真尋は黙って寝室の入り口に立った。
真尋は黙って寝室の入り口に立った。
そして中の様子を伺う。
部屋の隅にベッドが置かれていて、その上に一人の男が横になっている。会社から帰った時に着ていたワイシャツ姿のまま、毛布だけを体の上にかけていた。ときどき体を掻くような素振りをしていたが、それが終わるとまたベッドの上で動かなくなる。
それが、父の姿だった。
真尋はその入り口に五分ほど立って、父の様子を観察する。途中で目覚めでもされてしまうと、真尋の計画が失敗に終わってしまう。失敗してしまうこと自体は別に怖くは無かったけど、それでも真尋の中の冷徹な自分が、その計画を遂行させるために慎重に周りの様子を伺っていた。
深い眠りに落ちていて、起きることもなさそうだ。
真尋はそう判断して、ゆっくりと寝室の中に入る。右手には先ほど台所から持ち出した一枚のポリ袋が握られていた。そして真尋は、父が眠るベッドの横までたどり着いた。
ベッドの上に横になっている一人の男を、じっと見下ろす。
感情を失ったかのように無表情のまま、しばらくその男の顔を見つめていた。
この人間さえ、いなくなれば……。
この人間さえ、この世からいなくなれば、きっと私は救われる……。
先ほど胸に抱いた暗い決意を、自分の中で改めて確認していた。その決意は、真尋の中で全く揺らぐことはなかった。
右手に持ったポリ袋を父の頭の近くまで持っていく。そして一思いに、ポリ袋を父の頭に被せて、そのポリ袋の口の部分を父の首のあたりできつく結んだ。
頭にポリ袋を被らされた父は、しばらくは起きることもなくそのままベッドの上で寝ていた。父の呼吸に合わせて、ポリ袋が膨らんだり縮んだりする。その様子を真尋はベッドの横で見つめる。
自分の身に起きている異常に気づいたのか、父は眼を覚ました。
半透明のポリ袋の奥にある父の眼が開くのが、真尋の眼には見えた。眼を覚ました父は自分の身に何が起きているのか理解できていないようだった。その前日の夜にしこたま飲んだビールも影響していたのかもしれない。パニックを起こした父は、ポリ袋を外すこともできずに、ウーウーと唸り声をあげて、喉を掻きむしるような素振りをした。そして手足をベッドの上で大きくばたつかせた。手足がベッドに当たって、がたがたと大きな音がする。
真尋はその父の様子を黙って見つめ続けていた。
真尋にとって、これは一つの実験だった。
これで父が死んでもいいし、死ななくてもいい。心のどこかでは、こんなことで人が死ぬことなんてないだろうな、そんな覚めた目で見ていた真尋もいた。
だけど、たとえこれが失敗に終わったとしても、真尋のこの行為が引き金となって、今の現実を変えることはできるはず。
絶望を打ち消すには、別の絶望で塗り潰せばいい。
今、目の前に横たわる絶望が終わるのであれば、真尋にとっては何でもよかった。
父は、最後に小さく、
「助けて……」
と言った後、ベッドの上で動かなくなった。
「真尋、そんなところで何をしてるの?」
背後からの突然の声に、真尋は緩慢な動きで後ろを振り返る。寝室からの物音で目が覚めたのか、母が寝室の入り口に立っていた。
真尋は何も答えなかった。ただ暗闇の中で眼を光らせながら、母の姿を見つめている。
母はその真尋の様子に尋常ではない何かを感じたのか、黙ったまま寝室の中に入ってきた。そしてベッドの上のものを見た瞬間、
「ひっ」
と声にならない悲鳴をあげた。
ベッドの上では、一人の男が頭にポリ袋を被り横たわっている。全く動く気配はない。半透明のポリ袋の奥でカッと見開かれた眼がどこでもない空間を見つめている。明らかに生気を失っている。
母は右手で口を押さえるようにしながら、かつて父だったものをしばらく見つめていた。そして震える声で、
「真尋……、あなた、なんてことをしたの……」
と呟いた。
母は両膝を床につけ、視線を真尋に合わせる。そして真尋の肩を両手で強く握り、
「真尋、あなた、自分が何をしたのか分かっているの」
と言葉をぶつけた。両肩を強く揺さぶられた真尋は、されるがままに頭を揺らしていた。その動きが止まった後、真尋の口から、掠れるような小さな言葉がこぼれ落ちた。
「どうして……」
母は真尋のその言葉が聞き取れなかったのか、「何?」と聞き返す。
それまで感情を失った眼で虚空を見ていた真尋の目が、初めて母の顔を真正面から捉えた。
「どうして、私を助けてくれなかったの?」
「え?」
「どうして、私を見殺しにしたの?」
真尋の両眼から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
父の『しつけ』が始まってから、真尋は初めて泣いていた。自分が何で泣いているのか分からなかった。だけど涙は次から次にその瞳からこぼれ落ちた。自分でも止めることができなかった。涙と同時に、真尋の中で強い感情が溢れてくる。
そうか……。
そうだったんだ……。
私は本当に、誰かに救って欲しかっただけだったんだ……。
真尋は、この世界を何とか生き抜こうとして自分の中に閉じ込めていたもう一人の自分を、ようやく見つけ出せた気がした。そのもう一人の自分は、いつも世界を恐れていて、そしていつも震えている弱い自分だった。
そんな真尋の様子を、母は、怒っているような、それでいて泣いているような、不思議な表情をして見ていた。