神様が見ているんだ
『〜〜』
我が家には、幼い頃から変わらない奇妙なルールがあった。
リビングの中央に置かれた高級な革張りのソファ、あそこは「客席」だ。そして、その前に広がる遮るもののないフローリング、そこが私と妹の与えられた「ステージ」だった。
私たちは物心ついた時から、その見えない境界線を越えて客席側に立ち入ることを、決して許されなかった。
「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」
客席から、父親の低く冷徹な声が響く。
「〇〇ちゃんは、今日も愛嬌があって本当に偉いわね」
続いて、母親の鈴を転がすような、しかしどこか血の通わない声が重なる。
正面のソファに腰掛けた父親と母親――私たちの「神様」から、毎日毎日、一言の狂いもなく同じ台詞が放たれる。それはまるで、出来の悪い役者を調教するための家庭内ルーティンだった。
たった四年の差。私が四年早くこの世に生まれたという、ただそれだけの理不尽な理由で配られた配役の台本。
私の役名は「おねえちゃん」。美徳は我慢。
妹の役名は「〇〇ちゃん」。美徳は愛嬌。
スポットライトの当たるステージの上で、私たちはそれぞれの役を完璧に演じ分けなければならなかった。
後ろを向いても、舞台の上には私一人しかいない。客席にいるあいつらは、いつだって妹の瑞々しい演技に夢中だった。私から離れていく視線。私には決して与えられることのない、まばらな拍手。
私はいつしか、妹を激しく憎むようになっていた。
私の居場所を奪う、完璧な共演者。あの子さえいなければ、私が四年遅く生まれていれば、あの神様たちに愛されたのは私だったはずなのに、と。
けれど。あの子がこの世という名の舞台から、唐突に退場してしまったあの日。
私の中にあった憎悪は、音を立てて崩れ去った。
――静まり返った子供部屋。
あの子が使っていたドレッサーの引き出しの奥から、見覚えのない一冊のノートを見つけたのだ。表紙はすり切れ、ページをめくると、そこには私の知る「愛嬌のある妹」とはかけ離れた、血を吐くような文字が書き殴られていた。
『今日も愛想よく笑えた。お姉ちゃんみたいに頭が良くないから、私は笑うしかないの。間違えたら捨てられちゃう。表情が硬いって、またお母様に怒られた。怖いよ。お姉ちゃん、助けて』
ページは涙で歪んでいた。
その文字を目にした瞬間、私の視界が激しく歪んだ。
「……仲間だったのね」
ぽつりと溢れた言葉が、自分の声ではないように冷たく響く。
あの子も、私も、おんなじ人間だったのだ。あいつらが勝手に書き上げた理想の台本の中で、失敗すればすべてを剥奪されるという恐怖に震えながら、必死に「理想の娘」をお互いに演じ続けていただけの、ただの哀れな役者同士。
あいつらは神様なんかじゃない。
ただの、中身のない「口」だ。自分たちの都合の良い言葉だけを吐き出し、子供を型に嵌め込もうとする、無責任なメガホンだ。
もし、もっと早くに気づけていれば。
私たちは「役名」なんてくだらないラベルを投げ捨てて、本当の「姉妹」になれていたのだろうか。あいつらの目を盗んで、手を繋いで笑い合うことができたのだろうか。
その時だった。
誰もいないはずの、暗闇に包まれたリビングから、地を這うような音が聞こえた。
「――クスクス」
心臓がドクンと跳ね上がる。私はノートを指が白くなるほど強く握りしめ、吸い寄せられるようにリビングへ向かった。
ソファには誰もいない。両親はとっくに寝室に上がったはずだ。なのに、遮光カーテンが引かれた暗黒の空間から、確かに「音」が漏れ出している。
「クス、クスクスクス……」
それは、あいつらの「笑い声」だった。
最初は、演技が上手くいった子供を薄気味悪くあやすような、歪んだ慈愛の笑い。
だが、私が手にしたノートを凝視した瞬間、その笑い声は牙を剥くように色を変えた。
「アハハ、あははははは!」
空間そのものがビリビリと震え出す。壁から、天井の隅から、フローリングの隙間から。
