない。
そんな相手へ怪訝な顔を作るリリナだったが、すぐにそれは切迫した危機感によって塗り潰される。巨躯の獅子が刃の刺傷に頓着せぬまま、逞しい左前肢を振り上げたからだ。高らかに掲げられた前脚と先端へ光る凶暴な爪は、彼女の主君ノイウェルを狙っていた。
「ノイウェル様!」
叫ぶが早いかリリナは走り、殆ど飛び掛る勢いで少年を突き飛ばす。同時に獅子の巨腕が振り下ろされ、恐るべき鋭爪が空を掻いた後にメイドの背中を容赦なく抉った。
衣類と背肉は大きくこそぎ取られ、千切れた肉片と赤い血滴が宙へ舞う。脳髄に焼き鏝を当てられたような痛みに耐え切れず、リリナは過剰に歯を噛み合せたまま苦鳴を漏らした。
従者の痛ましい呻き声を、投げ出された拍子に床へ倒れたノイウェルが聞く。彼は慌てて立ち上がり、自身の無傷の代償に傷付いたメイドへと駆け寄った。
「リリナ、余を庇ってこんな……」
ざっくりと裂けた背中を見て、少年艦長は顔色を失くし唇を戦慄かせる。その心許無い表情を見上げて、リリナは苦しげに顔を歪めながら口を開いた。
「ぐっ……ノイウェル、さま……御怪我、は?」
「ない。余は無事だ。そなたのお陰でな」
「さよう、で……それ、ならば……っ……よかった」
消えない激痛へ苛まれながら、それでもリリナは表情筋を僅かに緩める。
苦痛を堪えて浮かべられた微笑を見て、ノイウェルはきつく唇を噛んだ。己の無力さを恥じ入り、従者の献身へ目尻に涙を滲ませる。
そんな二人の在り様などお構いなしに、巨獣は巨顎を再度上下へ開いた。露となった口腔の深奥では強い赤光が躍り、急速に外界へと差し迫ってくる。
「この野郎!」
これへ対し憤慨の一喝を以って、レリオが持参した重火器を構え取った。バレットM82A1の長い銃身を敵の額へと向け、狙点の固定と同時にトリガーを引く。全身が揺れ、銃口が振れ上がる程の反動を残し、耳を劈く射撃音と共に高威力貫徹弾が射出された。
凶弾はレリオが選んだ規定ルートを高速で抜け、微塵の躊躇も抱かずに魔獣の眉間を一撃で貫く。コンクリート塊や戦車の装甲すらも貫通する最強のアンチマテリアルライフル、それが繰り出した狙撃弾は怪物の頭骨を易々と噛み砕き、内容物を撃砕して、後頭部より壊れた組織片諸共に抜け出てきた。まだまだ勢力を逸しない銃弾は更に上方へと飛んでいき、すぐに見えなくなる。
「これでどうだ」
正確無比な定点狙撃を完了させたレリオが、勝利の確信を伴って得意気に歯を見せた。
が、頭部を攻撃されているにも関わらず怪物は止まらない。開いた口はそのままに、口内で燃え滾る紅蓮の炎をレリオやノイウェル目掛けて吐き出してくる。
「げぇ!?」
灼熱の大波が押し寄せてくる光景を前にして、レリオは甲高い悲鳴を上げた。逃げ場ない。そもそも逃げても確実に追いつかれる。絶体絶命のピンチへ不覚にも死を意識した。
それに敢然と立ちはだかったのはノイウェルだ。少年は倒れたリリナやレリオを庇うように前へ進み出ると、両手を広げ詠唱を開始した。言葉によって魔力を紡ぐ古代からの言語術式を使い、仲間を救う行動へ単身乗り出す。
「『其の力、我が声に応え王陣の護りを敷け。天の五芒に従いて大いなる担い手たらん。銀糸の囲いに碧き輩を添らし、荒ぶる霊光に立ち向かう猛き勇心の護法となれ』」
詠唱が終わった時、光り輝く膜が生まれドーム状に広がった。
光膜はノイウェル達三人を包み込み、荒々しい熱火の行進から防ぎ護る。獅子の大口から暴れ出た灼熱の吐息は、魔力によって組まれた防御陣にぶつかって左右へと裂けていった。燃え盛る炎はそれでも標的を焼き滅ぼすことは諦めず、立て続けに光の障壁へと激突していく。
