父の動きが止まった。
父の動きが止まった。
真尋は感情を失った目で、自分の前に立っている父を見上げる。父は赤黒い顔に、どこか残忍な笑みすら浮かべていた。
「お前、いつか逃げられると思っているんだろ」
「……」
「誰かが、いつかお前のことを助けてくれると思っているんだろ」
「……」
「お前を助けるやつなんて、誰もいないんだよ」
「……」
「俺から逃げられると思うなよ」
「……」
「いつまでもお前に付き纏ってやるからな」
「……」
真尋はなかば呆然としながら、父の顔を見ていた。
そして一つの事実を痛切に思い知らされていた。
どんなに、父も母も存在しない遠い未来にいる自分を想像してそこに救いを見出そうとしたところで、どんなに、今ここにいる子供は自分ではないんだと自分に何度も何度も言い聞かしたところで、真尋は、今、ここで誰かに救って欲しかった。暗闇から目を光らせながら、必死になって外の世界に助けを求め続けていた。この小さな部屋の中で、誰よりも救いを求めていた。
そのことを悲しいくらいはっきりと感じた。
真尋の頭の中に、父の言葉が何度もこだまする。
『俺から逃げられると思うなよ』
そうか……。
そうなんだよ……。
小さな胸の中で、ぽつりと思った。
誰も、私を救ってはくれない……。
だから、自分は自分で救うしかないんだ……。
真尋は、自分の目の前に立っている一人の男の顔を見つめる。その男は、赤黒い顔をますます赤黒くしながら、真尋に『しつけ』を続けていた。
この人間さえ、いなくなれば……。
この人間さえ、この世からいなくなれば、きっと私は救われる……。
心の中で暗い決意を抱いていた。
ビールを浴びるように飲んだ父は、そして真尋に『しつけ』をすることに疲れた父は、そのまま風呂に入ることもなく寝室に引っ込んでいった。その日は金曜日で、次の日は土曜日。父の仕事は休みだった。そのような日は、この日の夜のように父は風呂に入らずに眠ることもたびたびあった。
寝室は居間の隣に設けられていて、そこには一つのベッドが置いてある。
父はそのベッドを使って一人で眠り、そして母と真尋は居間に布団を敷いて寝ていた。いつからか、真尋の家族はそのような形で眠るようになっていた。
父が寝室に引っ込むと、母は居間のテーブルの上に残された夕食の片付けを始めた。残り物には皿にラップをして冷蔵庫に詰め込み、そして空になった大量のビール缶はまとめて台所に置いてあったポリ袋の中に押し込んだ。そして片付け終えると、居間のテーブルを部屋の隅に移動させ、押し入れから出した布団を敷き出した。真尋は部屋の隅に座って、黙ってその様子を見つめていた。
布団を敷き終えた母は、
「真尋、あなたも寝なさい」
と一言呟いて、居間の電灯を常夜灯に切り替えてから自分は風呂に入るつもりなのだろう、そのまま浴室に向かった。真尋はもそもそと布団の中に潜り込んだ。
ただ、その心の中では、先ほど自分の中に芽生えた『暗い決意』が全く鈍ることなく燃え続けていた。布団を被りながらも目を暗闇の中に光らせ、天井を見つめ続けていた。そして、
どうすれば、幼い子供の手でも、あの男をこの世界から消し去ることができるんだろう……。
そのことをひたすら考えていた。
そのとき、ある一つの方法を思いついた。
これがうまくいくかどうかは分からない。もしかしたら失敗するかもしれない。ただ、試してみる価値はある気がした。それに失敗したとしても構わなかった。失敗したとしても、もはや真尋には失うものなんて何も無かった。
その方法を実行に移すため、真尋は暗闇の中で目を閉じた。
三十分ほどして、母は風呂から上がってきた。居間の布団の上で目を閉じている真尋を見て、自分もその布団の中に入る。その間も真尋は目を閉じ続けていた。母に、自分は寝ていると思わせる必要があった。
どれくらい時間が経っただろうか。
じっと目を閉じ続けていた真尋にはそれが三十分にも感じられたし、一時間にも感じられた。
暗闇の中で真尋は目を開ける。そしてゆっくりと視線を自分の左に向け、左隣で寝ている母の様子を伺った。母は微かな寝息を立てて眠り込んでいた。
真尋は音を立てないように静かに布団から抜け出す。
枕のすぐそばに置かれたデジタル時計を見ると、時刻は深夜の一時を示していた。真尋が布団に入ったのが午後の十一時過ぎだったので、二時間も布団の上で寝たふりをし続けたことになる。
真尋はそのまま台所に向かう。
そして流しの下の両開きの戸を開いた。そこには、母が使わなくなったスーパーのポリ袋を入れているのを知っていた。真尋はそこにあったポリ袋の一つを手に取った。そして、父の眠る寝室に向かって歩いていった。