真尋の父親は『佐藤健太郎』という名前だった。
4
真尋の父親は『佐藤健太郎』という名前だった。
父は、いつも家で酒を飲んでいるような人間だった。
父がどのような仕事をしていたのか、幼かった真尋には分からない。
ただ、仕事で少しでも自分の思ったように進まないことがあったら、そして少しでも嫌なことがあったら、父はそれを全て家の中にぶつけた。小心者の父はそれを外に向けて出すことは決してしなかった。
外面だけは病的なほどに気にしていて、外では自分の感情を誰かにぶつけることなんてなかったし、感情が爆発するなんてこともなかった。必死になって『家族思いの父親』を演じていた。だから、会社の同僚などは、父のことを本当に『家族思いの父親』だといまだに思っているのかもしれない。
その代わり、家で少しでも気に入らないことがあると、一瞬でその表情は変わった。ドス黒い般若の面のような顔。父は黙って立ち上がり、冷蔵庫にあったビールを取り出す。そしてそれを居間に持ち込み、そのビールを飲みながら、ひたすら、
「ふざけやがって……」
と呟き続けるのだ。
冷蔵庫にあったビールを全て飲み尽くすと、低いしわがれた声で母に、
「ビールを買って来い」
と命じる。
母がビールを買うために黙って家を出ていくと、家には父と真尋だけが取り残された。
その当時、真尋の家族が住んでいた東京都K区の家は狭いアパートで、当然、真尋の部屋なんて無かった。
真尋は、父の怒りがこちらに向けられないように祈りながら、居間の隅で黙って座っていた。
父は物に当たるということは無かったし、母に暴力を振るうのも真尋は見たことはない。きっと、もし物に当たったらその物音が隣の部屋に響いてしまい、通報されてしまうことを恐れていたのだと思う。そして母に暴力を振るってしまうと、母という一人の大人を介して自分のもう一つの顔が外に対して露わになってしまうことを死ぬほど恐れていたのだと思う。
ビールを飲み続けていても、そこの計算だけはするような卑怯な人間だった。
父が外の世界に向ける『家族思いの父親』の顔。
それと同時に内の世界に向ける般若の顔。
その全く二つの顔が父という一人の人間に同時に存在するということが、真尋には単純に怖かった。真尋には理解できない、父の内面に潜む得体の知れなさが怖かった。
父は父で、自分の中でその相反する二つの顔を共存させることで何とか自分の自我を保っていたのかもしれない。
その二つの顔のうちで、どちらが本当の父の顔だったのか。
真尋には分からなかった。
きっと、父自身にも分からなかったのだと思う。
父はそれを『しつけ』と呼んだ。
その日も家で気に入らないことがあったのか、父は朝から家でビールを飲み続けていた。何が気に入らなかったのかは分からない。きっと取るに足らない些細なことだったのだと思う。
そして冷蔵庫のビールが無くなると、いつもと同じように母に赤黒い顔を向けて、
「ビールを買って来い」
と命じた。
母は財布を持って黙って家を出ていった。
狭い居間には父と真尋しかいなかった。真尋はその居間の隅に座って、目の前の時間が過ぎていくことをひたすら願っていた。だけどその日はいつもとは違い、そのまま目の前の時間が過ぎていくということは無かった。
父は、部屋の隅に座っている真尋に濁った目を向けた。そして真尋に向かって、
「お前、俺を馬鹿にしてんだろ……」
低い声で吐き捨てるように言った。
「俺のことを、くだらない人間だと思ってんだろ……」
真尋は驚いて父の顔を見つめ、そして震えるように首を横に振った。だけど父はそんな真尋の様子を見て、さらに怒りを募らせたようだった。
「そこに立ちなさい」
「え?」
「いいから、そこに立て」
父は乱暴に、自分の目の前を右手で指した。
真尋は黙って父の前に立つしかなかった。
そして『しつけ』が始まった。
小心者で卑怯な父は、真尋の顔に痣や傷が残るようなことは決してしなかった。それをしてしまうと、それを見た第三者が児童相談所に通報するかもしれない。そして外部に自分のやっていることがばれてしまうかもしれない。そのことをひたすら恐れていた。だから服で隠れる箇所を執拗に狙った。
その日以降、父の中で何かが変わったのか、その『しつけ』は何度も繰り返されるようになった。
真尋は体に痛みが走る度に歯を食いしばって耐えた。
心の中ではひたすら、
今、ここに立っているのは私ではないんだ……。
今、ここに立っているのは私ではないんだ……。
自分に言い聞かせるように呟き続けていた。
そのうち、ここに立っている自分の体が、本当に自分のものではないような感覚を覚えるようになった。父とその前に立つ一人の子供。その二人を外から見ているもう一人の自分。
きっと、そうすることで自分自身に、『今ここにいる惨めな子供は自分ではないんだ。自分以外の誰かなんだ』と信じさせようとしていた。そうでもしないと、真尋は目の前の現実を生きる術を見出すことができなかった。
なぜ父はあんなことをしたのだろうか。
きっと、自分より弱い存在を作りたかったのだと思う。そしてそれを一つの事実として確認したかったのだと思う。そうして、自分よりまだ下にいる誰かを作ることで、何とか自分の尊厳を守ろうとしていた。
そんなちっぽけな尊厳のために犠牲にならなければならない自分を、真尋はひどく哀れに感じた。