紅の業火に周囲を取り囲まれ、眼前へ絶えず叩きつけられる危地の中、ノイウェルの張った結界内からレリオは見た。先刻リリナが食い込ませたナイフが、内側から押し出されるように魔獣の眼部から抜け落ちる。それへ伴い刻まれた傷が急速に閉ざされ、修復された。額に穿たれた弾痕も見る間に塞がり、傷痕はまったく残らない。
「再生してやがる。なんだ、この怪物」
あらゆるダメージを短時間で無効化してしまう獅子王の姿に、レリオは戦慄した。驚きと恐怖に顔を歪めて、悔しげに奥歯を噛む。
「そこぉ!」
裂帛の気迫を込め、右拳を突き出したのはセルシア。
魔獣の下半身側に立つ彼女は尾を退けた後に、アウロが攻撃した右後肢を再度攻めいた。巨大な獅子がノイウェル達に火炎攻撃を仕掛けている最中、意識を向けていないだろう背方から後肢に拳打を見舞う。
充分に力を込めた一撃は魔獣の脛を打ち、痛快な衝突音を響かせて拳の形に外皮を凹ませた。セルシアの放った豪打は内肉を拉げさせ、筋肉の層を圧力で断裂させる。人間ならば複雑粉砕骨折か、そうでなければ襲撃部位が弾け飛ぶほどの威力が込められていた。
しかし巨獣相手では有効打に至らない。重撃を受けた箇所は確かに大きな損傷を受けているようだが、当事者に応えた様子は皆無である。それどころか攻撃された後肢が振り上がり、セルシアの頭上目掛けて踏み下ろされてきた。
「くっ!」
彼女は素早く横へ跳び、巨肢に叩き潰されることだけは回避する。床面を踏み叩いた大足の反動で周辺は揺れ、薄い煙が落下地点より吹き上がった。それが終わった頃にはもう、今与えた拳の窪みは治ってしまい、攻撃が成功したのかどうかさえ分からなくなる。
スナイパーやバスターアーマー、ソルジャーの攻撃を受けてビクともしない怪物は、目前の標的を焼殺することは諦めた。開いていた口を閉ざし、放射される炎の波を一息で飲み込んでしまう。入れ替わりに鬣全体へ、発光する線が何本も走っていく。
それは静電気に似た電鳴の瞬き。幾つもの光が複雑に絡み合い、次第に黄金の鬣を青白い輝きで埋め尽くしてしまう。生まれ出でた生体電流は即座に超電圧化を遂げ、鬣の外周を一回りした後、最上部へ集い天高く飛び上がった。
遠い天井目指して昇った雷は数m上方で弾け、何本もの稲光となって降下してくる。激しく照り輝き、大気を焦がす落雷の雨。それが広大な空間中に降り注いだ。
雷撃の存在に気付いた者が視認した時にはもう、青白い稲妻は次々と床へ落ち、直下面に紫電を走らす。その一つがノイウェル達の防御膜へと激突した。最初の一発が光膜の頂点に落ちるが、魔力結界は威力を分散させ見事に耐えてみせる。だが二発目が命中した瞬間、光の全体に亀裂が走った。続け様に三撃が落下すると、結界はとうとう硝子のように割れ砕けてしまう。
「しまった!」
ノイウェルが愕然とするや四つ目の雷が降臨し、光に護られていた三人の集合点へ衝突した。
落雷のエネルギーが一気に弾け、見えざる滅びの波紋を拡散させる。生じた破壊力の暴走に当てられ、レリオとノイウェルは有無を言わさず吹き飛ばされた。倒れていたリリナも余波に煽られ、血の道を描いて床を転がる。
別所では飛来した一撃がセルシアの体を直撃した。天からの猛攻を脳天から浴び、機械の体は一瞬にして痺れ果てる。次にはもう彼女の意識は断ち切られ、白煙を上げる体が膝から崩れ落ちていった。
次々と襲い来る雷撃からエレーナとラグナは必死になって逃げている。二人共が走りながら、目指していたのはリリナの許だ。負傷した彼女を癒そうと床を蹴るが、後ろや横や進路上に相次いで雷が落ちてきては進めない。なんとか雷雨を抜けようとするも、予想不能な軌道に取り囲まれてそれすらもままならぬ。