見ると、暗闇の中に無数の「口」だけがバラバラと浮かび上がっていた。歯茎を真っ赤に剥き出しにし、湿った舌を小刻みに震わせながら、あいつらが一斉に笑っているのだ。
「うるさい……!」
私は両手で耳を塞いだ。しかし、笑い声は手のひらを透過し、鼓膜を暴力的に通り抜け、脳髄の奥深くに直接突き刺さる。
『ハハハハ! 気づくのが遅いんだよ! お前は「おねえちゃん」だろう? 我慢がお前の美徳だろう!? なのにそんな顔をして、ハハハハハ!』
「私はお姉ちゃんじゃない!!」
台本をバラバラに引きちぎるように、私は生まれて初めて、自分の本当の声で叫んだ。神のフリをした「口」たちに向かって、怒りの音を全力でぶつける。
だが、私の渾身の叫びは、さらなる狂気の大爆笑にかき消された。
「ガハハハハハ! アハハハハハハハ!! ゲラゲラゲラゲラ!!」
それは地獄の底から湧き上がるような、音の濁流だった。
笑い声が物理的な質量を持って押し寄せ、私の身体を包み込む。暗闇から伸びたドロドロとした黒い影がステージに這い上がってきて、私の手首を、足首を、操り人形の糸のようにガチガチと縛り付ける。
私の意思とは無関係に、背筋が強制的にピンと伸ばされる。
引きつった顔の筋肉が、無理やり左右に引っ張られ、あいつらの大好きな「お姉ちゃんの笑顔」の形に固定されていく。
『そうそう、いい子ね! アハハハ! さあ、次の演技を始めなさい!「我慢強いお姉ちゃん」を演じるのよ! 拍手! パチパチパチパチ!!』
耳の奥で、頭蓋骨の中で、笑い声と拍手が鳴り止まない。
脳が、思考が、あいつらの笑い声で真っ白に塗りつぶされていく。私という存在が消えて、「おねえちゃん」という記号だけが残されていく。
逃げられない。神様たちの劇場からは、生きている限り退場できないのだ。
あの子がどうして、あの冷たい奈落へと自ら身を投げたのか、今なら痛いほど分かる。あの子はこの鼓膜を破壊するような笑い声から、縛り付ける台本から、命をかけて脱走したのだ。
自由になったあの子の姿が、暗転していく視界の向こうにぼんやりと浮かぶ。
舞台の底へと落ちていった、あの子。
私はあの子の手を取りたかった。操り人形の糸をすべて引きちぎって、台本のない剥き出しの世界で、ただの人間として抱きしめ合いたかった。
『アハハハハハ! お前もこっちへおいでよ! ハハハハハ!』
笑い声が、今度は私を奈落へと誘うように、優しく耳元で囁く。
意識の糸がぷつりと切れる最後の瞬間、私は必死に、剥がれ落ちていく記憶の底をかきむしった。
あいつらが与えた役名じゃない。
あいつらが喜ぶラベルじゃない。
あの子の、本当の名前。
私が人生で一度も呼んであげられなかった、世界でたった一人の、私の妹の名前。
「……ねぇ、〇〇」
私の口からこぼれ落ちた最後の名前は、空間を埋め尽くす狂った笑い声と、神様たちの冷たい拍手の中に、跡形もなく掻き消されていった。
ある日お姉ちゃんは突然叫び出した。
「……ねぇ、〇〇」
こいつの口からこぼれ落ちた最後の名前は、空間を埋め尽くす狂った笑い声と、神様たちの冷たい拍手の中に、跡形もなく掻き消されていった。今日も、あいつらが作った地獄のステージの上で、可哀想な妹のために涙を流し、神様たちの呪縛に立ち向かう美しい「おねえちゃん」を演じ続けているんだろう。
「うわ、また始まった。名前呼ばれたんだけど。マジで気持ち悪い……」
精神科病棟の個室。ベッドの柵に寄りかかった妹は、あからさまに嫌悪感を剥き出しにして、自分の腕をさすった。
ベッドの上では、お姉ちゃんが虚空を見つめたまま、ピクリとも動かずに横たわっている。
脳の萎縮が進み、外界の刺激を一切受け付けなくなったお姉ちゃんの口元からは、絶え間なく、鼓膜を逆撫でする不快な音が漏れ出していた。
(チュプ……チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ……)
それは、超高速で数式を呟く、お姉ちゃんの舌の音だった。
乾ききった唇の隙間で、水分を失った舌が上顎に何度も何度も激しく張り付き、剥がれる、粘ついた咀嚼のような音。
