ふと、真尋の視界に、自分の腕が映っていることに気づいた。
ふと、真尋の視界に、自分の腕が映っていることに気づいた。
絵を床に置くために前に腕を伸ばしているので、それが視線に入ることはある意味では当たり前のことだった。自分の腕なので、それは絶えず自分の視界の中にある。意識していなければ、ただ当たり前のこととして意識に上ってくることもない。
だけど、その腕は赤かった。
それは、赤いニットのセーターだった。この冬が始まる前にバイト代をはたいて買った真尋のお気に入りのセーターで、大学に行くときによく着ていくものだった。この部屋で目覚めることになる前日も着ていた。当然今も着ている。
その赤さが、突然強い意志を持ったかのように真尋の目に映ったのだ。
赤……。
赤いボタン……。
真尋は首を軽く横に振る。
自分の着ているセーターが赤いから、赤いボタンを押す。それは本当に浅はかな理由だった。理由と言えるものですらなかった。そんなことは真尋にも分かっていた。
だけど、そんな理由といえないようなものであったとしても、何でもいいので自分の行為に理由付けが欲しかった。ボタンを押すことで何が起こるのかは分からない。ボタンを押すことが怖くて怖くてたまらない。それでもどちらかのボタンを押さなければならない。だからこそ、ほんの小さなものでもいいので拠り所となるものが欲しかった。
赤いボタンを……、押そう……。
真尋はボタンの前に向き直る。
すぐ目の前に黒と赤のボタンがあった。
右手を上に持ち上げる。その人差し指はその赤いボタンのすぐ前に来ていた。そして意を決してその人差し指をゆっくりと前に押し出す。赤いボタンは抵抗もなく沈んでいった。
その時だった。
ガチャリ……。
真尋のすぐ近くで、物音が聞こえた。
驚いた真尋はびくっと一度体を震わせてから、慌てて右手をボタンから離す。そして身構えるようにその小さな部屋の所々に視線を巡らせた。
見た目では特に異常は見当たらなかった。
何の……、音……?
真尋はさきほどの音を必死になって記憶の中から引っ張り出す。
確か、自分の左側から聞こえたような気がする。
そして、自分の左側には、鍵がかけられて開けることができなかったドアがあった。
真尋はゆっくりとドアに近づく。
先ほどは全く開くことがなかったドア。そのドアに設けられた鈍く光るドアノブ。
右手を持ち上げ、そのドアノブを握る。金属製のドアノブの冷たさが真尋の手のひらを通じて、体の中に流れ込んでくる。真尋はそこで一度大きく息を吐いてから、意を決してそのドアノブを握る手に力を入れた。
先ほどは全く回ることがなかったそのドアノブは、何の抵抗もなく最後まで回転した。
開いた……。
そのままドアを向こう側に押し込む。
ドアはぎいい、と耳障りな音を立てて真尋の前で開かれていった。
そして初めに真尋の目に飛び込んできたのは壁だった。
どういう……、こと……。
真尋は心の中で呟く。
ドアの向こう側は、それまで真尋がいた小さな部屋と同じような小さな部屋が続いていた。
だけど、そこにはドアは一つしかなかった。
真尋が今開けたドアが一つあるだけ。つまり、この小さな二つの部屋は一つのドアでつながっているだけで、それ以外にどこにも出口は無かった。あるのは壁だけだった。
とりあえず隣の部屋に入ってみようと、真尋はそのドアの向こう側に体をゆっくりと滑り込ませていく。そして握っていたドアノブから手を離した。ドアは開いた時と同じように耳障りな音を立てて閉じていった。
完全にドアが閉まった時だった。
ガチャリ。
隣の部屋で赤いボタンを押した時と同じような音が、真尋のすぐ後ろで聞こえた。真尋は驚いて後ろを振り返る。後ろには完全に閉じられたドアがあった。
まさか……。
慌ててドアノブを握る。
だけどそのドアノブは、二度と回ることは無かった。
真尋は先ほどの部屋にもう戻れなくなってしまったことを知り、何か取り返しのつかないことをしてしまったような気持ちに襲われる。ただもはや手遅れだった。
だけど、先ほどの部屋に閉じ込められていた状態から状況が変わったことだけは確かだった。それが前進なのか後退なのかは分からない。それでも、
「立ち止まったまま何も変わらないより、ましだよ……」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして気を取り直して部屋の中に視線を戻した。