タイトル未定2025/02/18 10:34
左右に視線を巡らせ、誰も自分を見ている者がいないことを確認してから、美和は開いたドアの内側に体を差し込む。
ドアが閉まり切ると、ドアの鍵を閉めた。これからこの部屋で美和が見つけようとしているものを、他の誰かに見られたくなかった。
鍵を閉め終えると再び振り返り、部屋の中に視線を戻す。
初めて見る真尋の部屋だった。まだ午後三時を回った時間なのに、部屋の中はひどく薄暗かった。短い廊下の先に見える窓は、カーテンが締め切られていた。
「真尋。……入るね」
この部屋の中にいるはずもない部屋の住人に向かって一言呟いてから、靴を脱いで玄関を上がった。
玄関を上がってすぐ右手にスイッチがいくつか並んでいるのを見つけ、美和はその全てを押す。すると、廊下とその奥のリビングの電灯が点いた。部屋の中は突然人工的な光が溢れた。狭い部屋と、その部屋を満たす人工的な光。その閉塞感の中で、嫌な息苦しさを感じる。
美和はゆっくりとその短い廊下を進む。
その途中にあるキッチンでは、几帳面な真尋らしく、洗った後の食器がかごの中に丁寧に並べられていた。
リビングは六畳ほどの広さの部屋だった。
大学生の一人暮らしなら、このくらいの広さも珍しくはないのだろう。
部屋の中央にローテーブルが置かれ、そのローテーブルを挟むようにテレビ台と座椅子が置かれている。そして部屋の隅には小さなベッドが置かれていた。
美和はまず、カーテンが締め切られた窓に歩み寄る。
この嫌な閉塞感を少しでも緩和させたくて、カーテンを思い切り左右に開いた。窓の下には、春の午後の日差しの中で、平和で穏やかな住宅街が広がっていた。
その光景はあまりにも平和で、そしてあまりにも優しくて、その空間と、今、美和が立っているこの空間がつながっているということが信じられなかった。
美和はしばらくその光景を見つめた後、ゆっくりと後ろを振り返る。これから自分はこの部屋で、あるものを探さなければならないのだ。自分に言い聞かせて、改めて部屋の中に視線を巡らせた。
部屋の中央のローテーブルには、空の薬ケースがその口を開いたまま置かれていた。病院の待合室で真由美から聞いた通りだった。だけど、空の薬ケース、そしてその横に置かれた水が半分まで入ったコップを実際に目にして、その現実のあまりの生々しさに、美和の心は小さく震えた。
「なぜ……。こんなことを……」
この部屋の中にいたはずの真尋に問いかける。
だけど、すでに真尋はこの部屋からいなくなっている。美和の言葉はもう真尋には届かなかった。
座椅子の後ろに、美和の腰くらいの高さの収納ケースが置かれていた。そのケースの上に、真尋が読んでいた本なのだろう、本立てにもたれかかるようにいくつかのハードカバーの本が並んでいる。
美和は静かにその収納ケースに歩み寄った。本の背表紙を眺める。本は、心理学の本が多かった。
真尋は真由美に、
「原因はよくわからないけど時々強い不安に襲われる、夜もよく眠れない」
と言っていたという。
その本の背表紙に、苦しみ続けていた真尋の心が透けて見えるようだった。
ふと、それらの本の間に白いものが挟まれているのが目に留まった。
何だろう。
右手を伸ばし、その白いものを摘む。
本の間から引き抜くと、それは白い封筒だった。
「これは……」
美和は呟く。
封筒の表には、『お母さんへ』と書かれていた。几帳面な真尋の文字だった。
美和は震える指でその封筒を開けて、中の便箋を取り出した。
「お母さん。
お母さんにとって、私はどのような娘だったのでしょうか。
一度は訊いてみたかったけど、お母さんの口からどんな言葉がこぼれるのか分からなくて、それを想像するのも怖くて、結局、一度も訊くことができなかった。
今、この手紙を、一人部屋の中で書いています。
ベッドの横の目覚まし時計の針は午前三時を指しています。このような手紙を書くことになるなんて、数時間前の私は想像すらしていなかった。昨日までの私であれば、きっと、この時間はいつものようにベッドの中で眠っていたのでしょう。だけど、私はどうしても今、この手紙をお母さんに向けて書かなければならないのです。
昨日の夜、つまり六日の夜、私は友人の真由美と大学帰りの電車に乗っていました。本当にいつもと変わらない夜でした。
真由美とはサークルの話とか、大学の授業の話とかしていた。何でもない日常の会話。そのような会話ができるということは別に何でもないことのように思っていたのですが、そのような会話ができるということは実はかけがえのないことだったのです。
今の私には、それが分かります。
私は自分の部屋の前に着くと、ドアの鍵を開けました。そして中に入って、ドアの鍵を閉めようと後ろを振り返りました。私の目の前には、今まさに閉じようとしているドアがありました。
別にその光景は真新しいものではなかったし、毎日のように見ている光景でした。見ている光景のはずでした。
だけど、その閉じられるドアを見た瞬間、私は指一本動かせなくなってしまったのです。
閉じられていくドア。
突然私は、ある光景を自分のこれまでの人生のどこかで見たことがあることを思い出したのです。
その光景にはお母さんがいました。
そしてお母さんは無言でスーツケースを引きずり、ドアの外に出て行きました。その閉められていくドアを私は絶望の中で見つめ続けていたのです。
なぜ、今までの私はそのことを忘れてしまっていたのだろう。
なぜ、忘れて今まで生きてしまっていたのだろう。
そんな思いが自分の中から込み上げてくるのを止めることはできませんでした。
それと同時に、なぜ近頃の自分が原因のわからない不安感に襲われるのか、そして眠れない夜を過ごしていたのか、その全てを理解したのです。
きっと、心の奥底に沈めていた記憶が顔をのぞかせ始めていたのだと思います。無意識の私は、その記憶から必死になって目を逸らそうとしていたのだけど、その記憶はあまりにも悲しくて、あまりにも怖くて、あまりにも希望がなくて、無意識の私ももう目を逸らすことができなくなっていたのだと思います。
私は半ば呆然としながら、ドアから視線を外し、後ろを振り返りました。
そこに見えた部屋は、私の部屋ではなかった。
私は、あの部屋の中にいたのです。幼い頃の私が暮らした、東京都K区のあの小さな部屋に。
目の前には父が立っていました。
そしてその父の前には、六歳の私が立っていました。
「これは『しつけ』なんだ」
父の言葉が、悲しいくらいの現実感を伴って、私の耳に聞こえた気がしました。
小学生の頃、お母さんに
「お父さんはどうしていないの?」
と言って困らせたよね。本当にごめんなさい。
全て、私がやったことだったんだね。
真実は、いつだってすぐそばにあったんだね。
それを忘れて生きられるわけなんてなかったのに。
それを忘れてまで生きようとしていた私は、ただの大馬鹿者だったんだ。
これから私がすることで、きっと今も、またお母さんを困らせているかもしれません。
だけど、最後のわがままだと思って、許してください。
真尋」