「――3.14159265、sin、cos、tan、ルート、二乗、3.14159265……」
お姉ちゃんは昔から勉強「だけ」は異常にできた。それは、両親に認められたい一心で、狂ったように参考書を丸暗記した努力の残骸。
そして同時に、あの子の骨の奥からは、別の音が響いていた。
(コキッ、コキコキ、コココココ……)
お姉ちゃんが感情を「我慢」するときに、奥歯を限界まで噛み締め、顎の骨を鳴らす音だ。あまりの圧力に、すでに奥歯は数本パキパキに割れている。それでもなお、壊れた機械のように顎を小刻みに震わせ、骨の軋む音を響かせ続けている。
「本当に気味が悪いわね。何が『〇〇』よ。あなた、あの子にそんな風に呼ばれる筋合いなんてないわよね」
母親はベッドに近づこうともせず、入り口の近くで不快そうに腕を組んだ。
お姉ちゃんが脳内で神格化している「厳格な母親」の面影などどこにもない。そこにあるのは、ただ出来損ないの娘を早く処分したがっている、冷淡な女性の姿だけだ。
「うん。マジで無理。昔からこの数式を呟くときの口の音と、この骨の鳴る音が本当に大嫌いだった。お姉ちゃん、勉強以外何もできないくせに、これ呟いてるときだけ私を見下してさ。……でもさ、お母さん」
妹はスマートフォンをベッドへと近づけ、録音ボタンを押しながら、ふんと鼻で笑った。
「お姉ちゃんがこうなったのって、お母さんが昔、何でもかんでも『お姉ちゃんだから我慢しなさい』って言い続けたからだよね。私がお姉ちゃんのお気に入りの服をハサミで(ジョキジョキ、ジャキッ)って切り刻んだ時もさ。あの時、お姉ちゃん、怒鳴り散らしたいのを必死で我慢して、顔を真っ青にしながら、今のこれと全くおんなじ音を立ててた。(コココココ)って顎鳴らしてさ。あの時からもう、頭のネジ飛んでたんだよ」
そう、これがお姉ちゃんが壊れた原因だった。
幼い頃から「お姉ちゃんだから」という呪いの言葉で、あらゆる理不尽な我慢を強いられ続けた。怒ることも、泣くことも、感情を出すことすら許されなかったお姉ちゃんは、そのストレスをすべて「勉強の暗記」という行為で脳に無理やり抑え込んできたのだ。
限界まで数式を詰め込み、感情を我慢し続けた結果、ある夜、お姉ちゃんの脳の中で何かが破裂するような音がした。
(ブツッ、と何かが千切れるような、鈍い音)
あの子は自分の部屋で暴れ、壁に(ゴツン! ゴツン!)と鈍い音を立てて頭を打ち付け、そのまま二度と現実の意識へと戻ってくることはなかった。
「お父さんも『もう面会には行きたくない、金の無駄だ』って言ってたわよ。今日が最後ね。先生には、もう転院でも施設でも好きにしてくれって伝えてあるから。我慢が得意な子なんだから、転院先でも大人しく我慢してるでしょ」
母親が冷たく言い放ち、手荷物のバッグのファスナーを閉めた。(ジジジジジッ、と鋭い金属音)が、静かな病室に冷酷に響く。
「あーよかった。じゃあもう二度とここ来なくていいね。マジで私の人生の足引っ張らないでほしいわ。お母さんの言う通り、一生ここで我慢して眠ってればいいよ」
妹はスマートフォンをポケットに仕舞うと、最後に一度だけ、ベッドの上の生ける屍を蔑むように見下した。
「じゃあね、お姉ちゃん。お得意の我慢、一生そこで続けててね」
(バタン、ガチャン)
静かにドアが閉まり、鍵が閉まる無機質な音がした。
誰もいなくなった白い病室。
お姉ちゃんは、いつまでも、いつまでも起きることはない。
自分が「お姉ちゃんだから」と我慢し続けた結果、家族全員から心底嫌われ、捨てられたことすら何一つ知らないまま。
「――3.14159265、私は、お姉ちゃんだから、我慢、がまん、ガマン……」
(チャ、チャ、チャ、チャ……コキ、コキ、ココココ……)
頭の中の輝かしいステージの上で、お姉ちゃんは今日も、届かない反抗の叫びをあげて、一人きりでスポットライトを浴び続けている。
肉体が完全に朽ち果てるその瞬間まで、その音を、静かな部屋に響かせながら。