もはや満足に動ける者が戦闘向きではない自分達だけ。絶望的な状況の中、二人の直上から新たな落雷が迫ってくる。嘶く雷光は凶暴な激牙を光らせ、無力な少女達へと今正に襲い掛からんと最接近を遂げた。頭髪を炙る獰猛な気配に気付いて二人が頭上を仰ぎ見た刹那、青白い轟雷は緑と黒の瞳を捉える。回避を許さぬ至近距離から落ちる雷に、二人は自らの焼け焦げる姿を幻視した。
けれど雷撃は突如直角に曲がり、少女等へ激突することなく虚空を走っていく。見ればこれから床へ向かおうとする全ての雷が、急遽角度と進路を変更して同じ方向へ滑っていた。まるで吸い寄せられるように、どの稲光も大気を掻いて突き進む。
「ヘイ、カモンサンダー!」
輝く雷線が一斉に目指すのは、魔獣からやや離れた場所。そこでは軍服姿の防毒面が、激しい手招きで踊っていた。今まで戦闘に参加せず、光学迷彩スーツでちゃっかり姿をくらましていたスキンクである。
彼の傍近くには2m余りの鉄パイプがそそり立つ。獅子の放った強雷電は、そのパイプへと方々から集まっていた。我先にとパイプへ飛びつき、一直線に伝って床へと逃げていく。スキンクが隠し持つ怪しいクスリを塗布した拾い物の鉄パイプは、雷を誘引して貪り尽くす避雷針として目下活動中だった。
「『皆を癒し隊』のお嬢さん方、今こそダッシュでゴーだぜ」
落雷を一手に引き受けるスキンクは、エレーナとラグナを鋭く指差す。
「スキンクさん。あの、ありがとうございます」
「……変人のくせに中々やる」
彼の快声にエレーナは頭を下げ、ラグナは微笑とも失笑ともつかない顔で背を向けた。そのまま二人は倒れているリリナ達へと急ぐ。
再び移動していく治療専門組を見送ると、スキンクは懐に手を入れてゴソゴソと何かを探し始めた。それと同時に巨体の獅子は放った雷撃の行く末に首を巡らし、傷一つない紅眼で防毒面を睨み据える。圧倒的な迫力と威風を湛え、揺ぎ無い殺意を昂ぶらせる魔獣。それと距離を取りながらも正対し、スキンクは一つの球体を取り出した。
「それじゃ遊ぼうかね、ブッサイクなワンちゃんよぉ。ピッチャー振り被ってぇ、第一球ぅ、投げたァァッ!」
声高に謳いながら、スキンクは出鱈目なフォームで手にした球体を投げつける。手榴弾らしき物体は強肩から放たれて豪快に飛び、低く唸る巨獣へと一直線に距離を詰めた。そのまま怪物の鬣へと潜り込み、剛毛に絡め取られて動きを止める。起こるべき爆発はなかった。
「おおっと、不発か。人生ってのは上手くいかないもんだと、古代の偉人も言っていた」
投擲物の結末を確認して、スキンクは大袈裟に肩をすくめる。
「……やっぱり使えない」
トカゲの名を持つ男の期待外れな有様に、ラグナは単調な冷声で見切りをつけた。早々に視線を逸らすと、自分の仕事へ向き直る。
彼女達は無事に、倒れた人員の許まで辿り着いた。同じ後方支援隊に属するエレーナは、カプセル状のナノリペアをリリナに飲ませている最中だ。ラグナは傍近くでのびているノイウェルとレリオに声を掛け、目覚めないので頬を叩いて強引に気付けする。
少年は一発で目を覚ましたが、青年の方はそうでもない。時間的余裕もないので、力加減をせず強烈な往復ビンタを叩き込んだ。頬が赤く腫れ上がり、ラグナの加虐心がそそられたところで、レリオはようやく目を覚ます。
「いてぇ」
「……起きない方が悪い」
理不尽な頬の痛みに手を添えて、患部を擦りながらレリオが呻く。ラグナに彼への謝意はない。寧ろ当然という顔で、平時の様相そのままに言葉短く胸を張る。
そんな一同を尻目に、スキンクは防毒面の下で冷や汗を垂らしていた。相対する魔獣の口角が押し開かれ、夜闇を思わせる暗い内奥から獰猛な冷気が溢れ出てくる。ドライアイスを用いたような濃い零煙が次々と流れ来て、床面へと厚く堆積していく。
