ピンポーン。
8
ピンポーン。
突然チャイムの音が鳴った。
「はい」
ドアの外に声をかけながら、美和はドアノブを握る。小さくドアを開けると、玄関先に五十代くらいのスーツを着た一人の男性が立っていた。
真尋が入院してから一週間が経っていた。
依然として真尋は眠り続けていた。この一週間、美和は面会のために毎日病院に通っていた。そのチャイムが鳴ったのは、午後一時すぎの自宅で、美和がちょうど外出のための準備をしていた時だった。
「警察のものですが」
男はスーツの内ポケットから黒い手帳のようなものを取り出して、美和の前に差し出した。上下に開くようなタイプの手帳となっていて、下側に『警視庁』と刻まれた記章が取り付けられていて、上側に写真と名前が入ったカードが収められている。その男はすぐにその手帳を折りたたんで元の内ポケットにしまったので、名前までは読むことができなかった。
「真尋さんのことで、少しお話をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
「真尋の、ですか?」
突然やってきた警察を名乗る男の口から『真尋』の名前が出たことに、訝しく思いながらもその男を観察する。
「はい。N大学附属病院から警察に連絡が入りまして、真尋さんが自殺未遂をしたと聞いています。それに関する事情聴取をさせていただきたいのです」
「……自殺未遂に、事情聴取が必要なのですか?」
「はい。事件性の有無などについて警察としても確認する必要があるので、お話をお聞かせいただきたいのです。……失礼ですが、真尋さんのお母様ですか?」
「はい、真尋の母親の、佐藤美和といいます」
「娘さんが大変な時に恐縮ですが、短時間で終わるのでご協力をお願いいたします」
「わかりました」
美和は半分だけ開けていたドアを全て開き、その男に面と向かった。家の中にお入りくださいとは言わなかった。警察を名乗ったとはいえ、見知らぬ男を家の中に入れることに抵抗があったからだった。その男も美和のその態度に特に頓着することもなく、玄関先で言葉を続けた。
「ありがとうございます」
男は先ほどの警察手帳とは別の手帳を取り出す。そしてそれを開いて中を確認してから、
「真尋さんがN大学附属病院に運び込まれたのは四月七日の午後六時頃と病院からは聞いています。その七日の朝か、あるいは前日の六日の夜に睡眠薬を過剰摂取したようです。四月六日の真尋さんの行動について知っている範囲でいいので教えていただけますか?」
と美和に話した。
「真尋は一人暮らしをしていて、私とは別に暮らしているので詳しくは分かりません。ですが、真尋の大学の友人の真由美さんという方から聞いた話でいいのであれば……」
「はい、構いません」
「そうですか……」
美和は、夜の病院の待合室で真由美から聞いた話を簡単に話した。
「前日の六日、真由美さんと一緒に大学から帰る時の真尋は、いつもと変わらない様子だったそうです」
「では、六日、真尋さんが大学から帰った後に、真尋さんに何かが起きたということですね」
考えてみればそうだった。
それまでの美和は、いつまでも目を覚さない真尋のことで頭がいっぱいで、そのことに思いが至っていなかった。真由美の言うとおり、六日の大学帰りまでは真尋に変わったところがなかったのだとしたら、そこから睡眠薬を過剰摂取するまでの間に、真尋自身に何か重大な出来事があったということになる。自分の死を望まずにはいられないくらい重大な何かが。
その日に、真尋に何があったのだろうか。
男は手元の手帳に何やら書き込んだ後に、また美和を見遣る。ひどく冷たい目だった。
「一点、確認させてください」
「……はい」
「お母様は、真尋さんの自殺未遂の理由について、何か心当たりはありますか?」
美和は男から視線を外して、足元を見る。そのまま視線を合わせていると心を見透かされてしまいそうな、そんな怖さを感じた。
真尋が自殺未遂をした理由。
美和には、十四年前のあの夜のことしか思い当たることはなかった。
だけど、そのことを警察に告げるということは、真尋の、そして美和自身の罪を告白するということでもあった。
言えるわけがなかった。
「私も、真尋がなぜあのようなことをしたのか、分からないです……」
「たとえば、真尋さんが誰か男性とお付き合いしていたとか、最近失恋したというような話をお聞きになったことはありますか?」
「いえ、ありません」
「……そうですか」
男は手帳越しに、美和に視線を向ける。
「ところで、お母様は、真尋さんが病院に運び込まれた後に、真尋さんの部屋に行かれましたか」
「いえ。行っていません」
「なぜ」
「なぜって……。この一週間は真尋が病院に入院していて、そして真尋は全く目を覚まさなくて……。真尋の部屋に行っているような余裕はなかったものですから」
「真尋さんの部屋に、真尋さんが自殺未遂した理由について何か手掛かりになるようなものがあるとは考えなかったのですか」
「手掛かり……ですか」
「そうです。たとえば、真尋さんの遺書が部屋に残されているとか」
その男の言葉に、美和ははっとした。
そうだ。確かに、真尋は自分の部屋に遺書を残しているかもしれない。
もちろん衝動的に睡眠薬を過剰摂取したということも考えられる。当然その場合は遺書なんて書いてないだろう。だけど、美和には衝動的に自殺を図る真尋の姿が想像できなかった。何か強い理由があり、強い動機があって自分の行動を選択する。美和にとって真尋は、そのような存在だった。そのような存在であるからこそ、真尋が六歳の時のあの夜が起こってしまったのだと信じていた。
なぜ、そのことに今まで思い至らなかったのだろうか。
「まあ、いいでしょう」
男は手帳を閉じて、内ポケットにしまう。
「N大学附属病院からは、真尋さんが過剰摂取したのは睡眠薬に間違いないとの話は聞かせてもらっているし、真尋さんが通っていた心療内科にも話を聞いて裏が取れています。違法薬物の摂取や、何か犯罪に巻き込まれたということでもないでしょう」
男は追加で何点か美和に質問した後、
「お忙しい中、ありがとうございました」
という言葉を残して帰っていった。
美和の前でドアが閉じられていく。
美和は、そのドアを見るともなく見つめていた。そしてそのまましばらく玄関に立ち尽くしていた。頭の中では、先ほどの男が口にした言葉を思い出していた。
『真尋さんの遺書が部屋に残されているとか』
男はそのように口にした。
もし本当に真尋の部屋に遺書が残されているのだとしたら、真尋がこのようなことをした理由も分かるかもしれない。それが分かれば、目を覚ますことのない真尋に何か手を差し伸べることができるのかもしれない。
美和は、そんな微かな希望を必死になって信じようとした。
そうだ……。
真尋の部屋に行ってみよう……。
私は、真尋の部屋に行かなければならない……。
行かなければならないんだ……。




