第12章 新しい日々
鬼塚が去ってから、一か月が経った。
会社は目に見えて変わった。
朝礼は五分で終わり、怒鳴り声はもうない。
フロアの空気は明るく、社員同士の会話も増えた。
休憩室には新しいコーヒーマシンが入り、観葉植物が置かれた。
残業は大幅に減り、退職者も止まった。
昼休憩、佐伯と村瀬、藤田と四人で並んで弁当を食べる。
佐伯が笑いながら言った。
「この会社、やっと普通になりましたね」
「普通に働けるだけで、こんなに楽なんだな」
村瀬は味噌汁をすすり、ほっとしたように微笑んだ。
「帳票を偽造しなくていい生活……最高です」
藤田がうなずく。
「次はちゃんと成果で評価されたいな。もう、誰かの顔色をうかがう仕事はごめんだ」
俺も小さく笑った。
胸の奥が少しずつ軽くなるのを感じる。
ある日、社長室に呼ばれた。
「山田君。君の行動は勇気あるものだった。会社として感謝している。
次期課長ポスト、君に任せたい」
俺はしばらく考え、首を横に振った。
「申し訳ありませんが、お断りします」
社長が少し驚く。
「どうしてだね?」
「出世のためにやったわけじゃありません。
普通に働ける環境が欲しかっただけです。
今はそれがある。それで十分です」
社長は静かに頷いた。
「……そうか。では、引き続き頼むよ」
その日の退勤時間。
時計の針が定時を指すと同時に、俺はPCを閉じた。
「お先に失礼しまーす!」
佐伯と声を揃えてフロアを出る。
外はまだ明るい。
夕焼けがガラスに反射して眩しい。
駅までの道を歩きながら、ポケットの中のレコーダーを取り出した。
スイッチを入れると、何も録音されていない。
もう必要ないのだと気づき、少し笑った。
帰宅後、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
プルタブを開ける音が心地よく響いた。
一口飲むと、喉を駆け抜ける冷たさが甘く感じられる。
「……これが、本当の一日だな」
窓を開け、夜風を浴びる。
遠くの街灯がきらめき、まるで祝福してくれているようだ。
俺は深く息を吸い、小さく呟いた。
「もう、何も怖くない」
夜風がその言葉を運んでいった。
胸の奥に、静かな火が灯ったまま、俺は笑った。