白く冷めた冷霧が固い床を這い回る中、獅子の口腔から鋭い氷塊が放たれた。槍の切っ先同然に研ぎ澄まされた、一抱えほどもある冷気の結晶だ。巨大な氷結槍は充分すぎる殺傷能力を備え、スキンクへと真っ直ぐに飛ぶ。
一つではない。同程度の大きさを持つ氷塊が、一つ、また一つ、次第に数え切れないほど大量に、凄まじい勢いで連続射出され始めた。氷の散弾である。生者の存在を全否定することを前提に構築され、死者の量産を目的に撃ち出される零下の槍雨。それが尋常でない速度を有して獲物を襲う。
「ノォォー!」
くぐもった悲鳴を上げ、スキンクは逃げた。
僅かばかりの間隔を空けて飛来する冷弾を、どれも紙一重で辛うじて避けていく。けれど放たれ続ける猛撃は休む暇など与えず、華麗とも呼べない姿で回避に従事する防毒面を徐々に傷つけていった。
体のすぐ脇を高速で抜ける氷塊は容赦なく対象の肉体を食み、肩が抉れ、脇腹が裂け、脚を負傷し、腕に血華を咲かす。彼の血が床面を汚す後ろで、飛んだ鋭槍は鋼板へと突き刺さり、頑健な床面に深々と減り込んでは冷めた氷柱のオブジェとなった。
一向に止む気配を見せない氷れる散弾の連続斉射に、然程も時間を置かずしてスキンクの体が限界を迎える。放たれた一弾が脹脛を掠めた際、バランスを崩して前のめりに転倒してしまった。彼が倒れた瞬間、頭上を幾本もの氷結塊が通過し、背後空間を穿つ。続け様全周囲に氷塊が投下され、巨大な零槍の森が瞬く間に形作られた。
攻撃を続けながら魔獣は首を振り、体の向きを変えながら半弧を描く。動きに合わせて冷弾は床板を食い破ると、冷たい氷柱が我が物顔で空間を埋めてしまう。全く止まらない散弾の射出は、遂にノイウェルやラグナ達の方面へと向けられた。目覚めばかりの男性陣は勿論、非戦闘員である女性陣に於いても避ける事が望めない。絶望的な悪意の群舞は凶気の輝きを伴い、小鳥の雛同然に逃げ場ない面々を猛然と襲撃する。
「『輝け天臨の兆し。悪しき顎から我等を護り、救苑の防砂に魂の律動を以て。迷いなき降魔の狼煙を上げる其の糧となり、雌伏を有す永久の加護を求む』」
ノイウェルが二度目の詠唱を完成させた時、五人の前方空間に光の壁が出現した。
実体を持たない魔力の集合たる光壁は、飛来する氷塊の群を受け止め砕いて後ろに置いた命を護る。
「ノイウェル君、凄いです」
ノイウェルの使った防衛魔法を見て、エレーナは尊敬の込められた快哉を上げた。対してレリオは難しい顔で重々しく唸っている。
「問題はこの後だぞ。あの化け物、何してもすぐに再生しちまう。これじゃ何時まで経っても勝ち目がない」
「……無敵の生物なんていない。必ずどこかに弱点がある筈」
「そうは言っても、さっぱり見当がつかないんだよ。頭撃っても知らん顔してるような奴だぜ?」
ラグナの冷静な指摘に、レリオは困惑顔で首を捻った。どう対処すればいいのか、判断をつけかねている。
「なんとか触れることが出来れば、私の能力で知れるんですが」
対象に宿る思念や情報を触れることで読み取り、瞬時に理解するサイコメトリ能力。その保持者であるエレーナは近付き難い狂猛の魔獣を光壁越しに見て、強く両手を握り合わせる。
その間にも獅子の冷撃は継続され、夥しい数の氷塊が一同を貫くべく射出されていた。飛び掛る端から壁に衝突しては砕け散り、割れた氷片が落下する最中に次弾が十数本襲い続く。氷と壁がぶつかる度に双方を構成する魔力は削れていき、単発で終わるわけではない防御陣側は、とかく消耗が激しい。
「いかん、このままですぐに突破されてしまう」
悔しさを顔中に滲ませたノイウェルが、苦しげに歯軋りした。
