その『しつけ』が終わると、父は必ず、「このことは絶対に誰にも言うなよ」と濁った目を真尋にぎょろりと向けながら言った。
その『しつけ』が終わると、父は必ず、
「このことは絶対に誰にも言うなよ」
と濁った目を真尋にぎょろりと向けながら言った。
真尋はただ黙って頷くことしかできなかった。
他に何ができただろうか。六歳の幼い真尋は、その無慈悲な現実の前に立ち向かう術を何一つ持っていなかった。できるのはただ、その現実からひたすら目を逸らして、そしてその現実が真尋の目の前から通り過ぎてくれるのを待つことだけだった。
だけど、心の中ではいつだって、
『誰か……、助けて……』
と叫び続けていた。それでも、その声にならない叫び声は誰にも届くことは無かった。
一度、その『しつけ』の最中に母が家に帰ってきたことがあった。
母は、
「ただいま」
と誰にともなく言って、玄関のドアを開けた。
父の前に立っていた真尋は母の言葉を聞き、後ろを振り返る。
その当時、真尋の家族が住んでいたアパートは、玄関から居間が見通すことができるほど小さなアパートで、居間に居た真尋の目には玄関のドアを開けた母が映っていた。そしてそれは、母の目に真尋の姿が映っていたということでもあった。
母の驚いたような顔を見て、真尋は、
『これで……、救われる……』
とぽつりと思った。
『お母さんが……、きっと、私を救ってくれる……』
母は、居間にいた父と、その父の前に立っている真尋を黙って見ていた。その母の様子を見て、父はその場を取り繕ろうかのように、
「真尋に、しつけをしていたんだよ」
と言った。
母はその父の言葉に、
「真尋が何か悪いことをしたんですか」
と聞き返すことも、
「やりすぎではないですか」
と言い返すことも無かった。
ただ、一言、
「そう……」
と言ったきり、玄関から台所に向かい、そして買ってきたばかりのビールを冷蔵庫に詰め込んでいた。
その様子を、真尋は黙って見つめていた。
母は、真尋を救ってはくれなかった。
見て見ぬ振りをし続けた。
そうすることで、母自身も、この壊れかけた家族の対面を必死になって守ろうとしていたのかも知れない。壊れてしまった家族の対面をいくら守ったところで、それは壊れたままなのだということを、全く理解していなかったのかも知れない。いや、本当は母もそのことは理解していたのだけど、それでもその希望に縋り付かずにはいられないくらい、母自身も追い詰められていたのかも知れない。目を閉ざして現実を見ずにいることで、それが現実には起こっていないんだと必死になって自分自身に言い聞かせようとしていたのかも知れない。
ある意味では、母は、真尋と同じだった。
結局、真尋を救ってくれる人間が真尋の前に現れることは無かった。
父の真尋に対する『しつけ』を母が知った日から、その『しつけ』は家の中では秘密でもなんでもなくなった。
それまでは小心者の父は、母が家にいない時にしかその『しつけ』をしなかったのだけど、もはや家の中では母の視線を気にすることもなくなっていた。
少しでも家で気に入らないことがあると、濁った目を真尋に向け、
「そこに立ちなさい」
と自分の前を右手で指し示す。
そして服で隠れるところをひたすら執拗に狙った。
痛みに耐えながら真尋が台所に目をやると、母はまるで居間では何も起こっていないかのように料理をしていた。その様子を見て、真尋は、
『お母さんにも、私は見捨てられたんだ……』
と、ぽつりと思った。
その『しつけ』の最中は、真尋は自分の意識を現実世界から切り離していた。父も母もいない未来をひたすら想像していた。その想像上の未来では父に怯えることも無かったし、母の視線に絶望することも無かった。そんな空想上の未来になんとか希望を見出していた。
その『しつけ』が始まってから半年が経った時だった。
夜の九時過ぎに、父は仕事から家に帰ってきた。
きっとその日も仕事で何か嫌なことがあったのだろう。玄関のドアを開けた父は全身に不機嫌の空気をまとっていた。居間で背広の上着を脱ぎ捨て、それ以外は着替えることもなくそのまま台所に向かった。そして冷蔵庫からビールを取り出してそのまま居間のソファーに座る。口では、小さな掠れた声で、
「ふざけやがって……」
と何度も呟いていた。
その様子を見て母は特に何も喋らなかった。
黙って用意しておいた料理を居間のテーブルの上に置いていく。そこには真尋の分の夕食もあった。家では父が帰るまで夕食は食べられないことになっていて、母も真尋もまだ夜は何も食べていなかった。お腹が空いていた真尋は自分の茶碗を持ってご飯を食べ始めた。
その時だった。
父が、真尋の方に視線を向けていた。そして低い声で、
「なんだ、その意地汚い食べ方は」
と真尋に向かって吐き捨てるように言った。
「え?」
「意地汚いって言ったんだよ」
「……」
父は右手に持ったビール缶をテーブルの上に置き、そして真尋に、
「そこに立ちなさい」
と言った。
きっと、理由はなんでも良かったのだと思う。自分より弱い存在を痛めつけることで自分の優位性を確認する。そしてそれで自分の中のストレスを発散する。それができればなんでも良かったのだと思う。
真尋は茶碗をテーブルの上に置いて、父の前に立った。
そして『しつけ』が始まった。
真尋はいつものように、父も母も存在しない遠い未来をひたすら想像していた。