第1章 理不尽な日々
朝の空気は重かった。
地下鉄を降りると、会社の入ったビルが遠くから見える。
胸の奥がギュッと締め付けられ、足取りが自然と遅くなる。
それでもタイムカードの機械の前まで来ると、身体が勝手にカードを差し込んだ。
ピッという軽い音が、裁判所の木槌の音のように響く。
朝礼が始まる。
エレベーターホール前に全社員が整列し、鬼塚部長の声がフロアに響いた。
「昨日の成約率ゼロ。どういうことだ、山田」
俺の名前が呼ばれた瞬間、背中が凍りつく。
足が床に貼り付いたみたいに動かない。それでも前へ出る。
「お前の資料は小学生の作文か? 結論はぼんやり、数字は間違い、図は見づらい。
こんなものを客に出すな。お前はコストだ、分かるか? コストが歩くな」
同僚たちが視線を落とす。誰も笑わない。
ただ、この瞬間が早く過ぎ去ることだけを祈っている。
「昨日の最終版、締切は二十三時だな? お前、二十三時五十八分提出。
“遅延”の二文字、読めるか?」
「……読みます。すみません」
「すみませんじゃない。“二度としません”と言え!」
「二度としません!」
声が自分の鼓膜を叩く。
鬼塚は満足そうに頷き、資料を丸めて俺の胸に押し付けた。
紙の角が皮膚に食い込み、痛みが現実感をつなぎ止めた。
午前中はクレーム電話が立て続けに入った。
耳に押し付けた受話器が熱を持ち、汗で滑りそうになる。
背後から鬼塚の声が飛ぶ。
「山田! 昼までに数字まとめとけ!」
「はい!」
電話を切ると、深く息を吐いた。
隣の佐伯が気遣うように覗き込んできた。
「……大丈夫ですか?」
「平気だ。朝の運動みたいなもんだ」
冗談のつもりだったが、唇が引きつった。
佐伯は苦笑して席に戻る。
午後。休憩室で経理部の村瀬とすれ違う。
「部長、今日も荒れてるね」
「……いつもだな」
村瀬は苦笑し、足早に去った。
経理部では毎月のように退職者が出ていると聞く。
会社全体がじわじわ腐っていく音が聞こえる気がした。
夕方、休憩室で佐伯が小声で言う。
「村瀬さん、最近残業続きで倒れそうでしたよ。
経理の人たち、数字いじれって迫られてるらしいです」
「……それ、本当か?」
「本人が言ってました。もう限界って」
紙コップのコーヒーが苦い。
喉に引っかかるように落ちていく。
夜。終電間際、経理部の井川が倒れた。
缶コーヒーが床を転がり、金属音が乾いた弧を描く。
椅子が倒れる音、誰かの悲鳴。
俺は駆け寄り、井川の肩を支えた。脈は弱い。
救急車が来るまでの数分がやけに長かった。
担架が出ていく直前、鬼塚が腕を組んで現れた。
「自己管理不足だ。仕事と関係ない。昼休憩は終了、全員持ち場に戻れ」
言葉が床に突き刺さった。
誰も反論できない。
俺は唇を噛み、胸の奥で何かが音を立てて裂けるのを感じた。
その夜、机の引き出しからICレコーダーを取り出した。
乾電池を入れ、スイッチを入れると赤いランプが光る。
「……明日から、録るか」
声に出すと、不思議と胸が軽くなった。
怒鳴られるたび、証拠を積み上げてやる。
決意が小さな火種となって胸に灯った。