少年が操れる魔力量では、膨大な魔獣の猛攻を何時までも凌ぐ事は出来ない。絶えず衝突してくる氷散弾の数が多過ぎ、壁には早くも皹が走り始めている。仲間を救いきれない自分の幼さや惰弱さが、責任感と申し訳なさを伴い強烈に胸を焼いた。
連続する圧倒的な魔弾斉射に、魔法壁は全容を保てなくなりつつある。亀裂が全体へ走り、表面では綻びが次々と生まれ、破損していく。容赦ない攻め手は緩む気配もなく、いよいよノイウェルの顔が苦渋を募らせてきた。
次の瞬間、打ち付けられた一発の氷槍が自らの崩壊と同時に光の壁を粉砕した。形成魔力が分解され霧散する中、遮蔽物の絶えた獲物へ氷れる散弾が襲い掛かる。これを正面に据えた面々は、己を貫く暴牙の群勢に慄然とした。
逃れられない悪夢が現実として覆い被さる。冷たくも鋭利な無数の切っ先が皮膚を切り裂き、筋肉を突き刺し、血管を断って、髄液を散らせ、内臓を貪り、神経を食い千切って、骨格を砕く。壮絶な痛みと苦しみが頭の芯を一瞬にして融解させて尚、終わらない地獄を感覚としてあらゆる認識域へ直接叩きつけてくる。嗚咽を漏らす暇さえなく、自身を串刺す冷結槍は数ばかりを無為に無碍に増していく。
そんな錯覚が脳裏を過ぎった時だ。一同の眼前を鮮烈な赤が豪快に走り抜けた。
襲撃物とは真逆の色合いが視認世界に躍り出て、少年含む男女は何が起こったのか理解出来ない。ただ一つ確かだったのは、予想した激痛が全身を満たすことはなかったということ。
唐突に割って入った猛火の流れは、五人へ迫った氷の散弾を一気に飲み込む。そのまま全てを焼き尽くし、一切合切まとめて瞬時に蒸発させた。並々ならぬ火力に消された氷槍弾が、後には揃って大量の水蒸気となり霞の幕を作り出す。
「これ以上、僕の仲間を傷付けるのは止めてもらおうか」
魔獣と正対する面々より幾許か離れた場所で、静かでありつつも強硬な怒気を宿す声が上がった。そこには鼻血を垂らしながらも、毅然とした面持ちで立つ禾槻の姿がある。
折れて負傷した腕は、持参したナノリペアで治療済みらしい。流血を吸って赤黒さの増した和袖から、硬く握られた拳が覗いていた。
「霧川さん!」
「……あいつ、絶対このタイミングを計ってただろ」
禾槻の登場に目を輝かせるエレーナの横で、ラグナは憮然と難癖をつける。仲間のピンチに颯爽と現れた青年の格好付けが、どうにも気に食わないらしい。誰にも聞こえない口の中だけで「霧川のくせに」などと毒づいてもいた。
最初に潰しておいた敵が妨害者として参入してきた事は、魔獣にも何がしかの思考を与えたのか。巨躯の怪物は素早く首を振り、黄金の鬣を打ち振るって、禾槻へ向きながらも氷の散弾を吐きつける。再び始まった零度の惨攻は、対象を変えても威力は落とさず、避ける間さえ与えずに降り注いだ。
「久々に全力でいかせてもらうよ」
氷弾の群雨へ晒されても臆さず視線も違えず、禾槻は声高に告げた。宣言に続き蒼い髪が微かに揺れ、両の瞳孔が急速に収縮する。中心に寄って細く狭まる眼球運動へ従い、彼を囲むように赤々と燃える炎が現れ出る。
生まれた火炎は渦を巻き、禾槻を包んで大きくうねった。意思を持つ大蛇ででもあるように激しく蠢き、氷の接近に反応して鎌首を擡げる。直線距離を踏破してくる散弾が一定ラインを越えた時、炎は勢いよく伸び上がり、前方空間へ飛び込んだ。
紅蓮の大火は青白い冷弾を悉く取り込み、遥か上位の熱量で圧迫し解凍。原型を即座に崩し、存在そのものを霧散させて攻勢能力を完全に奪い取る。飲まれた氷刃は抗うべくもなく消滅し、霧へと変えて空中に散った。
向かい来る猛撃を無力化した思念の炎は尚も猛り狂い、巨大な獅子へ逆襲の顎を閃かす。その途上で長く連なる炎の全容から幾筋もの火炎球が分離した。新たな小炎は空間中に赤い鮮雨を撒き散らし、床上へ隙間もないほど落ちて爆ぜる。願うもののみを焼き尽くす禾槻の炎は、鋼板へ突き刺さる氷柱群に情け無用の攻撃を掛けた。床一面を覆う超能炎が全てを炙り、屹立する氷の柱を相次いで瓦解させていく。白く輝く冷気の結晶は揺らめく熱火の舌に舐められ、飴細工同然の簡潔さで倒壊した。抵抗なく溶けて消える死の牙は水気質の蒸気と果てて、閉じた世界全域を一様に満たし取る。
視界の利かない白亜の海に、冒険者一向も巨躯の魔獣も揃って沈んだ。その内部では精神の燃焼体である炎と、魔力の凝結たる氷槍が反発し合う。双方の衝突は特異なエネルギー対流域を作り出し、立ち込める濃霧に浸透していく。然る後、蒸気幕を微細に震わせた。相互反応は霧内のごく低弱ではあるがあらゆるものへと伝播していき、各々が持つ固有振動に物体人体問わず共鳴作用を引き起こす。
打ち震わされた体は眠る活力を呼び起こされ、倒れる戦士達に再起の目を開かせた。喪失時間を顧みない即座的復帰が果たされ、覚醒した者は戦意を新たに素早く体勢を立て直す。
「――フッ!」
セルシアはバネ仕掛けさながらに跳ね起きる。短瞬に状況と自身の確認を終え、巨大な気配が燻る濃霧の深遠へと駆け出した。
「どうやら、少し寝ちまってたようだね。歳はとりたくないもんだ」
同じく目覚めたアウロは片翼を広げ、双眸の効力が及ばない水蒸気の統治世界を流れで読む。彼女だから出来る空気の微妙な変動を解く感知能力は、視界の有無に関係なく満ちた大気に内包される全ての位置と状態を、淀み交えず正確に教えた。
一方で雄々しき魔獣は地を踏み拉き、厚く棚引く噴霧の海へ巨体ごとに突進する。金色の剛毛と外皮へ纏わりつく水蒸気の微粒子を意にも介さず、盛大な疾駆音を響かせて空間を駆けて行く。正面から超能の力によって発現された荒ぶる猛火が激突し、顔面全体を覆い焼き焦がすも、体毛が煤け肉が爛れ落ちようと怯まない。痛みも熱さも感じる素振りを垣間見せず、野獣の吐息のみを残して走り続けた。
前肢が最後の一歩を踏んだ時、後肢は足場を勢い良く蹴り叩く。瞬時に行われた筋力と余剰体力の配分で爆発した跳躍力が、左右の後肢を支えとして獅子の巨躯を空中へと飛び上がらせた。金色に輝く毛並みが砂金を塗したように霧内で揺れ輝き、虚空に艶やかな煌きの軌跡を描く。
弧状に引かれた一線は、そのまま怪物の進軍ルート。重力の頚木を断ち切ったが如く舞い上がる異形の体躯は、空気と蒸気幕を切り裂いて霧外の境へ頭部を突き出す。真紅にギラつく野獣の眼は獰猛な悪意へ禾槻を映し、裂牙を剥いて高らかに咆哮した。巨大な雄叫びが天地を揺すり、音は壁となって衝撃を波形に散らせる。壮烈な絶震が漂う霧を押し流し、掻き払い、獅子を基点として一斉に奪い晴らした。
盛大な圧力と覇気が一切の水気を消すと、改めて広がり出た空間に巨翳は唸る。取り戻された視界の先では、禾槻目掛けて行われる魔獣の進撃が皆に見えた。しなやかな体動で自重を感じさせない跳躍から、獲物へと襲い掛かる狩猟者の攻撃。研ぎ澄まされた肢爪が右前脚諸共に、青年を切り裂く軌道である。
「まさか……」
炎に熱し焙られた面貌は既に再生を始めており、負わせた手傷は無きに等しい。与えた自力の炎攻が無意味であり、尚且つ差し迫る獅子の惨撃を前として、禾槻は愕然と表情を歪ませた。
逃げおおせる為の距離と時間は既になく、自らへ見舞われるだろう死神の洗礼を待つばかり。視野を収める世界の姿と時の流れは酷く緩やかに感じられ、全てがスローモーションのようにも見えてしまう。圧縮された体感は、青年に自らの終局を否が応でも連想させた。
目を逸らせない現実。その無慈悲な爪牙が、若者の肉体を挽肉にせんと振るわれる。瞬前、禾槻の前に躍り出る人影があった。
それは疾風と見紛う迅速さで青年と巨獣の合間へ入り、振り下ろされた前肢を両腕で受け止める。激音が響き、鋼板を幾らか後退した。しかし弾き飛ばされる事も、叩き潰される事もない。獅子の重脚を両手で防ぎ、床を踏み締めてこれへ耐える。
「セルシアさん」
眼前への乱入者を認め、禾槻は安堵と感謝を綯い交ぜにその名を呼んだ。
「間に合いましたね」
セルシアは振り返らず、救助者の無事に短く応じた。
獅子の体重が乗せられた一撃を押さえ取り、足場にされた鋼板が軋む。伸ばされた両腕には過重な負担が掛かっているが、彼女に怯む様子は皆無。歯を食い縛り、決死の形相で巨大な圧力を押し返そうと奮戦していた。
新たな妨害者の出現に攻撃が止められ、弧状に巨体を流した揚力も失われる。予期せぬ空中位で止められた獅子は重力に任せて下半身を降下させ、隆々たる後肢で床面を踏み叩いた。強い揺動が起こり、空間全体が震える。
「忍法『死んだフリ』解除」
揺れ幅が際限なく広がる中、失せた霧下からスキンクが起き上がった。そこかしこに氷槍に抉られた傷口があるも、致命傷には至らないのか本人は元気なものだ。
「レッツ、フィッシーング」
言うが早いか、スキンクは右腕を振り被り、先刻同様の投球フォームで自らの腕を一息に振り抜く。何も持ってはいない手が最上方から振り下ろされると、動いた袖口から銀に光る細い糸が飛び出した。糸は真っ直ぐ空間内を駆け抜けて、セルシアが抑える怪物の前肢へと高速で巻き付いていく。
前肢下方から入り側面を上がり、上方から回転運動的に落下して再び下方を潜る。そのまま上方と転換、下降と進行を繰り返して、銀糸は瞬く間に絡みついた。スキンクが持ち込んだ秘密道具の一つ、特殊鋼製のワイヤーである。
「大漁じゃーい!」
意味不明な掛け声を放ち、スキンクはワイヤーを勢い良く引いた。
セルシアに遮られて地を踏まぬ魔獣の脚は、接地面の少なさから安定性がない。そこへ加えられた横合いからの強引な操作で、雄々しい巨体が引き側へと緩やかに傾ぐ。
「燃えろォ!」
禾槻の吼声が続き、渦巻く炎が立ち昇った。火炎流は怪物へと押し寄せ、間髪入れずに側面部へ激突する。
紅蓮の猛火は金の剛毛を焼き払い、獅子の皮膚を熱しながら傾き側へ更に押し遣る。ワイヤーと熱火の二重奏に晒され、権衡の磐石さを欠いた怪物の体躯が揺れた。
「はあああぁァァッ!」
セルシアはこの機を逃さない。魔獣の前肢へ両腕を押し付けたまま、右脚を軸として全身から捻転する。
左右両人の同一方向力へ彼女の体動が劇的に作用し、聳えるまでの巨体が自らの重みに耐えかねたよう床面へ落ちた。荒ぶる絶咆が轟く中で金の原野が空を掻き、意思に反して斜傾へ渡る。後は自制も利かぬまま進行力に支配され、硬い鋼板へと横腹から叩き付けられた。王獣の横転に再度空間全体が震え、立つ者達に再び平等の振動を伝える。
「逃がしはしない!」
魔獣を床へ伏せらせた直後、セルシアは顔面部前方へ跳んだ。
兇悪な獅子の異貌を正面にするや、ガントレットへ覆われた右拳を鼻面へ叩き込む。鋭い拳打は突き出した嗅覚器官へ直進で減り込み、筋組織を圧迫破壊して骨格を砕く。その確かな感触を手に覚えながら、セルシアは即座に左拳を繰り出した。機械の豪腕は容赦なく傷付いた鼻腔部へ突き刺さり、右腕よりも深く肉壁を穿つ。
拳を引き抜き際、今度は右脚を全力で見舞う。下段から上段へと一気に蹴り上げられたハイキックが、抵抗細胞を両断して魔獣の厚い顔皮を鋭角に削いだ。黒い体液の付着した脚を、今度は直下に振り下ろす。風切る一閃と化した右脚は垂直に降下し、強烈な踵を面の中心へ打ち落とした。
眼にも止まらぬ蹴撃を受けて敵勢の内肉が陥没すると、セルシアは両手を握り合わせて大振りに叩き込む。再三の攻撃で損壊した部位が止めを浴びて無惨に破れ、割れた筋肉と抉れた神経子が露となった。断裂する血管からは黒液が溢れ出し、際限なく流れ出しては床面へと滴り落ちる。
それでもセルシアは止まらなかった。一連の攻撃では不十分と判断したのか、右腕の豪打から始まる連続撃を再開する。新たな攻勢が開始される横では、禾槻の作り出した超能の業火が魔獣の獅子へ絡んでいた。敵の体勢変化を許さぬばかりに燃え上がり、二度と動けなくする意図から体肉を骨の髄まで焼き尽くす。
「今なら」
セルシアと禾槻の物理及び火炎の相撃が、絶え間なく巨獣の自由を奪っている最中である。状況の推移を見守っていたエレーナが、何を思ったかラグナ達に背を向けて戦闘領域へと駆け出した。
「え? おい、待てって!」
巨大な獅子に向かい始めたエレーナの後姿へ、慌ててレリオが声を投げる。直接的な戦闘能力も、その手段も持たない彼女が自ら敵へ突撃する意味が、すぐには理解出来なかった。敵の強大な力を目の当たりにしているなら尚更で、呼び止める声には焦燥と切迫が滲む。
だが彼女は戻ってこない。
「……なにをするつもり」
「いかん、危険だぞ。エレーナ、止めるのだ!」
ラグナやノイウェルの制止も振り切って、エレーナは強かに鋼板を踏んだ。緊張に強張る真剣な顔付きで、倒れた魔獣へと真っ直ぐに駆け寄る。
「エレーナさん?」
突然現れた後方支援の治療要員を見て、禾槻は目を剥いた。何故、彼女が今こんな前衛線へ突出しているのか。
青年が考を巡らせるより先に、エレーナは目標へと到達する。滑りこむように右の前肢へ接近すると、炎に包まれ燃えるそれへ手を伸ばす。自身の望むもののみを発火させる禾槻の超能力特性を知っている為、赤い揺らめきへの恐怖はない。伸ばされた彼女の腕は怪物の肢へ触れた。その瞬間、触知能力が発動し、接触対象が保有する膨大な情報がエレーナの脳へとダイレクトに流れ込む。
彼女が自らの目的を達成し終えのと前後して、或いはその行動こそが引き金となったのか、倒れもがいていた巨獣が次なる行動へ移行した。自由の利くしなやかな尾で床を叩き、それ一本を支えに横倒れた巨躯を起き上がらせてしまう。
体重を全て預けても撓みさえしない強健な尾は、四肢の踏ん張りが一時的に封じられている魔獣を大きく助けた。肢の代わりに巨体を受け止め、掛かる力に耐え抜いて再度の立ち上がりを実現させる。それへ際して前肢を繰り出し、既に再生の始まっている巨脚を打ち振るった。
広く一歩を掻いた肢は、軌道に即して絡まるワイヤーを事も無げに引き従える。これへ繋がるスキンクは魔獣の力に抗いきれず、いとも容易く振り回された。今度は彼が宙を舞い、空中ブランコさながらに空を泳がされてしまう。
「あらーーーー!」
絶叫とも歓声ともつかない奇妙な雄叫びを残して、スキンクは一人、ノイウェル達の頭上を通過した。その途上で自らワイヤーを切断し、凶暴な支配力から脱却する。
彼は上空でクルクルと回転しながら、レリオ達の後方へ墜落した。咄嗟に一同が振り返る。
「ウルトラCには、半回転捻りバク宙と石灰の散布が足りなかったらしい」
起き上がりながら砂漠仕様の軍服を叩く防毒面。零される台詞は意味不明だが、ある意味で平常運転である。
振り向いた面子は五体満足なスキンクを確認すると、奇行に付き合う気はないのか早々に視線を正面へ戻した。
「まずいですね」
セルシアは眉間に眉根を寄せて、起きてしまった獅子から跳び退った。次の行動に備えて的確に距離を取る。
それに呼応し、逆に前進した者もあった。ナノリペアによる高速治療で回復したリリナである。